ニコ-1
壊れても消えないもののはなし
「ただいまです」
「おかえりぃ」
「!」
家の玄関を開けてそう言うと、誰もいないはずなのに返事があり、ニコは驚いてリビングに駆け込んだ。
「おかえり、ニコ」
「た、ただいまです…」
呆然とするニコにくるりと振り返ったその人は何でもないように笑う。
──今日お休みじゃなかったはずなのに。
キッチンで鼻歌を歌う彼、ロンは今日の朝もいつも通りに仕事に向かったはず。仕事の日は夕方過ぎに帰ってくるのに、こんな昼間に家にいるなんて。
──もしかして体調が悪いとか?
はっと気づいてロンを見上げると、ロンは鍋をかき回している最中だった。
ロンは職業柄か分からないけれど、自分の感情を隠すのが上手だとニコは思っている。だから体調が悪かったとしても自分に気取らせないようにする気がして、そっと隣に並んで気づかれないように横顔を伺ってみた。
「どうしたの?ニコ」
「…いや、何でもないです」
案の定直ぐにバレた。
しょうがないので直接聞こう、とニコは観念した。
でもどうやって聞こうかと悩む。
どうして家にいるのか、なんてまるで帰ってきたことを咎めるみたいだし、だからといって仕事は?と聞いたら仕事をしっかりやってないみたいだ。ロンに限ってそれはないからそんな事を聞くのは気に障るかもしれない。
そんな事をぐるぐると考えていると、カチリと何かの音がしてニコは自分が考え込んでいた事に気づいた。
「ニコ、また色々考えてるでしょ」
さっきの音はコンロのスイッチを切った音だったらしい。
そう言ってニコの視線に合うようにしゃがみこんでくれたのはロンで、あ、と固まる彼女を彼はよいしょ、と抱き上げた。
「ろ、ロン重い、ので…」
「聞こえない聞こえなーい」
間延びした声でくすくすと笑う彼と一緒になって抱えられたニコの体が揺れる。
彼の頭の上の耳もぴこぴこと動く。
書物の入った鞄ごとなんて絶対重いのにと思いニコが控えめに抵抗するが、ロンはなんでもない様に軽々と移動すると、ニコを抱えたままソファに座り込んだ。
「はい、到着ー」
向かい合うように座らせられると、ロンの背後のしっぽがゆらりと揺れた。
それを見てニコは少しだけ安堵する。彼のしっぽが元気そうなので、すごく体調が悪いという訳ではなさそうだと思ったのだ。
じゃあなんて聞こう。…それとも自分がロンに何かを言うなんて烏滸がましいだろうか。
うんうんとニコが無い頭を捻って考えている時、ロンは決して急かさない。だから彼女も落ち着いて聞きたいことを考えることに集中できた。初めは気づかなかったけれど、そうやって待ってくれる人は意外と少ないと今なら知っていた。
そんなことを頭の隅で考えながらどうにかニコはロンの気分を一番害さなそうな言い方を見つけた。
「えっと、今日はお休みでした?」
これなら休みだったとしても休みじゃなかったとしても、自分の勘違いが悪いとなるはず。
ニコはそう思って言ったけれど、言ったそばからもっと他の言い方があったかもしれないと不安になる。もしかしたら何故そんなことを聞くのかと不審に思うかもしれない。
そんなニコの心配をよそに、ロンはやはり笑顔を浮かべたまま、何も気にしていないという様子でニコの質問の意図までくんで答えてくれた。
「ああ、僕がいてびっくりしたよねぇ。
今日は仕事行ってきたけど、午前中で早退してきたの。ちょっと用事があったから」
早退、という言葉にやはり体調が悪いのかと心配になったが、そうではないようでほっとしたニコ。
「そうなんですね…はい、びっくりしたので」
「ごめんね。言っておけばよかった」
苦笑したロンにニコは首を振る。ロンの予定をただの居候如きである自分が知る必要はないと思ったから。
「大丈夫です。えっと、おかえりなさい」
慌ててニコがそう言うと、ロンはふんわりと柔らかに笑った。
その笑顔を見るとニコはいつも不思議な感覚がする。
夕飯の支度の続きをするロンから退いて、彼女は自室に戻ると鞄を置いて部屋着に着替えた。
……本当はロンが帰ってくるまでの間に考えたいことがあった。
それはロンに言おうとしていることをどうやって言うか、という事で、自分は人よりも言葉を考えるのに長く時間がかかるから、家に帰ったらロンが帰ってくるまでに考えようとニコは思っていた。
だからロンが既にいて余計に驚いたし、少しだけどうしようと思った。
この様子だときっと夕飯が出来上がるのもすぐだろう。
夕飯は2人で食べるからその時に言おうとおもっていたけど、いつもよりその時間は早く訪れそうだ。
どうしよう、なんて言おう。ぐるぐるとニコが考えていると、ニコ、夕飯できたよ、と扉の外から声がかかる。
「は、はい」
慌てて部屋を出るとロンとぶつかりそうになり、危ないよ、受け止められた。
ぽふとロンの胸辺りにニコの頭が当たる。
「ご、ごめんなさい!」
ニコは急いでロンの体から抜け出し謝罪する。
ロンは全く気にしていない様子でいつも通りの柔和な笑顔を浮かべていた。
「怪我は?」
「大丈夫です。ロンは…」
「僕も大丈夫。ニコとぶつかったくらいじゃ怪我しないよ」
そう言って笑われた。
確かにと納得しロンと2人で食卓に着く。
既にカトラリーまで並んだ状態に用意されていて、ニコは自分の考えごとに夢中で何も手伝いをしなかった自分を恥じた。
「……ロン、手伝いしなくてごめんなさい」
「んーん、大丈夫だよ。ニコだって勉強した後なんだから」
……彼だって仕事をした後なのに。
ロンは優しいからそう言ってくれるが、それを聞いてニコはやっぱり言おうと決意を固める。
食事を用意するのはいつもロンだ。仕事の日は朝仕込み、夜は温めるだけの状態にして仕事から帰ってきた彼がそれを温めて2人で食べる。どうしてもロンが朝準備できなかったり、夜一緒に食べれない時は予めお金を渡されてニコは近くの食堂に食べに行っている。
ロンの料理はおいしい。
季節の野菜を使ったスープも、ハンバーグもきっと美味しかったはずなのに、その日のニコは食事の最中もどうやって言おう、なんて言おうと考えてしまい、全く味を感じられなかった。
「はい、デザートだよ」
頃合を見計らってロンが冷蔵庫からプリンを出してくれてスプーンで食べているときもニコは上の空だった。
「ニコ、美味しい?」
「はい」
「そっかぁ…ニコ、プリン好き?」
「はい」
「……じゃあニコ、僕のことすき?」
「は、」
上の空のまま返事をしていたらそう問われて、ニコは漸くはっとロンの方を見た。
ロンは悪戯が成功したかのようににっこりと笑う。その表情はいつも通りに見えて、ニコは冗談に決まってるとほっと息を吐いた。
「考えごとはもういいの?」
「えっ、あっはい!」
笑顔のままそう言われてニコはやっぱりバレていたことに対する気まずい思いと、知っていて放っておいてくれたロンへの罪悪感が募る。
そしてさっきのやり取りで考えていたことは全て吹き飛んでしまったけれど、これ以上悩んでもきっと答えは出ないと覚悟を決めた。
「あの…ロン、その……」
「んー?ゆっくりでいいよ」
そう言うロンのオリーブ色の瞳は優しい。
ロンはいつも優しい。それは初めて出会った時から3年経つ今でも全く変わらない。
「わたし、料理がしたい、です」