夏の貴女の空遠く
夏が終わろうとしている。
数年に一度の尋常ならざる熱波がこの国を襲い、人々の活動も例年より一際緩慢であった今年の夏も、それはそれとして例年通りに終わろうとしている。
大人も子供も皆暑さに疲弊して、各地で最高気温更新だとか暑さに要注意だとか、世間はそんなお粗末な状態で、良くも悪くも僕らの頭と体に強く印象を残して、夏の暑さはたぶんこの星の反対側に向かって舵を切っている。
とはいえ、晩夏、と言うにはまだ暑すぎる。残暑なんて言葉もあまりに相応しくない。遠くから蝉の鳴き声が聞こえた気がする。僕は額を伝って鼻の頭をくすぐる汗を拭う。
『えー、このグラナダの陥落により、レコンキスタは終焉を迎え──』
この暑さはつまらない世界史を聴講している時の眠気でさえ打ち消す。汗で肌に張り付くワイシャツの不快感が更に目を覚まさせた。とはいえ、昨日から僕の隣の窓側の席には誰もいないおかげで、風が通って幾分かマシではある。
ふと、僕とは四角い教室の対角に座るポニーテールの女子が、おもむろに立ち上がった。顔色がすこぶる悪い。
「先生、あの……」
「大丈夫か? 授業はいいから、行っていいぞ」
男性教諭がそう告げると、女子は口元を手で覆いながら教室を出ていった。この暑さだ。体調を崩すのも無理はないだろう。
それから結局、彼女が帰ってこないまま世界史の授業は終わった。
そしてその次の現国も、その次の数IIも、彼女は戻ってこなかった。
「気の毒だよな。朝からあれだけ暑けりゃな」
昼休みになって、僕の机に弁当を広げながら、友人が他人事のようにぼやいた。
「さっさとエアコンくらい直してほしいよな」
下敷きを団扇のように扇ぐ彼に、僕は心底同意する。
経費削減などという取って付けたような理由で、僕たちの教室のエアコンにはもう随分と火が入っていない。おかげで申し訳程度のそよ風を窓から入れる以外、暑さを紛らす手段がない。
「帰りにコンビニ寄ろう。暑さに打ち勝てるよう、自分への褒美を先に買おうぜ」
それは名案だと、僕はすぐに快諾した。
「あ」
放課後、オアシスを求めて立ち寄ったコンビニには、何故かポニーテールの彼女がいた。制服姿のままだった。
彼女は僕たちを見て驚いた顔をしてから、取り繕うような苦笑いをする。少しやつれている様子だった。
僕は咄嗟に、もう大丈夫なの? と切り出してしまう。
「まだちょっと辛いけど、大丈夫だよ。ありがとう」
優しい声音が、いやに距離を感じさせた。
もっと気の利いたことを言った方がよかったかと反省している間に、友人が暑くて我慢できないからと飲み物を探しにいってしまった。
置いていかれた僕と彼女は、仕方なくケースを挟んで向かい合いながらアイスを物色する。
「そういえば」
彼女は一番安いアイスキャンディーを手に取りながら僕を見た。
「前にもこのコンビニで会ったよね。その時もこれ、食べたっけ」
自分と同じものを僕へ差し出す彼女の顔は、空元気にも程があった。
一番安いアイスキャンディーを食べながら帰宅すると、両親がテレビで天気予報を観ていた。どうやら明日は、僕たちの街を中心に、今日の比にならないくらい暑くなるらしい。
9月も終わりなのにまだこんな猛暑日が続くのかと、辟易しながら自室に戻った。母が階段の下から大声で何か言っていたが、今日の帰りに頼まれていたはずのお遣いを忘れたことでも咎められているのだろう。
図らずもニュースを見てしまったおかげで、糸を引くように明日の暑さを気にしてしまう。頭の片隅に顔色の悪いポニーテールの彼女の顔がちらついて、胸が少し苦しくなる。
彼女の言っていた通り、僕たちは以前あのコンビニで偶然会った。あの日は今日よりも暑くて、同じようにアイスを買いにコンビニへ寄ったら、そこに彼女がいた。
たった一度、好きなアイスについて話しただけ。
耳の奥で蝉の声が聞こえる。耐えきれなくなった僕は、食べ終わったアイスキャンディーの棒をゴミ箱に放り込んで、シャワーも浴びずにそのままベッドに突っ伏した。
翌日の気温は、天気予報と僕の心配に反して、不気味なほど穏やかだった。
それでも、後方に見える陽炎が僕を嘲笑っているように感じる。それから逃げるように教室へ駆け込むと、いつもの友人がいつもより少し暗い顔で「おはよう」と挨拶をしてきた。
その日は授業に先立って、全校集会が開かれた。
教室から体育館へ移動する時も、体育館に全員が揃った後も、いつもの騒がしさが満ちている。満ちているのに、僕の心持ちは全くいつも通りではなかった。
「えー、今日は皆さんに残念なお知らせがあります」
校長先生がステージの上から、はきはきと決まり切った文句を言う。
「昨日の戦闘で、我が校の2年B組、出席番号3番の女子生徒が戦死致しました」
汗が一滴、鼻の頭から床に落ちた。
体育館は暑い。こんな猛暑日なのに、開け放たれた窓から風も入ってこない。
暑い。──はずなのに、寒気が止まらない。
「彼女は昨日徴兵されたにも関わらず勇敢に戦い、一晩のうちに多くの敵を倒して──」
生ぬるい黒々とした現実に頭から包まれていく。
僕は、自分の感情を押し殺している間に、気がつけばこんな結果を招いてしまっていた。
たった二度コンビニで言葉を交わしただけの関係で、僕はいつも教室の対角線上で彼女を見ていた。
僕は、彼女に恋をしていた。
この国は今、戦争をしている。
敵を見たことはない。『夏』──かつて季節としてそう呼ばれていたもの、という話を聞いたことがある。超高温の体表と人々の感情を食らうのが特徴の、得体の知れない何か。
彼らは時間をかけて移動し、人々を襲う。人々は彼らが自らの国を通過するまでの間、最も感情の機微が激しい僕たち子供を、動く鉄の棺桶に入れて戦わせる。
彼らはとりわけ人の恋慕を好み、絶望を嫌うという酔狂な性格らしい。
だからまず、恋が許されるのは戦場だけになった。
戦場以外の恋慕の抑制を名目にクラスメイトの名も知らぬまま教育を受け、その俎上で誰かに特別な感情を抱いてしまえば、『感情を抱かれた人間』が徴兵される。
それは僕らに、恋慕以上の絶望を与えるため。
絶望さえあれば、この街を彼らの脅威から遠ざけられる。
笑ってしまうくらい、この制度の思い通りになった。
つまり──彼女を殺したのは、僕だった。
ポケットの中で携帯が震えた。
見ると、知らないアドレスからファイルが添付されたメールが一通届いていた。