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青の335(サンサンゴ)  作者: 七里はるか
秘密の洞窟と少年のギター
1/3

四月の想い出

挿絵(By みてみん)


【おもな登場人物】


稲村いなむら なぎさ:高校一年生。親の離婚がきっかけで部活を辞めて内向的な性格へと変わってしまった。


稲村いなむら まい:凪の母。凪が中学三年生の春に夫と離婚した。


秋谷あきや ひびき:凪の幼馴染。小学から中学まで凪と同じ声楽部に所属していた。


"...I thought about you..."


ジャズが聴こえる────


 高校の入学式の朝、なぎさはいつもの曲で目が覚めた。彼女の母が食事の支度をするときは、いつもこの曲を流しているのだ。スローテンポでバラード調のピアノに感情的で緩急のあるボーカルが自由に絡みついていく。


 凪は、この曲が嫌いだった。単にリズムや歌い方の問題ではなく、母と離婚した父親がいつも演奏していたからだ。凪の父はピアニストで、毎晩クラブで演奏をしていた。遅くに帰ってくる父は、いつも母とケンカをしていた。凪の記憶では、それは一方的に父を責めたてる母のヒステリーのようなものであったが。


 そして、凪が14歳になった春に父は家を出ていなくなってしまった。突然、母と2人だけの生活になった。困惑と驚きがぐるぐると渦巻いているうちに、彼女の心は押し潰されてしまった。

 それからというもの、小学校から続けていた声楽部をやめて、自分の殻に閉じこもってしまった。波のひとつない海のように静かに暮らしたいと思った。凪という名前のように。


 それなのに毎朝、家族を捨てた父の曲が凪を夢から覚まして現実へと引き戻す。別れた男の曲を、未練たらしく流す母にも凪はうんざりとしていた。

 階下から聞こえる音楽を消そうと窓を開けた。家の前の桜は、今にも咲きだしそうなつぼみを膨らませて新緑の香りを漂わせていた。新しい季節を感じさせる光景に普通の女子高生なら、部活や恋の予感に胸を躍らせるのだろう。しかし凪はそうではなかった。


 今日から通う高校は、卒業した中学校から数分の場所にある。もちろん、同じ中学から進学する生徒は多かった。凪の家庭の事情を知る者も少なく無いだろう。高校でもすぐに話のネタにされるのだろうと思うと、また気分が落ち込んできた。

 凪の母は独りで喫茶店をきりもりしていた。こんな家庭で市外の高校に通いたいと贅沢も言っていられない。というよりも、中学3年になってからまともに授業を受けていなかった凪にとって、この学校が精いっぱいだったのだ。


 「ご飯ができたわよ、降りてきなさい」

 キッチンから母の凪を呼ぶ声が聞こえる。

 「わかってる」

 不機嫌そうな凪の返事を無視して、母はドアをぱたんと閉じた。


 パジャマを脱ぎ、シャツのボタンを締めてスカートを履いたところで凪の手がピタッと止まる。

「ネクタイってどう巻くんだっけ・・・。」

 中学の頃の制服はリボンだったので、ネクタイの結び方が分からなかった。高校生になってまで、母親に服を着せてもらうというのは恥ずかしい。自分でなんとかしようと、スマートフォンを取りだした。「ネクタイ 結び方」で調べると、まるであやとりのように、複雑な手順が描かれた画像が画面いっぱいに並んだ。その中の一つをタップして、一つ一つ手順を確認する。鏡に映った左右反転の姿に四苦八苦しながらネクタイを結んでいく。


「これ、絶対結べてないよね…。」

 仕方なく、凪は首元で緩んだネクタイをむりやり絞ってヘアピンで挟んだ。これで母親にはバレないだろう。そう思っていたのはどうやら彼女だけだったようだ。階段を降りているうちに、ネクタイはだらしなくほどけていった。


 キッチンへ向かうと、テーブルには朝食が用意されていた。トーストとコーヒー、そして凪の苦手な半熟の目玉焼きだ。

「いつも固焼きにしてって言ってるのに」

「つべこべ言わずに食べなさい」

 凪がぶつぶつと不満を言うが、母は無視してキッチンで片付けを続けていた。


 テーブルに戻った母が、食パンを口に運ぶ凪の胸元に手を伸ばす。とっさに凪はその手を払った。

「何なのそのぐちゃぐちゃになったネクタイは」

「あ…」

 そう言われて凪は自分の胸元を見ると、ネクタイはかろうじてヘアピンで繋がっていた。それは、いまにも重力に白旗を挙げるところだった。

「食べ終わったら自分で直すから」

「ふぅん」

不敵に笑う母の視線が、ネクタイに付いているヘアピンに注がれる。凪はすぐ気づいて取り外す。そして、こうするために付けておいたと言いたげに前髪を留めた。


 ピンポーン、と玄関でインターホンの音がした。

母はあんたが出なさいという顔で凪の方を見た。テレビを見ながら気づいていないふりをしている凪にしびれを切らして母は立ち上った。ドタドタといらだたしい足音と共に玄関にむかっていく。ドアが開く音がして、母と女の子の話し声が聞こえる。


 すぐに母が戻って来て凪に声をかけた。


ひびきちゃんが来たわよ。はやく行きなさい。」

 響は凪の小学生から同じ声楽部の幼馴染である。凪がふさぎこんでしまった後も変わらない態度で接していた。

 凪にはそれが同情に思えて余計に辛かったのだ。学校でも家庭でも孤立してしまった自分を心配してくれたのだろう。

「先に行ってもらって」

 響に聞こえないように、凪は小さな声で母にそう言った。

「早く行きなさい」

 母は表情も変えず凪を立たせた。そして、玄関に向かって背中を軽く突き飛ばす。

よろよろとした足取りで玄関に出ると、カバンを持って立っている響と目が合った。


 艶のある清楚な長髪と上品に整った顔、そして、制服に身を包んだ凛々しい姿に完成された美しさを感じた。

「おはよう」

 響の濁りのなく澄み切った笑顔が凪の心にチクリと刺さる。

「おはよう…」

 凪はドアから踊り込む風にかき消されそうなほど小さな声で挨拶を返した。

「ネクタイ」

 響はくすっと笑いながら、凪の首からぶらさがっているだけのネクタイに向かって指をさす。

「あー…」

 凪はすぐに気づいてネクタイを結ぼうとするが、結び方が思いだせずにあたふたとしていた。

「ほら、貸して」

 響は凪の手からネクタイを取った。ネクタイの大剣たいけんをくるりとひと巻きして、襟元からくぐらせる。そして、ちょんちょんと引っ張りながら結び目を締め上げた。

「これで完成です」

 響はえっへんと胸を張る。

「おー…」

 凪は感心して間抜けな声をあげた。廊下から2人のやりとりを見ていた母は、くすくすと笑っている。


 下駄箱から革靴を取りだして、靴べらに沿わせて踵をすべりこませていく。すると、凪の目の前に、響の真っ白でほっそりとした足が飛び込んできた。それは、あまりに真っ白で人形のようであった。まばたきを忘れ、なめるように下から上へと視線を運んだ。そして、スカートにさしかかるあたりで我に返った。恥ずかしさで燃えそうなほど顔が熱く感じる。凪はぶんぶんと頭を振った。


「もう行くよ」

凪の頭の上から響の声が聞こえた。響が笑顔で手を差し伸べてる。手を握ろうか迷っていると、響は凪の手を掴んでぐいっと引き上げた。重心を失いながら立ち上がると、響に身体を預けるようにもたれかかった。響の肌からは、ふくよかで甘いいい匂いがしてきた。

「シャンプー変えたんだ」

 響には、凪が何を考えているのかが分かっていたようだ。

「そうなんだ」

 凪は恥ずかしくなって、興味がないような口ぶりで答えた。バランスを取り戻すと、響は手ぐしでさっと凪の猫っ毛を整えてあげた。

「おばさん、行ってきます」

 響の明るい声が廊下に広がる。母が小さく手を振りながら、声に出さず「よろしくね」と唇を動かした。


 玄関を出ると、家の前の並木は葉洩れ日が複雑な模様を描いていた。反射した朝日がまぶしくて凪は目を細める。響は笑いながら顔をのぞきこんできた。それが恥ずかしくて、できることなら目をつぶっていたいと凪は思った。そんな気持ちも知らず、響は握った手をぐいぐいと引っ張る。二人は校門へと続く道を歩いていく。


それが、凪の四月の想い出だった。


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