満ちぬ虚ろ
時計の針は、外れて落ちている。針は落ちていても音は止まらない。かちり。かちり。かちり。それは床に落ち、私に落ちる。針の鋭さで私をつついている。私の身体は少しずつ痺れ、音は少しずつ遠くなっていく。その中で私の思考だけがはっきりと尖り始める。針のように。
――――彼がやってくる。私の許へやってくる。
かちり。かちり。かちり。
時間が進んでいく。ひとつひとつ進んでいく。酷く心が凍えていく。少しずつ、確かに冷えていく。冷たい床に転がって冷える身体を感じる。床は酷く硬い。それは私を受け入れるどころか、逆に私の身体の中へその冷たさと硬さを食い込ませてくるような感じがする。冷たさと硬さが皮膚を食い破る。私が冷たく硬くなっていく。恐怖がにやりと笑う。
かちり。かちり。かちり。
時計の音が心臓を急かす。一定の速度を保ってこの心臓を急かす。傷口の脈動を感じる。軋むような音。痛い。
痛い。
痛い。頭の中が埋まっていく。かちり。かちり。かちり。寒い。身体が冷えていく。寒さが頭の中を埋めていく。冷えた石の色になっていく。けれど、それはすぐさま薄れて、瞬く間に消えていく。そしてまた押し寄せ、染み入り、消えていく。石。冷たく硬い。波のような石。石のような人。石のような愛。
私は石にはなれない。石を欲しがるものは石ではない。それは私の外に石があるという証拠になる。私は石にはなれない。だからこそ私は石の冷たさと硬さを感じる。石の冷たさと硬さを欲している。私は石にはなれない。だからこそ石の冷たさと硬さを愛している。愛している。そう愛している。
かちり。かちり。かちり。
茶色く錆びたシャツは刺々しく荒々しい。少し動く度、やすりのように背中を削り取る。傷口に爪を立て、そのまま引き剥がして笑う。かちり。かちり。かちり。彼は痛みの中にいる。それを思う。彼は与えてくれる。痛みの中から私の中に満ちていく。私は鋭く息を吸い込み、身体を丸める。背が軋む。私の背にある傷。左肩から右尻にかけて深く刻み込まれた傷。彼がくれた傷。彼と私を繋ぐ傷。通路。それが開く音が聞こえる。軋むような音。シャツが舐め上げる。痛みが内臓までをも貫いてくる。痛い。
痛い。
痛い。小刻みに息を吐きながら、私は身を震わせ、そして笑った。彼と私だけの部屋。私が彼を求め、彼は私を求める。私は彼と共にあり、彼は私と共にある。削れた私を彼が埋める。彼の寂しさを私が埋める。彼と私だけの部屋。彼と私の、欲望、狂気、愛情。全部全部詰め込んだ、小さな部屋。小さな私。私が自力で見ることのできない背中には、彼の心が苔のように張り付き、花のように根を伸ばしている。私の血を啜り、苦鳴を喰らってそれは育つ。彼の欲望。彼の狂気。彼の愛情。私の痛みでそれは育つ。かちり。
かちり。かちり。かちり。
時計の音。その隙間を埋めるように部屋に満ちるオルゴールの音。一体いつ螺旋を巻いているのか私は知らない。寝ても覚めても、ただひたすら同じ音を奏でている。一定の速度を保って鳴っている。かちり。かちり。かちり。それが終わる時を私は知らない。円盤がいつ回転をやめるのか私は知らない。これは彼の心が求めているものなのだろうか。この音は彼に望まれているのだろうか。この音がやんだら彼は悲しむだろうか。この音が止められるのを彼は嫌がるだろうか。彼はそれに怒るだろうか。私があの音を止めたら、彼は私を怒ってくれるだろうか。怒って、怒って、そして、いつもより強く、多く、深く、愛してくれるだろうか。愛してもらえるのだろうか。オルゴールの針。時計の針。突き刺さる音。痛い。
かちり。かちり。かちり。突き刺さる音。その隙間。彼の足音が聞こえる。音がしなくても聞こえる。一秒ずつ彼はこの部屋へ近づいて来る。私の中へ置き去りにした心を、私の許へ取りに来る。背中が震える。傷口が歌う。シャツが削る。たくさんの瞳が私を見つめている。それは冷たく硬い。
石。石のような瞳。
部屋の中には私と、私の背の彼と、私と彼の子がいる。たくさん並んでいる。たくさん並んで、その丸く見開いた瞳で私を見つめている。瞳しかない目をこちらへ向けている。私と彼の愛だ。彼の愛はとても愛しい。愛らしい。彼の愛らしい愛が私の血と混ざって生まれた子供たち。たくさん並んで私を見ている。愛らしい。私の背に根付く彼の愛を見ている。まっすぐな眼差し。彼が私を愛する時と、寸分違わぬ眼差し。背筋が震え、シャツが削る。痛い。痛い。痛い。
こんこん。
痛い。
こんこん。
痛い。鼓膜が震えているのがわかる。私という存在が根底から揺さぶられる。
彼だ。彼の音。彼が私を求める音。
彼は私を求めてこの部屋にやってくる。当たり前のことだ。本当ならノックなどいらない。私は常に彼を求めている。彼が私を求めるのは当然のこと。それでも彼はノックをする。私がノックを返すのを待っている。彼もまた私に愛されることを求めている。彼が愛するのは愛されたいから。私が愛するのも愛されたいから。その相互関係の中に私たちはある。じわりと扉へ這い寄る。全身が軋み、傷口が歌う。痛い。苦しい。怖い。浮かび上がっては弾けて消えていく。痛い。苦しい、怖い、それ以上に私は彼が欲しい。彼に愛されたい。彼の愛が欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。痛い。
こんこん。こんこん。私は扉を叩く。
沈黙。
濃厚な沈黙。
鼓膜を溶かすような沈黙。
沈黙。
足音がひとつ。
それから、ふわりと扉が引かれる。視線を上げた。その先で彼は、にこりともせずに私を見下ろしていた。白い肌。硬い表情。そしてその、余りにも真っ直ぐで、あまりにも冷たい、眼差し。
視線の交錯。胸の高鳴り。傷の疼き――――。
ああ。愛しい人。
私の愛しい人。
私を愛してくれる人。
上体が軽々と伸び上がる。背の痛みはほんの一瞬ぴきりと喚いた後、彼の愛に吸い取られて低い唸りだけを残した。彼の身体が空気をかき混ぜる。その波が私の身体を煽る。私の全身が彼の存在を感じ取った。彼は私と共にあった。身体が震える。それを逃がすように彼の左手を取る。透き通るように白く細い手。鋭さを帯びた長い指。その人差し指の先に唇で触れた。冷たく硬い感触。それは軽く吸い上げると花のような彼の香りがした。ほんのりと塩辛い彼の味がした。舌で僅かに触れればまた彼の味が強く訴えてくる。冷たさ。硬さ。それは彼の香りと味と相まって私を酔わせる。私の中へ染み込んでくる。じわりじわりと根を下ろしていく。
そっと目を閉じる。彼の皮膚。彼の体温。彼の血流。私の皮膚。私の体温。私の血流。
そっと目を開ける。彼の皮膚。彼の体温。彼の血流。私の皮膚。私の体温。私の血流。
彼と私の皮膚。彼と私の体温。彼と私の血流。冷たく硬い眼差し。今、私と彼は繋がった。喜びが血管を巡る。背が軋む。シャツが削る。
彼はゆっくりと部屋の中に入り、後ろ手に扉を閉めた。気怠げな速さで私の前に両膝をつく。私は人差し指から唇を離す。彼の両手が私の肩に置かれ、私の身体が喜びに震える。彼の手を感じる。彼の手に触れられる私の肩を感じる。彼の手を肩に感じている私を感じている。彼の両手は私の肩を撫でる。関節の丸みが分かる。彼の両手は私の輪郭を幾度も幾度もなぞり上げる。全身が慄く。怖い。痛い。愛しい。
彼は両手で私の肩胛骨を辿り、そのまま私を抱き寄せた。優しさも冷酷さもない、ただただひたすらに冷たく硬い抱擁。私の両目は彼の体温の中へ沈んでいき、暗闇の中で彼は私の輪郭をなぞる。その手。その腕。その胸。官能的というには余りにも冷たく硬い感触。けれどそれは私の身体を芯から揺さぶり、彼の方へと傾かせる。全てを預けろと囁く。私は全てを預けてしまう。それでもいいのだ。これは私だけに許された特権。私だけが得ることのできる快楽。彼の両腕が私をより深く抱く。私の背に手をかける。酷く湿り気を帯びた吐息が漏れる。それは彼の肩を撫で、その皮膚に染みる。背が軋む。シャツが削る。
私は彼の体温の中へ沈む。沈み続ける。彼はその冷たく硬い手で私のシャツを剥ぐ。私の輪郭へ直に触れる。私の唇はひとりでに開き、幾重にも幾重にも彼の肩を湿らせる。
彼は私の背の皮膚に全ての指をかける。私の身体はぴりりと引き攣って溶けた。そのまま、彼は私の背を左右に割り開く。
仰け反った。
それによって捩れた傷口がより強く痛むことを彼は知っている。私も知っている。知っているからそうする。痛い。
痛い。
痛い。
痛い。閉じられない口。そこから枯れ切った苦鳴が零れ落ちる。後から後から湧いて出てきて私の口を汚す。彼は虫の這うような動きで指を蠢かせ、私の背をより広く深く割り開いていく。痛い。そこに彼と私の接点がある。
彼が与えてくれた傷。彼が与えてくれる苦痛。私は彼の体温の中へ沈んでいくことしかできない。それは冷たく硬い。私を受け入れるどころか、私の身体に食い込んでくる。痛い。内臓まで響く痛みに全身が引き攣る。痛い。苦しい。怖い。頭の中が埋まっていく。全てが混ざり合い、溶け合い、白く白く澄んでいく。それは恐ろしい程に甘美な快楽だ。私と彼は互いの輪郭を確かめながら、それを曖昧にしていく。私と彼はひとつひとつの瞬間ごとに重なり合い、混ざり合い、溶け合い、白く白く澄んでいく。彼の吐息もまた酷く湿り気を帯びていた。私の首筋が彼の吐息に濡れていく。濡れた首筋は震える。震えながら冷えていく。白く白く冷えていく。少し彼と似ている。それが堪らなく嬉しい。身体が震える。深く仰け反る。
彼の指は私の背を這い回り、私の傷は割り開かれ、流れ出る私の体温を彼は空いた指で何度もすくい上げた。彼の手は濡れていた。ぺたりぺたりと私の背に張り付いた。彼の右手は私の背に張り付き、肩に張り付き、首に張り付き、頬に張り付き、そして唇に張り付き、親指がその隙間へ入り込んだ。濃厚な鉄の香り。
錆びた鉄の香り。
私が彼に与えられる唯一のもの。私は痛みに喘ぎながら、差し込まれた親指を舐めた。彼の冷えた親指を吸った。透き通るように白く細い手。暗い錆色に汚れた手。その親指。軽く吸い上げると花のような彼の香りがする。ほんのりと塩辛い彼の味がする。それは彼の香りと相まって私を酔わせる。鉄と錆と彼と私とその指は私の中へ押し込まれ、私はただそれに酔う。彼の吐息が私の首筋を湿らせる。割り開かれる背が全身を震わせ、唇と指の隙間から錆色の苦鳴を零れ出させる。それは彼の手を撫で、ゆっくりと湿らせていく。
私はそっと目を閉じる。彼の皮膚。彼の体温。彼の血流。私の皮膚。私の体温。私の血流。全ては別の何かでありながら、別の何かであることをやめないまま私の感覚の中へ流れ込んでくる。突き刺さる苦痛。湿った吐息。全ては私の感覚の中で混じり合い、私は私の中に彼を感じる。濃厚な鉄の香り。
錆びた鉄の香り。
私の肌の上を滑った彼の左手は傷の端をなぞり、傷の壁をなぞり、その奥に触れる。冷たく硬い手。私の傷の奥を何度かさする。それから。
貫いた。
衝撃。
痛み。
叫び。
私は叫んでいる。
苦鳴が止まらない。
呼吸が止まらない。
吐いた息の何割かは彼の右手を湿らせた。私から彼の左手は見えない。その指は傷の奥を突き破っているのだと分かる。私に見えない私。背の傷。その奥。闇。私の知らない私の一部。
彼の吐息が濡れている。私の苦鳴は彼と私の接点だから。彼と私は今つながっているから。彼の目から溢れた体温が私の頬を伝う。口に入れば彼の味がする。身体が震え、傷口が喚く。冷たく硬い指。皮膚を舐め、傷をなぞり、そして更にその奥へ突き刺さる。錆色の痛み。痛い。それは愛しい。
傷の奥には痛みがない。
ぽっかりと口を開けた空虚。きっと私の中は空っぽなのだろう。私の奥底に潜む空虚。彼の温もりは、吐息は、その手、その眼差しの冷たさは、硬さは、ただ私の空虚の外側を撫でていく。私の空虚を埋めないまま。彼は私を満たしはしない。私は彼を満たしはしない。痛い。酷く痛い。痛い。
目を開く。
冷たく硬い瞳。
視線の交錯。
いくつもの視線との交錯。
部屋の中には私と彼と、私と彼の子がいる。たくさん並んでいる。たくさん並んで、その丸く見開いた瞳で私を見つめている。瞳しかない目をこちらへ向けている。私と彼の愛だ。私を満たしきれない彼の愛、彼を満たしきれない私の愛。私を満たす空虚。彼を満たす空虚。彼の愛はとても愛しい。愛らしい。彼の愛らしい愛が私の血とどうしようもない空虚と混ざって生まれた子供たち。たくさん並んで私を見ている。その子供たちの瞳。空虚な目。冷たく硬い眼差し。私の空虚。彼の冷たさと硬さ。彼の空虚。私の冷たさと硬さ。子供たちは無機質な肌を私の錆色に染めて私を見つめている。錆色のそれはひび割れて落ちていく。彼の愛と、私の愛。
ひとつにはなれない。
私は彼とひとつにはなれない。
部屋に満ちるオルゴールの音。背が軋む。傷口が喚く。呼吸は止まらず、吐息は湿っている。口の中を満たす錆色の香り。それは彼の香りと相まって私を酔わせる。私の外側から。それはいつも私の外側から突き刺される。私の内側には何もないから。私は彼とひとつにはなれないから。痛い。激痛。痛い。
痛い。
痛い。
かちり。
痛みは彼がそこにいることを示す。彼がここにいないことを示す。私は彼とひとつにはなれない。私の中にある空虚。それは背の傷に根を張っている。苔のように張り付き、花のように根を伸ばす。私の血を啜り、苦鳴を喰らってそれは育つ。
ああ。なんて空虚。
彼の親指は私の唇をなぞって離れた。私の体温に浸した指を彼は滑らせる。それは唇に張り付き、頬に張り付き、首に張り付き、肩に張り付き、背に張り付き、その隙間へ入り込んだ。私の傷はより広く深く割り開かれ、流れ出る私の体温を彼は空いた指で何度もすくい上げた。彼は私の空虚を確かめるように私の中へその両手を差し入れた。苦鳴。止められない。開いたままの口。視界の隅に見開いた瞳。まっすぐな眼差し。彼が私を愛する時と、寸分違わぬ眼差し。それらは私に突き刺さる。私の輪郭を冷たさの中に浮かび上がらせる。彼は私を強く抱きしめている。私の内側まで抱きしめている。苦鳴を垂れ流し続ける私を抱いている。
彼は私を見ていない。
ただ彼の目から溢れ出た体温が顎を伝い、私の背に落ち、その隙間に溢れてむず痒い痛みに変わる。もうあまり痛くはない。それでも口は閉じられない。溢れ出る空虚。
空虚。
冷たさ。硬さ。
愛。
かちり。
彼は私に触れる。私は彼に触れられる。私は彼を求め、彼は私を求め、決してひとつにはなれないと知りながら触れる。
痛い。
彼の皮膚。彼の体温。彼の血流。私の皮膚。私の体温。私の血流。全ては別の何かでありながら、別の何かであることをやめないまま私の感覚の中へ流れ込んでくる。全ては私の感覚の中で混じり合い、私は私の中に彼を感じる。私と、私を取り囲む空虚、その隙間に彼はある。彼はそれを知っている。彼は私の空虚のことを知っている。知っていて、そこへ触れてくる。私の痛みを知った上で傷口をこじ開ける。それがどんな痛みになるのか、分かっているから、彼の目は体温を溢れ出させる。それは私に許しを請う。私は彼を許す。そして許してしまう私を許して欲しいと叫ぶ。閉じられない口。それは不規則に喘ぎながら、いつも同じ音を奏でている。
かちり。
かちり。時間は進み、痛みは滲み、その隙間に彼の足音が聞こえる。音がしなくても聞こえる。彼の手は私の傷をなぞる。その輪郭が浮かぶように。私がそれを覚えられるように。
彼の傷口はどんな輪郭を持つのだろう。
彼の苦鳴はどんな音がするだろう。
彼の内側には何が巣食っているのだろう。
彼の体温は何を育てるのだろう。
私は彼のことを何も知らない。
ただ彼は私に触れ、私は彼に触れられる。この痛み。この苦しみ。この冷たさ。この硬さ。それは何のためにあるのだろう。彼の手はただ私に触れる。私の中の空虚を彼は撫で、かき回し、突き刺し、揺さぶる。
彼の手が欲するものはなんだろう。彼を揺さぶるものはなんだろう。彼は、彼の内側には、何があるのだろう。
何もないのではないか。
ひび割れ落ちていく錆色。瞳しかない目。湿った吐息。螺子の見えないオルゴール。冷たく硬い石。輪郭すら曖昧にぼやけたもの。聞こえる足音。曖昧ながらも決して交わらない輪郭を持つもの。
私。
彼。
彼は、私と同じ。彼の中にあるものは、私の中にあるものと同じ。同じ。ぶつかり合って勝手に割れていく。石と同じ。冷たいまま、硬いまま、何も、何ひとつ、変わりはしなかった。変わるはずが、なかった。
ああ。痛い。
いいえ、痛くない。
私は。
かちり。
かちり。
かちり。
か
か
か
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