第16話
何か声が聞こえる・・・
甲高い声だ。 女性の声だろう。
意識が少しずつハッキリしてくると、その声が鮮明に聞こえてきた。
「グレイ、 起きて。 お願いよ・・・ お願いだから起きてちょうだい」
弱々しい女性の泣き声が聞こえてくる。誰が泣いているんだ?
「誰か・・泣いている、のか?」
「グレイ!」
女性の声が聞こえたと思ったら、ガタッと音がして腹部に衝撃が走った。
「うぐぅ?!」
思わず呻き声を上げダウンする。
遠ざかる意識の中、女性の悲鳴が聞こえた・・・
再度意識が戻った時は夜だった。
「お? 輪廻。ようやく起きたか」
聞こえたのは男の声・・・と言うか、チャックの声だった。
「チャック?」
「そうだ、1度目の時はエリーがいたから声を掛けなかったんだが、まさかダウンさせられるとは思わなかったぞ」
「寝起きの無防備な所を襲われたんだよ。仕方ないだろう」
「女性に抱き付かれただけだろう? それで気絶とは、グレイの身体はどうなってるんだ? いや、この場合君の精神の問題か?」
輪廻は苦虫を噛み潰した様な表情になったが、チャックは心底疑問にい持っている様だ。
「不意を突かれて鳩尾に喰らったんで本当に苦しかったんですよ! もぅ、 ほっといてください」
そう言って腐る輪廻にチャックは本題を切り出す。
「まぁ、それは置いておこう。
それより本題の方はどうなったんだ?
戦いの記憶は手に入れたのか?」
その質問に対し、輪廻は目を瞑ると、何とも言えない表情で口元を綻ばせ・・・
「多分。 手に入れたよ・・・
まぁ、地獄の苦しみだけを濃縮させたような体験をさせられたけどね」
その答えにチャックも安堵した。
「そうか、ならばその実力を見せてもらおうか?」
「そう言われてもなぁ、どうしたら実力を見せれるんだ?」
「簡単だ。 ロイ・アーマライト かの剣聖と試合をしろ。
そうすればどれだけの実力かがわかる」
「・・・全く勝てる気がしないんだが?」
「勝てなくてもいいさ 今の実力を知ることが重要だからな」
「それはつまり、俺が凹られるんだよね?」
「・・・否定はしない」
「・・・」
気不味そうに視線を逸らすチャックを輪廻が恨めし気に睨むが、今の実力を確認するには他に無さそうだと諦め、溜め息を吐く。
「まぁ、確認するにしても、もう夜だし、明日にしよう」
「そうだな・・・」
会話をそう締め括ると、輪廻の腹がなった。
寝たきりだったとはいえお腹は空くようだ。
「腹減ってたんだな・・・ ちょっとご飯でも貰いに行ってくるか」
そう思い部屋の扉を開けると、そこにはチャベスがいた。
「うお?! ・・・って、チャベスさ・・・チャベスか、どうしたの?」
「お目覚めになられたようで、安心しました旦那様。
お食事の用意と湯あみの用意が出来ています。
どちらに致しますか?」
・・・その台詞は爺さん・・男からは聞きたくなかった・・・
だが、背に腹は代えられない。
「食事の用意を頼むよ」
「畏まりました」
そう言って一礼するとチャベスは食堂の方へと歩き始める。
俺も後を追って歩くと、食堂にはエリーとレティシア姉妹がいた。
「や、やぁ、エリー、レティシア。 君達も食事中だったんだ」
そう声を掛けると、エリーはホッとしたような顔をし、レティシアは苦虫を噛み潰した様な顔になった。
レティシアには何とも嫌われたようだが、エリーは心配してくれている様だ。
ホッとすると同時にグレイに対しての罪悪感が募る。
挨拶した後は暫し無言でいたのだが、そうこうしている内にチャベスが食事を持ってくる。
「お待たせ致しました」
そう言って料理をテーブルに並べて行く。
「ありがとう」
料理を並べ終えたチャベスにお礼を言うと、老執事は一礼して輪廻の後ろに控える。
人に後ろに立たれるのは何とも慣れないものだが、これが貴族の生活なのだろうと割り切る。
チャックは何か話したそうにしていたが、口は出さないようだ。
「それじゃ、頂きます!」
そう言って食事を摂ろうとすると、エリーとレティシアが驚いた顔をする。
「うん?」
なんだろう? そう思っていると、チャックが教えてくれた。
「輪廻、恐らくだが、君のその『頂きます』と言う言葉と合掌に驚いたのだろう。
基本的に宗教家でもない限り食事の前にそう言う定型文を口にする事は無いのだよ」
なる・・不味ったのか・・・
「あー、食事を頂きます・・・ね?」
そう言って精一杯の作り笑いを浮かべて食事に手を付けようとすると、早速レティシアからスプーンを投げられる。
輪廻はこれまでの事でレティシアを警戒していたので上体を逸らしてスプーンを躱すと、スプーンが壁に当たって乾いた音を響かせた。
「いきなり何するんですか!?」
「レティ! なんてことをするんですか!」
「ふん! スプーンくらいは躱せるのね!」
そう言って今度はナイフを投げつけてきた。
輪廻は迫るナイフを片手で掴み取る。
「殺す気か? 流石にこれはやり過ぎだろ!?」
「前のあなたに戻って貰うためよ! でも、そのお蔭で動きは良くなってるでしょ?」
何を勘違いしているんだこの娘は?!
想起の魔法でグレイの記憶を追体験してなかったら運が良くて大怪我、悪けりゃ死んでるよ?
「レティ! グレイを殺す気ですか?! 謝りなさい!」
エリーが声を荒げてレティシアに怒鳴ると、レティシアも渋々ではあるが謝る。
「ごめんなさい。お姉さま」
「私ではなく、グレイに謝りなさい」
「ふん!」
そう言って席を立って退室するレティシア。
レティシアの姿が見えなくなると、一息つきつつ輪廻は思う。
あの娘なんなんだろ? そんなにグレイの事が嫌いなのか? と。
まぁ、それより今は御飯だ。
そう思い食事に集中し始めると、エリーが声を掛けてくる。
「あ、あのね、グレイ?」
「はい? な、なんでしょう? エリーさん」
「私達、夫婦なんですから、『さん』付けは止めてください」
「あ、あぁ、すみません。つい、申し訳ない」
輪廻としてはなんとも距離感をどうすればいいのか一番困る人物だ。
輪廻からするとエリザベスは人妻なので近付くこと自体に抵抗があるのだが、エリーからすれば輪廻は夫であるグレイなのだ。
エリザベスの表情を窺うと、何とも不安そうな表情だ。 よく知った人物。 それも結婚するほど相思相愛だった相手がいきなり他人行儀になって接してくるのだ。
不安になるなと言うのが無理な話だろう。
「グレイ。 お願いだから思い出して・・・」
泣きそうな顔でそう懇願されたが、輪廻もどう答えれば良いのかわからない。
返答に困っていると、チャックが口を出した。
「ふむ、抱いてしまえば良いのではないかね?」
「ブフゥッ?! ゲホッ!ゴホッ! な、何言ってるんだ?!」
咽た輪廻は小声でチャックに怒鳴ると言う器用な芸当を見せる。
「グレイ?! 大丈夫?」
「あ、あぁ、大丈夫だ。気にしないでくれ」
「抱いてしまえば彼女の不安も取り除けると思うんだがね?」
「彼女はあくまでグレイの奥さんなんだぞ! 俺が抱くのはお門違いだ。
それに俺の初体験がほとんど騙すような形で人妻とって・・・人として駄目だろうが!」
「ふむ、しかしこの試練を乗り越えれば君はグレイから抜ける。
そうなればグレイの記憶には輪廻、君が行った行動は自分が記憶を失った間の出来事として記憶に残る。
彼女にもグレイと致した事しか知らないし、グレイ本人も自分が抱いた記憶しか残らない。
そして君はエリーと楽しい思いをしたという記憶が残るだけで、実際の肉体では未経験。
どこに問題があるのかね?」
「俺の良心に多大なダメージが残るわボケェ!!」
「ふむ・・・ 確かに、ではこういうのはどうだろう?
『記憶を無くした事は本当に申し訳ありません。
私も逸早く記憶を取り戻したいと思っているんです。
貴方と夫婦である事はロイや色々な人にも言われましたが、何分私は記憶を無くした身なので実感が無いのです。
エリザベス。記憶を無くす前は確かに君と夫婦だったのかもしれません。
ですが、だからと言って貴方のような美しい方といきなり夫婦として振舞えと言われても、何も覚えていない私としては貴方に対して不誠実であると感じるのです。
私もいつか貴方と堂々と夫婦であると言えるよう努力するつもりですが、それまでは夫婦として振舞う事はどうかご容赦願えないでしょうか?』
こう言えばある程度距離を保ってしばらくは見守って貰えるのではないかね?」
チャックの言葉に驚いた輪廻だが、次の瞬間にはナイスアイディア! とばかりに輪廻が飛びついた。
「そう言うアイディアを待ってたんだよ! 流石チャック先生!」
「まぁ、最後に抱きしめて『これが今の精一杯』とでも言えばほぼ完璧なんだろうが・・・できるかね?」
「やってみたいけど・・・無理だ」
顔を赤くして輪廻が答えると、チャックはやれやれと肩を竦める。
「それにしても、こうして試練を受けてみると、思った以上に厄介だな。
クリアするべき課題の他にも試練で影響が出そうな人間関係の修復・改善・・・課題以外にも歴史が変わりそうな要素が一杯だ」
チャックは今後の行く末を考えると頭が痛くなる思いがした。
因みにエリーは輪廻が不審な挙動を取った後の返答について、赤面しつつも輪廻に抱き付き、暫らくは距離を置くことに同意してくれたようだ。
もっとも、距離を置く代わりに、少しずつでも距離を縮める事を目的に毎日エリーと二人だけの時間を過ごすことを約束させられたが・・・
そんなこんなで輪廻は食堂を後にすると早めに就寝するのであった。
翌日、輪廻はロイと対峙する。
「グレイ。 昨日の今日でそんなに強くなれるとは思えないんだがね?」
「まぁ、そう言わずにお願いしますよ。 し・しょ・う・♪」
「まぁ、私としては構わないよ」
「ありがとうございます」
輪廻の模擬戦の申し込みに不審なものを感じたようだが、ロイもそれに応じた。
「では早速始めるとするかい?」
「お願いします!」
「では、始め!」
ロイの合図でお互いが臨戦態勢になる。
構えた瞬間。ロイは目を見張る。
昨日までと違い、輪廻の構えに隙が無くなっていたからだ。
同じように構えているように見えて、その実は全く異なる。
これはひょっとして、記憶が戻ったのか? そう思い、ロイはグレイを試す為、先手を打つ。
ジリジリと一足一刀の間合いに詰めると、無造作に見える一撃を放つ。
昨日までの輪廻であれば反応し避ける事は出来るだろうが、記憶が戻っているなら受け流し、反撃するだろう。
そう思い放った一撃だったが、輪廻は避ける事はしなかったが、受け流すだけに留まっていた。
対応が半端であった。 動きもどこかぎこちない。
その後も何度か攻撃を仕掛けるが、輪廻は受け流すだけだった。
その動きはどうも自分の身体の動かし方を一つ一つ確かめている様にも取れ、相変わらず受け流すだけであったが、次第に動きのぎこちなさが取れて行く。
「グレイ。 思い出したのかい?」
「いえ、全然思い出していませんよ。 ただ、なんとなく体の動かし方がわかってきただけです」
「本当にそれだけかな?」
そう言うとロイは木剣を肩に担ぐように持ち上げる。
「スラッシュ!」
ロイがそう声を上げると、木刀が青白く光ると同時に輪廻との距離が一気に縮まる。
「?!」
輪廻は一瞬驚くが、正眼に構えた木剣に力を注ぐと、輪廻の木剣も青白く輝く。
そして青白い光を放つ木剣でロイの放つ斬撃を受け流す。
体勢を崩されたロイはそのまま走り抜け、距離を取ってから輪廻と再び対峙する。
「ふむ、記憶を失ってから一度も技を見せていなかったのに、咄嗟に『パリィ』を使うとは・・・
グレイ! 君、記憶が戻っているだろう?」
ニヤリとした笑みを見せてロイが言い放つ。
「戻ってませんよ。 ただ、なんとなくわかってきただけですよ」
空っ惚けた返事を返しながらも、油断なく構える輪廻。
その表情に何か思うところでもあったのか、一瞬しかめっ面になったロイが、気迫のこもった良い笑顔を輪廻に向ける。
「まぁ、それならそれで構わないよ。 戦えるようになって来てるみたいだから、少しずつギアを上げて行くから油断するんじゃぁないよ?」
「もちろんですよ!」
そう輪廻が返事をすると、ロイは電光石火と呼ぶに相応しい動きで輪廻を襲う。
そうして2時間ほど模擬戦をした結果、輪廻が地面に転がされていた。
「あ、ありえない・・・ ロイ・・、あんた、化け物だ・・・」
「ふぅ、良かったよ。記憶を無くす前のグレイと同じくらいの動きが出来るようになってるね。
正直こんなに早く戦えるようになるとは思わなかったよ。
ただ、戦闘の仕方が記憶を無くす前とほぼ真逆だったんだが、どういう事だい?」
問われて輪廻も返答に困った。
記憶を無くす前のグレイはどちらかと言えば攻撃的なスタイルで常に先手を取ることを重視していた。
だが、輪廻はグレイの記憶を追体験し経験は共有したが、その戦闘スタイルは守り重視の戦い方だ。
本来グレイが得意としている戦い方とは全く異なっていた。
「なんとなく、自分から攻めに行くとすぐに勝負がついてしまうだろうと思ったんだ。
今回の目的は自分の体の動きを確かめるのが最優先だったから、受けに徹して体の動かし方を確認しただけだよ」
輪廻は地面に寝転がりながらそう答えると、ロイも納得したのか今日の訓練はこれで終わりとなった。
そして戦闘能力が戻った事で、明日から警備隊の任務に戻ることになった。
輪廻とチャックはここからが本番だと、一層気を引き締める事になった。




