川の向こう側
先輩! と声がして、慌ただしく白衣の姿のまま小野田が駆け寄ってきた。少しまどろんでいた俺はぎくりとして体を起こす。
「おう、どうした?」
「また、こんなところで……所長が捜していましたよ」
「なんだ、それだけか」
俺は安堵の息をつきつつ、肩を落とす。
「脅かすなよ、何か重大な問題でも起こったのかと思ったよ」
「先輩!」
また、草地に横になる俺を、小野田は鬼の形相で睨む。
「その態度が既に問題ですって!」
「おおげさだなあ。ちょっと休憩しているだけだろ」
「ちょっとって……」
文句を言いかけたが無駄と悟ったのか結局、小野田は黙り込み、一つ短い溜息をつくと俺の隣に座り込んだ。
「……先輩、この場所、好きですよね。いつもこの河原で寝転んで川を見てる。何かあるんですか?」
「うーん。好きっていうか……昔、子供の頃、な。あそこに住んでたんだよね」
「……え」
川の彼方に見える雑然とした町並みを指差す俺を、小野田はぽかんと見た。
「嘘でしょ。先輩みたいな優秀な人がそんなわけ」
「そう思う?」
「あ、いえ……」
小野田が気まずそうに言い淀むのを見て、俺はつい笑ってしまう。まあ、彼の反応は仕方のないところだ。俺は話しを続ける。
「……両親があの町の出身でさ、一度も他で暮らしたことがないって人たちだった。父親は寡黙で勤勉な人だったけど、貧乏だったんだよな、俺の家。いつも母親は疲れていて、俺の前では笑ってみせるんだけど、それが返って痛々しくってさ、子供なりに無理しているのが判って俺はいつも悲しかったよ。
ある時さ、母親が夕暮れに幼い俺の手を引いて外に連れ出したことがあった。その時は散歩だと思って歌なんか歌いながら呑気に歩いていたんだけれど、川べりまで歩いて行った所で母親が急にぴたりと足を止めたんだ。そこからじっと動かない。どうしたんだろうって母親の顔を仰ぎ見たら、彼女はしんと静かな瞳で川の向こう側をただ、みつめていたんだ。何か思い詰めているような、何かを決心したような、不思議な瞳の色だった」
「え。それって」
「うん。幼かったからその瞳の意味がその時は判らなかった。でも、普通じゃない空気は感じたから俺は怖くなって帰りたいと言ったんだ。母親は俺の声に呪縛が解けたようにハッとして、悲しげに微笑むと、来た時と同じように俺の手を引いて家へと帰ったよ」
ふっと短い溜息をついてから、俺は言った。
「もし、俺があの時、帰りたいと言わなかったら母親はどうしていたんだろうって、今も時々、考える。母はもう随分前に亡くなってしまったから答えは永遠の謎だけどな」
神妙な面持ちで黙り込んでしまった小野田の肩を、俺は笑って軽く叩いた。
「そんな顔すんなよ」
「……あの町に対する差別意識って根強いものがありますよね。そう言う俺だって、あんまりいい感情持ってないですけど。あの辺りが遊郭だったとか、治安が悪いっていうのは昔の話しなのに……それが判っていてもなかなか」
「だな。ヤバい病気が蔓延しているなんてまだ信じている奴がいるくらいだから。とんでもない誤解なんだが。……差別に偏見。俺もここまで来るのは大変だったなあ」
あえて明るく俺は笑った。
「……母親が亡くなった時にさ、彼女が静かな瞳でみつめていた川の向こう側に、俺は必ず行ってやるって思ったんだよ」
さて、と小さく掛け声をかけて俺は立ち上がる。
「戻るか。所長さまがご立腹だ」
「はい」
小野田も穏やかに笑って腰を上げた。
(おわり)