第四話 『海に響くは金属の咆哮』─後編─
「私、あなたのこと気に入っちゃったみたい。だから……逃がさないよっ、おにーさん」
俺の手を握る柔らかい感触。
明かりがほとんどない暗い空間。じめじめとした湿った空気が頬を撫でる。
そんな中で照らす、わずかな明かりの元である小さな少女が俺の手を両の手で握りしめている。とんでもない握力だ。
カチッ、カチッ、と。時を刻むような音だけが、この静寂の空間に鳴り響いている。
────さて、どうしてこうなったんだったか。
────────
──────
────
「任せろとは言ったものの……どうしたものか」
レイカやアリサ、アヤ姉さん達の働きによって、無数に点在する空中砲台が次々と墜落していく様を見上げながらそう呟いた。
おそらく例の少女であると推測されるドラゴンが、その口から放つレーザービームでいくつかの砲台をまとめて沈黙させた。
その残骸らしきモノがまた、俺の横を通り過ぎ、水飛沫をあげて海の底へと沈んでいく。
どうやらドラゴンは俺達に味方しているようで、暫くレイカ達の動向を見続けた後、同じように空中砲台を落とし始めたのだ。
そのような要因もあり、空中砲台の標的が俺に向くことはない。
──とりあえず、物理的なダメージを与えてみよう。
そう思い立ち、リヴァイアサンの巨大な胴体に近付く。
「…………ハァッ!」
そして、その巨大な機械の体に手を伸ばせば触れるといった位置で、腕を思い切り振りかぶって前に突き出した。
俺の拳が衝突すると共にとてつもない轟音が起こり、リヴァイアサンの体が先ほどの位置から数メートルほどズレた。
上空で空中砲台と戦っているレイカも、音に驚いたのかこちらを見ている。
──しかし。
その強固な体に傷痕は無く、以前として鈍色の輝きを放っている。
「……これは時間がかかりそうだ」
もう一度近付き、今度はほんの短い時間で全く同じ箇所を目掛けて、拳を幾度となく叩き付ける。
先ほどとは比べ物にならないほどの轟音を立てて、リヴァイアサンの体が今度は数十メートルほどズレた。いや、ズレたと言うよりは吹っ飛んだと表現した方が正しいかもしれない。
その鋼の体は少々へこんでおり、輝きは既に失われている。
──────────ッッ!!!
この衝撃は流石に効いたようで、リヴァイアサンも堪らず咆哮をあげる。
……痛がっている、のだろうか。
まあ、何はともあれダメージを与える事には成功した。しかし、これで少しへこんだだけという以上、このやり方では全く終わりが見えない。
何か別の方法を考える必要があるみたいだ。
何か、対策法はないか、と。思考を練ろうとしたが、いくつかの砲台の標的がこちらへ向いていたらしく、レーザーがこちらへ飛んできた為にそれは中断された。
とりあえずはこちらへ標的を向けている砲台を沈黙させる必要がある。そのために上空へと飛び上がった。
リヴァイアサンの顔の横辺りへたどり着き、俺を待ち受けていたのは、その鋭く巨大な牙。
風を裂いて迫り来る噛みつきのような攻撃を避けて、こちらへと砲口を向けていた空中砲台へ近付き、手刀で一刀両断する。
切り伏せられた砲台が、煙をあげて墜ちていく中、その断面に回路のようなものが走っているのが見えた。
──そうか。
こいつらは機械だ。おそらく、組み上げられたシステム、若しくは内部を走っているだろう電子回路。そのどちらかを乱せば、活動を停止させることが出来るかもしれない。
わずかではあるが、それ以外の対策が無い現状。一抹の希望にかけてみるしかないだろう。
俺は飛び交っている無数の閃光を身を捻ってかわし、再びリヴァイアサンの頭部へと接近する。
頭部の稼働範囲へと入り込んだ瞬間、予想通りリヴァイアサンはその巨大な口を開いて、噛みつきのような攻撃をしかけてきた。
俺は先ほどとはうって変わって、その凶悪な牙の更に奥、喉元へ飛び込むように向かっていく。
そして、もう少しで口内へ────。
と、いう所で周囲の景色はがらりと変わり、突如目の前にアリサが現れた。
しかし、俺はアイツの口内へ向かって全力で飛んでいたわけで。当然、いきなり止まれるはずもなく、その勢いのままアリサと共に砂の地面へ倒れ込む。
「いったた……。って、何してんのよユーゴ! アンタ死ぬ気?! もうほんっと馬鹿なんだから……!」
アリサは上体を起こし、砂浜に座り込むような体勢になった。
そして起こし上げるように俺の両肩を掴み、互いの息がかかるような距離まで顔を寄せて怒鳴り声をあげる。
その緑の瞳は少しばかり潤んでおり、まるでエメラルドを思わせるかのように光をキラキラと照り返す。
彼女の口から放たれていた、怒号を飛ばすような言葉は段々とその勢いを失い、終いにはすすり泣くような声を出して俺の胸に顔を埋めた。
俺は何を言うでもなく、その艶やかな栗色の髪を静かに撫でるだけだった。
「……はあ?! アレの口の中に飛び込むなんて、そんな……無茶苦茶よ! わざわざ死にに行くようなものじゃない!」
辺り一面にアリサの怒鳴り声が響き渡る。
あれから少しして彼女が落ち着いた所で、先ほどの俺の行動についての説明をし、協力を得ようとした。
──その結果がこれだ。
「だが、アレを沈めるには内部から破壊するしかない。俺がやるしかないんだ」
このまま外部からの接触だけではキリがない。可能性は薄いが、やらなければ人類は滅亡の道を辿るだけ。俺以外では出来ない。
そんな、理論上の話は既にした。
しかし、まだ納得がいっていない様子のアリサは駄々をこねる子供のように、頑なに拒否を続ける。
「だ、だからってアンタ、そんな……! だ、大体! 内部から破壊出来るっていう根拠も……っ!」
「……アリサ」
大きな身ぶり手振りで、嫌だという感情を表現するアリサの手を握り。
「俺は絶対ここに帰ってくる。信じてくれ」
俺はアリサの目を真っ直ぐに見つめ、静かにそう言った。
「…………分かったわ。……但し、絶対に戻ってくること。良いわね? 守らなかったら、ただじゃおかないんだからっ!」
アリサは濡れた目尻を軽く手で拭い、こくりと小さく頷く。そして、無理矢理作ったような固い笑顔を見せてそう言い放った。その瞳は再び涙が溜まり、潤んでいる。
アリサが無理をして笑顔で俺を送り出そうとしてくれているのだ。ならば、俺はそれに応える義務がある。
「はは、そいつは怖いな。これは死んでもここに帰る必要がありそうだ」
俺は笑顔を浮かべて、そう、軽い冗談めいた言葉を口に出す。
「そうよ、戻らなかったら怖いわよ~? って、死んだら意味無いじゃないのよ! ……それじゃあ、行ってらっしゃい」
アリサの、その微笑を最後に辺りの景色は再び変わり、目の前にリヴァイアサンの頭部が現れる。
俺はそこから離れるようにレイカの元へ合流する。
必ず戻ると約束した以上、内部へ侵入するとしても出来る限り危険な要素を取り除く必要がある。
そのためにはレイカの協力が必要だ。
「……なに? 奴の口から内部へ侵入する? …………わかった。協力しよう」
アリサへ話したものと同じ説明、アリサと約束を交わした事。それらを話した所、レイカは大体を察してくれたようだ。
しかし、レイカは随分あっさりと協力の了承をしてくれたものだ。
その疑問を本人にぶつけてみると、こんな答えが返ってきた。
「私はお前を信頼している。それ以外に言葉が必要か? ……それで、私は何をすれば良いんだ?」
──俺は仲間に恵まれているようだ。
微笑みを浮かべてそう言う彼女を見て、俺はそう思った。
っと、あまりもたついている時間は無い。出来る限り早く決着を着けなければ。今はまだあの海岸で抑えられているが、時間が経てば経つほどこちらが不利になる。
既にほんのりと紅に染まった空を目に、そう思う。
「……よし、早速だが作戦はこうだ──」
「さてと……準備は良いか?」
俺はリヴァイアサンの頭部を正面に捉えながら、隣に立つレイカにそう問いかける。
彼女は静かに頷き、肯定の意を示した。
それを確認した俺は右手を前に突き出し、手のひらをリヴァイアサンの頭部へと向ける。
すると辺りには冷気を含んだ風が巻き起こる。冷やされた空気中の水分が小さな氷の礫となり、キラキラと光を反射して輝く。
そして氷の礫を含んだ竜巻は更にその勢いを増して、リヴァイアサンを包み込む。
既に冷気で頭部を覆われたリヴァイアサンはその巨大な首を動かして、冷気から逃れようとした。
しかし、時は既に遅く。触れたモノ全てを凍てつかせる、極寒の風に覆われた時点でリヴァイアサンの頭部周辺の稼働部は凍りつき、その動きを疎外されていたのだ。
俺達は顔を見合せてこくりと頷くと、それぞれリヴァイアサンの正面から見て右と左へ別れて、頭部を挟むように移動した。
「行くぞレイカ! 3!」
俺は下顎の稼働部位を目の前にし、そう叫んだ。
「2!」
頭部を挟んだ丁度反対側に居るであろう彼女は、俺の声に応えるようにそう言う。
「「1!!」」
そう、二人の声が重なった瞬間。俺は全身全霊の力を込めて拳を放った。
金属を叩いたような音と、とてつもない衝撃波が辺りに響く。
そして、小さな爆発音と共に下顎を繋ぐ稼働部位から黒煙を上げたリヴァイアサンは、下へと頭を向けて項垂れた。
──そう。
俺達の作戦とは、比較的弱いつくりになっているであろう稼働部を挟み、両側から大きな一撃を与える事だ。
俺達は、別れる前の位置で合流し、リヴァイアサンの頭部を正面から捉えてその様子を窺っていた。
「……やったか?」
あれから少しの間リヴァイアサンに動きは見られず、レイカがしびれを切らした様子でそう呟いた。
俺の予想通りなら、口が開いたままになるはずなんだが……。
──失敗したか。
そんな不安が頭に過った時、遂にリヴァイアサンがこちらを向き、大きく口を開いた。
そして──。
──────────ッッッ!!!!
放たれたのは今までよりも遥かに大きな咆哮。
それを目の前で受け、吹き飛ばされそうになったレイカを抱え、その衝撃波に耐える。
「……もう一度か」
咆哮を終えたリヴァイアサンを前に、そう言葉を洩らす。
その瞬間、リヴァイアサンの下顎は外れたように真下を向き、巨大な口がだらしなく開かれる事となった。
空中に居る状態でこう言うのもおかしな話だとは思うが。
俺は抱えたままのレイカを下ろし、右拳を軽く前に突き出す。
彼女はその動作の意図に気付いたようで、俺の拳と突き合わせるように自身の右拳を差し出した。
「それじゃあ行ってくる。後は頼んだ」
成功を確認するかのようにお互いの拳を突き合わせた後、俺はそう言い、リヴァイアサンの口へと飛び込んだ。
────暗い。それと五月蝿い。
それが、内部へと侵入し、一番最初に抱いた感想だった。
俺は指を鳴らした。所謂、指パッチンと言うものだ。
すると俺の周囲に現れたいくつかの光の球が、ふよふよと、それぞれで意思を持つかのように浮遊を始めた。
その大きさは手のひらに収まるくらいに小さく、大体卓球に使用されるピンポン球程度だろうか。
光が辺りを照らす。
しかし、外の世界とを隔てる壁。つまりはこのリヴァイアサンを構成する体のことだ。それを周囲に確認することは出来なかった。
まるで何処までも空間が広がっているかのようで、辺りを暗闇が覆っている。
「これは……もしかすると……」
俺はそう、小さく呟きを洩らす。
潮風を含んだ湿った風が、頬を撫でる。まとわりつくような、嫌な空気を感じながらゆっくりと、降下して行く。
どれだけ下って行こうと、周囲の景色が変わる様子はない。
最早、どれだけ下ったかはわからない。
どちらが上で、どちらが下か。前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのか。果たして自分は進めているのだろうか。
そんなことすらも定かではなくなるほどに、辺りには暗闇が広がるばかりだった。
そんな中。カチッ、カチッ、と。定期的にこの空間内に響く音。
今までも、これからも。いつまでも変わらずに時を刻み続けるような、そんな音が、とても耳障りに感じた。
────いつまでも変わらず。
その言葉に、少しの違和感を感じた。
──何かがおかしい。
俺は少なからず移動しているはずだ。その前提で考えるならば
、音が近付くなり、離れるなり。何かしらの変化がある。俺の耳がそれを聞き逃すはずがない。
しかし、この音が着いてきているのか、そもそも俺は一歩足りとも動いていないのか。そう考えさせるほどに同じ音量で、時を刻み続けている。
明らかな異常だ。
おそらく、俺は催眠状態にかけられている。そして幻覚を見続けている。
もし、そうなら──。
俺は拳を握りしめ、次元を貫くような勢いでそれを突き出した。
──瞬間。
目の前の空間に、大きなヒビが入る。
そして、まるでガラスが砕け散るかのようにがらがらと音を立てて、何かが崩れ去った。
辺りの景色は以前変わらず、暗闇が広がるのみである。
先ほどとの違いと言えば、目の前に赤い二つの光が見えることだろう。
「あははっ、おにーさんやっぱり強いんだね。私、強い人は大好きだよ? 楽しいから」
赤い光の方向から、幼い少女の、楽しげな声が聞こえる。
よく見てみると、赤く発光していたのは少女の瞳であり、それは彼女が人ではないという事実に他ならない。
「例えば……そう。私を吹っ飛ばしたあのパンチ。あれなんて体がシビれて……。つい、大声を出しちゃったんだ」
目を凝らして彼女の方を窺っていたが、理解する間もなく見失った。
耳元にかかる甘い吐息、囁くような艶めかしい声が背後の存在からかけられていると気付くのに、そう時間はかからなかった。
「……お前の目的は何だ?」
「あははははっ、目的だって。目的なんて無いよ。ただ、あの人達が、この星に来たら遊んでくれる人がたっくさんいるって。そう言ってたから来ただけ」
──あの人達?
まあ他にも色々と聞きたい事はあるが。
俺は彼女の方向へ振り返って、口を開いた。
「お前の言う、遊びってのは……」
「そう、戦闘だよ。私は戦闘が楽しい事ってあの人達に教えられてきたの。それ以外なんて知らなーい」
彼女はそう、おどけたような動作を見せてそう言った。
しかしその身振りとは裏腹に、言っていることはおそらく真剣そのものだろう。
そして、再び出てきたあの人達という単語。
やはり気になるが、少女の口振りからすると彼女もまた、あの人達について詳しくは知らないのだろう。
「さて、どうすれば攻撃を止めてもらえるんだ?」
彼女もまた、ドラゴンの少女と同じような存在であるはずだ。
姿はその赤く光る瞳以外、目で確認することは出来ない。しかし、機械の幻想のような体を持つこと、人間の姿で意思の疎通が取れること。
以上のことから、そう言う結論が出た。
そうならば、無益な戦いなどはせずに分かりあえるはずだ。
「んーっとね……。私、すっごく強いおにーさんのことは好きだよ? けど、今のおにーさんは……嫌いかな」
彼女がそう言った矢先、辺りにほとばしるとてつもない殺気。それは重圧となり、俺の体に重くのし掛かる。
────交渉決裂。
一体、どこで選択肢を間違えたのだろうか。
そんな事を考えつつも、俺は戦闘態勢をとる。
風を切るような音と共に、何かが正面から俺の顔へと接近する気配。
俺は軽く横にステップを踏んでそれを避けた。そして、何かの気配はその場を通り過ぎた。
何か、の気配は俺の周囲を漂っている光の球が照らす範囲を通り過ぎたはず。しかし、どういうことかその姿を見せることはなく、気配だけが通り過ぎていったのだ。
「あはっ、今のを避けるなんてやっぱりおにーさんは強いんだね。ますます好きになっちゃうなぁ」
そんな声と共に俺の視界の中、暗闇で揺らめくように再び現れた赤く光る二つの瞳。
「何かがちょっと違えば俺達も長続きしたかも、なっ!」
そう言いながら赤い光の方向へと飛び、空を裂く勢いのまま、俺は拳を突き出す。
しかし、拳が捉えたのは何もない空間。
すぐに辺りを見回し、少女の位置を探す。が、その位置を示す赤い光は見当たらない。
「あはは、それも楽しかったかも。けど今は……、この一瞬の死闘で十分かな」
どこからともなく少女の声が、暗闇の中で反響する。その声は、どこか哀しみを含んでいるように聞こえた。
何かが来る予感を察知した俺は、右足を後ろに半歩ほど下げて半身になる。
その瞬間、俺の右半身があった位置を外の空中砲台が放っていたレーザービーム。それをさらに圧縮し、威力を増したものが光の筋となって通り過ぎる。
閃光が放たれたであろう元を探るが、既にそこから気配は消えていた。
「……すまん」
「なんのこと? ……あ、そうそう。この空間自体が私だから、捕まえようとしても無駄だよー。それじゃ、お話はおしまいっ! 今はこの一瞬を殺しあおうよ!」
背後からの声が途絶えた瞬間、俺は素早く身を屈め、背後に蹴りを放つ。
何か、鋭いものが、俺の首があった辺りの空間を切り裂いた。
俺が放った蹴りも少女の攻撃と同じく、空を突くのみに終わった。
さてと、どうしたものか。
少女の位置を気配として察知出来ないこと。俺が先ほど、この空間内で催眠状態に陥っていたこと。
以上の二点から、この空間自体があの少女であるというのは正しいだろう。
しかし、そうなると先ほどの幻覚とは訳が違ってくる。
あれは空間を破壊したように見えるが、厳密には幻覚との壁を取っ払っただけだ。
────となると。
と、考えをまとめている最中に、再び襲ってきた見えない何か。今度は足を狙っているようだ。
風を裂き、迫りくる何かにタイミングを合わせて俺は拳を振り下ろす。
何か、金属のものを思い切り金槌で叩いたような音が辺りに響き渡る。
拳に感じたのは、リヴァイアサンの体表よりも更に硬いものを殴ったような感触。その反動で、少し骨がビリビリと痛む。
「いったぁーいっ! これに反応してくるなんて……流石おにーさんだね。それじゃ、もっと速くするよーっ」
再び暗闇の中に、少女の楽しげな声が広く反響する。
空気の変化を右の頬に感じた瞬間、俺は慌てて首を左に傾けた。
そして訪れる、恐ろしく速い見えない何かが右頬を掠めて通り過ぎる気配。ほんの少し遅れてくるように、風を切り裂くような音が耳に聞こえた。見えない刃物のような何かは、文字通り、音を置き去りにしたのだ。
もし少しでも避けるのが遅れていれば、俺は既に死んでいただろう。
「はぁっ……、っ、はぁっ……」
額に浮かんだ冷や汗のようなものを感じながら、俺は体内に流れる血流の如く魔力を身体中に巡らせ、血の巡りを速くする。反応速度が上がったと共に、体温が急激に上がったのを感じた。
息が上がり、今にも呼吸が切れそうだ。
文字通り音を置き去りにするような速さで暗闇を裂き、再び急速接近してきた何かの一撃に、先ほどよりも強い衝撃を何度か叩き込む。
リヴァイアサン。いや、少女の巨大な体を吹っ飛ばした時よりも大きな轟音。音が衝撃波となって、どこまでも広がるような暗闇の中へ響き、やがてかき消された。
鎧のように、魔力で堅く覆っているからと言っても、限度というものはある。
幾度となく、現実では有り得ないような硬さを誇るモノを殴ってきた俺の右拳。その骨は既に砕けており、折れた骨が皮膚を突き破って、大量の血と共にその白い姿を露出している。
痛みは魔力によって大幅に抑えられているものの、見ていてあまり気分が良いものではないため、俺はそこから目を逸らすように前を向いた。
「いたたたた……。流石、おにーさん、だね。……これが、しょーしんしょーめい、最後。行くよっ」
少女にも限界が来ているのか、辺りに響いたのは途切れ途切れの声。それも、声を発する度に勢いが失われていく。
しかし、心底楽しげな様子を醸し出している。
──その刹那。
俺の周囲を照らす光、それを何かが切り裂いたと同時に俺は横っ飛びにその直撃を避けた。
光を切り裂いた、と言うのか……。
「全く、とんでもないやつだ……。まあ、その方が見えて丁度良い」
そう、強がりが口をついて出てきた。
実際の所、見る暇なんてほとんどない。だからこそ、強がりでも言わないとやっていられない。
俺の周囲、そのあちらこちらで光が無数に思えるほど途切れる。それと同時に残った左手や足を放ち、幾度となく見えない何かと打ち合う。
衝突する度に、金属を叩きあわせたような音が鳴る俺達二人だけの凌ぎの削り合い。薄皮一枚で避ける時もあれば、左手で迎撃し、空気との摩擦で火花が散る時もある。
そんな永遠とも感じた、ほんの少しの短い時間。
少しの後、何かが砕け散るような音。同時に、見えない何かの連撃が止まる。
そして、この死闘も終わりの幕を閉じた。
「……おにーさん」
そんな、俺を呼ぶ声と共に目の前に現れた弱々しく光る、真っ赤な瞳。
彼女はその雪のように白くか細い手を伸ばすと、俺の周囲を漂っている光の球を握り潰した。
そのことにより、彼女のくすんだルビーのように薄れた光を放つ瞳のみが、暗闇を照らす光源となった。
「私、あなたのこと気に入っちゃったみたい。だから……逃がさないよっ、おにーさん」
少女の柔らかな手が、俺の左手を包み込む。
そして間もなく、辺りは一切の光も差し込まない暗闇となった。
少し湿った風が、上へ向かって吹き抜けていったのを感じる。
俺はぼろぼろになった右手を彼女の頭に乗せて、こう言った。
──────おやすみ。また会う時まで。