第十話 『last wedding』
何かを焼くような音、それと共に部屋へと充満する香ばしい匂い。
カーテンを開くと目に入るのはぼんやりとした明るさ、外の世界に広がるのは雲の一つも無い晴れ晴れとした空。そろそろ日の出が拝める頃だろうか。
窓を開け放てば、ひんやりとした心地よい風が舞い込んでくる。
少し早いが、実に清々しい朝だ。
「……こんなもんか。危ないから少し離れていてくれ」
俺は側に居るロゼにそう声をかけると、フライパンで焼いていた物を皿に盛り付けて机へと運ぶ。
既に机の上に用意されていたものと合わせるとかなりの量だ。
先日の事件により校舎部分の大半を失った学園は、その修理が完了するまでの約一ヶ月もの期間が休校となった。
「ふぁぁ……。やあ、おはよう」
「おはよう、アヤ姉さん。そしてここはキッチンだ。洗面所はそっち」
寝ぼけ眼で眠そうに目を擦りながらふらふらと歩いてきたアヤ姉さんを洗面所へと誘導する。
その紫色の長い髪の毛は、はねるような寝癖によりボサボサで、衣服は所々乱れている。
そして同じく先日の事件によりアリサとリリカを失った俺は、残った大切な人であるアヤ姉さんを失わない為に彼女の部屋で暮らし、行動を共にしているのだ。
「……ん。ああ……、すまないね」
こちらに背を向けてよたよたとした足どりで洗面所へ向かうアヤ姉さん。今にも転びそうなその後ろ姿は、見ていてとても不安になるものだ。
俺は彼女の手をとって、洗面所へと先導する。
「……ん。……冷たっ!」
蛇口から流れ出る水を手で掬い、己の顔へとかけた彼女は目が覚めたようにそんな声をあげた。
少しして、彼女の目の前にある鏡を通して目が合う。
彼女はぱちぱちと目を何度か瞬きさせた後、自身の寝癖に気付いたようではっとした顔を浮かべた。
そして何処からか櫛を取り出したかと思うと、次の瞬間にはいつも通りの髪型であるバレッタ留めが完成。
目にも止まらぬ早さだとかそういうレベルではない。
「……まったく。乙女の寝起きの顔なんて見ないで欲しいものだね。常に一番の自分を見せたいだとか、色々と複雑なんだよ……」
いつもの髪型に、乱れたシワだらけの寝間着というなんともアンバランスな格好でアヤ姉さんは言う。
俺はそんな彼女に手慣れたように用意しておいた柔らかいタオルを手渡した。
「……ん、ありがとう。そもそも、君にはデリカシーというものがだね……」
「おっ邪魔しまーす!」
受け取ったタオルで顔を拭いながら何かを言おうとしたアヤ姉さんの言葉を遮るように大きな声が玄関の方から聞こえ、それに続くように複数の足音がこの家の中に入ってきた。
そしてその内のひとつが俺達が現在いる洗面所へと近付き。
「あれ、こんな所に居たんですか。軍曹って昔から朝弱いですよねー……。早く来ないと無くなっちゃいますよー」
軍服姿の女性は慣れたようにそんなことを言いながらさっさと手を洗い、蛇口をしめて居間へと踵を返した。
広くはない洗面所内で壁際に寄ってそれを静かに眺めていた俺とアヤ姉さんは、少ししてお互いの顔を見合わせると少しの笑みを浮かべて、他の皆が既に集まっている居間へと向かった。
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「……さて、今日の任務はいつも通り領域内の巡回だ。おそらく今回もいくつかの小隊は魔女共との戦闘が予想される」
現在の場所は軍の作戦本部前。
軍服を身に着けた千人ほどの女性が隊列を組んで整列している前にアヤ姉さんは外套を風ではためかせながら立つ。
静寂に包まれた場に、魔法で拡大された全体に届き渡るような彼女の声のみが響く。
俺はその様子を少し離れた位置から、その朝礼が終わるのを眺めていた。
少し前まで、将来的には生存領域外にも軍を派遣し、いずれは日本全体を魔女達から奪還しようとの計画が進められていたらしい。
しかしここ最近で特異型が立て続けに姿を現し、人手を多く失い。さらには領域内に魔女が出没することが増え、現在では生存領域を維持することすらがギリギリとなった。
そして人手不足の中、最近はほぼ総動員に近い形で街の巡回を行っているのだとか。
おそらく軍の人手不足はかなり深刻なものだと思われる。
でなければ通常、現在の階級が大佐にまでなったアヤ姉さんが巡回任務に駆り出されることはほとんどないはずだ。
「……やあ、待たせたね」
朝礼が終わったアヤ姉さんは、いつも通りの小隊を引き連れてこちらへと駆け寄ってきた。
その背後では三十人程度の編成を組んだ女性達が指揮官を先頭に空へと飛び立つ様子がいくつも見受けられる。
これから、小隊に割り振られたルートの巡回が始まる。
巡回ルート上では小隊同士の距離はあまり遠くなく、何かがあった際にはすぐに別の隊が駆けつけられるような編成になっている。
紙面上で見るならば、効率の悪い方法だ。
しかしつい最近、巡回の間にいくつかの小隊から連絡が途絶えるという事件があったことを踏まえるならば、これで良いのだろう。
そんな中でも俺が付き添うアヤ姉さん達の隊は、どの隊が救援信号を出そうとすぐに向かえるような位置に配置されている。
「それじゃあ、今日も犠牲者を出さないように頑張ろう。第零一特設支援分隊、任務開始!」
そう言い、先導するように空に飛び立ったアヤ姉さんの後を追うように俺も飛ぶ。
正確な時刻はわからないが、太陽が地平線から顔を覗かせたばかりの朝早く。
空に不穏な空気が立ち込める。
俺達の一日が、また始まった。
「作戦本部より連絡が入りました! 第五七小隊より救難信号!」
あれから数時間ほど経過した。
特に異常もなく、流れ行く景色をただ静かに眺めるのみ。
そんな状況を一変させたのは、ひとつの通信を受け取った隊員の声だった。
通信を送ってきたのは作戦本部。
作戦本部には戦闘が得意ではない隊員達が待機しており、その役目は負傷者の治療や回収、救難信号等の伝達だ。
「九時の方向、距離およそ三〇〇〇! 魔女が多数出現したとのことです!」
魔女と戦闘を行う際は魔女一体に対して三人で対等、五人居ればほぼ安全だと言われている。
今回の作戦上での小隊は約三十人規模である。
その上で救援要請を出したということは、つまり相当数の魔女が現れたに違いない。
すぐに救援に向かうべきだろう。
「十二時の方向、第三一小隊より直接救援要請が入りました。距離四〇〇〇。ただ一言、『助けて』だそうです」
アヤ姉さんが指揮をとり、救難信号があがった方角へと進行方向を変えた所。また別の隊員が要請を受信したらしく、そう声をあげた。
二件目の戦況はあまりはっきりとしていないが、司令部を通さずに直接通信を行ってきたあたり、一件目よりも余裕がない事は読み取れる。
以上から推測されるのは、強化型魔女の出現だろうか。
突然の救援要請にアヤ姉さんはその場に留まり、顎に手をあてて沈黙した。おそらく、俺と同じ推測までは見立てているだろう。
冷静に考えているように見えるが、その額には冷や汗のようなものが浮かんでいる。
決断を急がないと両方を見捨てることになる為、やはり焦っているはずだ。
「俺が行く」
そんな俺の言葉にアヤ姉さんは困ったような、驚いたような。どちらとも言えない反応を見せた後、悔しそうに唇を噛み締めた。
そして、絞り出すように一言。
「……頼んだよ」
そう言うアヤ姉さんの顔は、とても悲しそうで。まるで『行かないで』とでも言っているかのように感じられた。
「……そんな顔をしないでくれ。すぐに片付けてアヤ姉さん達に追い付くさ」
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無数の星が煌めく空。静かに佇む満月が、夜の世界を淡く照らし出す。
ベランダから見上げる月は何時もより大きく見えた。
振り返ると、外の世界と室内とを分け隔てる磨りガラスの戸。
カーテンの隙間から覗くぼんやりとした光と共に、騒いでいるような声が室内から漏れ出ている。
今日の巡回任務も誰一人欠けることなく無事に終えられたのを確かめるように、いつものメンバーがアヤ姉さんの部屋に集まっているのだ。
少しの間夜空を眺めていると、背後からガラス戸を開けるようなからからという音が聞こえた。
「……おや、黄昏ているのかい? 英雄さん? ……いや、なに。冗談だよ」
部屋の中で行われている宴会から抜け出してきたアヤ姉さんは、外の景色を眺めていた俺に対して、そう冗談めいた口調で笑った。
さっきアヤ姉さんから聞いた話だが、俺は巷で英雄と呼ばれているらしい。
他の人間からどのように見られているのかは知らない。が、実際の俺は、自分の大切なモノを守ることすら出来ないほどに無力だ。
きっと、英雄などと言う大層な代物には程遠いだろう。
「……どうしたんだい。また、思い詰めたような顔をしているよ?」
俺は彼女に対して否定するように首を軽く振って見せ、話題を変える為に少し気になっていたことを口に出す。
「……ところで、アヤ姉さんはあの時何であんな顔をしたんだ?」
そう言った俺の脳裏に思い浮かぶのは、巡回任務中に救援要請へ俺が向かおうとした時の、アヤ姉さんの悲しそうな顔だ。
「……本当は、君を死地へ向かわせたくなんか無かったからさ」
少しの間を置いて、重い口を開くように彼女は言う。
俺はその言葉に対して何かを言おうとしたが、口を閉ざしてしまった。
俺にとって、強化型魔女程度は相手にならないことなど彼女は知っているはずだ。
「……君が強いというのは、もちろん知っているよ。だからって、好きな人が危険な場所に行くのを素直に見送れるわけがないだろう!」
いつも冷静な彼女にしては珍しく、声を少し張り上げて言葉を並べる。
いや、待て。
──彼女は何と言った?
今起こっている事態を、うまく飲み込めない。
「……この際だから言わせてもらうけど、ボクは君が好きだ。そしてこの言葉は弱っている君につけこむようで、本当は今ここで言いたくないんだけどね──」
一呼吸置いて落ち着きを取り戻した様子の彼女はそう言うと、大きく息を吸い込んだ。
つけこむ?
──アヤ姉さんの意図が、わからない。
突然訪れる混乱に、俺達を取り囲む世界の情景、音、風。それら全てを感じ取れなくなり、世界が止まってしまったかのような感覚に陥る。
「────ボクと結婚してくれ」
アヤ姉さんが放ったのは、俺と彼女以外の全てが止まった世界を切り裂くような一言。
月明かりに照らされた彼女の、夜の世界に溶け込むような深い紫色の髪が、やけに美しく見えた。
返答を待つような仕草を見せる彼女に対し、俺はあやふやな頭で言葉を絞り出す。
「……良いのか? 大事な人を守れない。弱くて、格好悪い俺なんかで」
「君が良いんだ。ボクを幾度となく守ってくれた。強くて、格好良い君が」
俺が並べ立てた言葉の全ては、アヤ姉さんによって切り捨てられた。
真っ直ぐにこちらを見つめている一点の曇りもない彼女の紫の瞳に、俺は思わず視線を逸らしてしまう。
しかし彼女は自身へと視線を向けさせるように、俺の顔に手を添える。
「──君の返事を、聞かせてくれ」
「────ああ、必ず幸せにする」
俺は彼女の小さな肩をそっと引き寄せ、胸に抱き締めた。
この言葉も、行動も、ほとんど無意識に出たものだ。
──もしかすると、俺は守れなかった彼女達の影をアヤ姉さんに重ねているのかもしれない。
──だから、これも彼女達への償いのつもりなのかもしれない。
「……ありがとう。けど、少し違うよ」
彼女は俺から少し離れると、照れ臭そうに微笑みながらそう言った。
彼女の頬はほんのりと赤く染まっていたような気がする。
──それでも良い。
──彼女が笑ってくれるなら。
──彼女を守れるなら。
「ボクだけじゃない。君とボクの二人で、幸せになるんだよ」
────俺には、アヤ姉さんとロゼの二人しか残っていないのだから。
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「──ふざけるな! なぜ彼を殺す必要がある!?」
軍本部のとある一室。
紫の髪を持つ彼女はその胸の怒りを表すかのように、目の前の少し上等そうな机に手を振り下ろした。
その衝撃は少しの余韻を残して部屋に音を響かせ。
漆塗りの机はその場からほんの少しズレたような気がした。
静寂の訪れた部屋で暫し二人の女性が見つめあう。
片や、視線だけで人が殺せそうなほどに目の前の椅子に腰かけている女性を睨む紫髪の女性、赤羽綾。
そんなことなど気にもとめないと言った様子で肘を立てたまま机越しに視線を返す女性の佇まいは、幾度となく死線を潜り抜けた歴戦の猛者を思わせる。
立ち位置等から、おそらくこちらの女性が上官であると推測される。
そして、上官である女性は机に肘を立てたままゆっくりと口を開く。
「──彼が今、世間では英雄と呼ばれているのは知っているはずだ。しかして、英雄というモノはおとぎ話や過去のモノでなくてはいけない。それが現実というものだ、わかるな?」
上官のそんな言葉に赤羽綾は歯を食いしばり、やがて静かな声で言葉を絞り出した。
「────それが、悪い報せですか?」
「ああ、そうだ。そして、先ほどの上官に対しての不敬な態度だが、目を瞑っておこう。この件は君にしか出来ないのでな」
上官の女性はそう言うと『もうお前に興味などない』とでも言うかのように彼女、赤羽綾へ対して背を見せて、窓の外へと視線を向ける。
そんな様子を見届けた彼女は、帽子の鍔を少し下げて軽く一礼をすると、同じように背を向けて木製の扉へと歩を進めた。
「──では、失礼します」
「──ああ、それと。結婚おめでとう、赤羽大佐」
扉を閉じる音が小さく響き、静寂だけが部屋に残った。
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外からの光を透過して、色とりどりな色を淡く纏ったステンドグラス。
きらびやかな照明が小さな光を灯し、辺りを仄暗く映し出す。
静かなざわめきが聞こえる中、こちらを照らすスポットライトの光がやけに眩しく思えた。
俺の足元に広がる赤いカーペットが伸びた先にある、木製の大きな扉がゆっくりと開かれて、逆光の中に一人のシルエットが浮かび上がる。
いくつかあるスポットライトの内のひとつに照らされてその姿を露にしたのは、純白のドレスに身を包んだアヤ姉さんだった。
そんな彼女の姿を目に映すと、いよいよと実感が湧き上がってくる。
──これから、俺達の結婚式が始まるのだと。
一歩、一歩を噛みしめるようにゆっくりとした足取りでカーペットの上を歩く彼女は、目の錯覚かきらきらと輝いているように見えた。
俺の目の前、その足元には客席が並べられている場所に対してここが壇となるような、小さな段差がある。
俺は壇上から、目の前のアヤ姉さんに対して手を差し伸べた。
彼女は微笑んでその手をとり、俺にエスコートされるように壇の上へと立つ。
「綺麗だ。よく似合っているよ、アヤ姉さん」
「──ふふ、ありがとう。君も、よく似合っているよ」
俺の言葉に彼女は意外だとでも思ったのか、一瞬だけきょとんとしたように目を丸くし、そして優しい笑みを浮かべた。
俺は一体どんな人間だと思われていたのだろうか。
やがて教会内は静寂に包まれ、壇上で向かい合う俺とアヤ姉さん。その傍らで聖職者のような服を着た女性が分厚い本を手に、祈りか何かの言葉を述べ始めた。
祈りか何かの言葉。というのも。
視界の端に、こちらを見つめているロゼとそこに並ぶ彼女達の姿が見えてしまった俺の耳には、一切の音が入ってこなくなったためにそんな表現になったのだ。
俺は一抹の願いを込めてそちらへと顔を向けるが、そこには最前列に座るロゼと、その隣に四人分の空席があるだけだった。
左から順に、ただの空席。
銀の十字架のネックレスと白の彼岸花が置かれた席。
銀のブレスレットが置かれた席。
そして、エメラルドが嵌め込まれた銀の指輪が置かれた席。
最後に今の状況がまず何なのかよくわかっていない様子のロゼが、足をぱたぱたと動かしながらこちらを見つめていた。
やはり、ただの幻覚だったか。
いや、わかってはいた。
あの席は立って見ている人どころか、教会に入りきらず外で待つ人達がいる中、頼み込んでわざわざ用意して貰ったものだ。
あまり見ないようにはしていた、が。
──一筋の涙が頬を伝うのを感じた。
それを上書きするように温かなぬくもりに包まれる。
顔を前へと戻すと、アヤ姉さんが俺の事を抱きしめてこちらを少し見上げるように見つめていた。
「大丈夫。ボクがそばにいる」
そんな囁くような彼女の言葉に、俺は言葉をつまらせたように一瞬空気を飲み込み、そして。
「ありがとう──」
「──ダメだよ」
背後にいる何かが、耳がくすぐったくなるような少女の声で囁いた。
瞬間。腹の辺りに鋭い痛みを感じた。
俺とアヤ姉さんを貫くように通り抜けた見えない何かは、壁に小さな穴を開けていった。外の光が差し込む。
目の前のアヤ姉さんは血を吐いて、その場に膝から崩れ落ちる。純白だったドレスを鮮血が赤く染めていく。
彼女を支えるために俺はその場にしゃがみこむ。
次の瞬間には、頭上を見えない一閃が通り抜け、教会内が赤く染まった。
そしてその一閃は教会自体を切り裂いたようで、大きな音を立てて壁や天井が崩れ始める。
俺はかろうじて息のあるアヤ姉さんと、まだ椅子に座っていたロゼを抱えると、壁に大きな穴を開けて教会を出た。
俺は近くの木陰に二人を降ろすと、木を背もたれにするようにアヤ姉さんを座らせた。
苦しそうに息をする彼女の左手を優しく握る。
「……俺、約束守れなかったな」
俺の言葉に彼女は小さく首を振る。
そして腕をぷるぷると震わせながら、俺の目の前にゆっくりと自身の右手を突き出し、開く。
そこには、少しだけ彼女の血に塗れた銀の指輪があった。
「…………ああ、そうだな」
俺は自身の懐から、彼女のものと同じく少しの血がついた指輪を取り出すと、彼女の左手へ手を添える。
ゆっくりとその薬指へそれを嵌めると、俺は自身の左手を差し出す。
彼女はゆっくりと、ゆっくりと指輪を持った手を動かす。もう既に、あまり力が入らないのだろう。
何度か指輪を取り落とした後に、俺の左手の薬指へとその指輪を嵌めた。
そして彼女は最後に、既に光を映さなくなった瞳でこちらを見つめて何かを話すように何度か口を動かし、優しく微笑むとそのまま目を閉じた。
「……ああ。俺も愛しているよ、アヤ姉さん」
俺は既にものも言わなくなったアヤ姉さんを優しく抱きしめた後、そっとその場に彼女を寝かせて立ち上がった。
──ほんの一瞬だけ目の前が真っ暗になった。
視界の端が霞んで見える。
歩き出そうとしたが足に力が入らず、ふらふらとした足取りで三歩ほど進み倒れてしまった。
──眠気が襲ってきた。
このまま目を閉じてしまえば、アヤ姉さんや皆に会えるのだろうか。
いや、俺にはまだやるべきことがあるはずだ。
──微睡みの中で目を開く。
俺が立ち上がると共に、瓦礫の山と化した教会であったモノから少女が這うように出てくる。
立ち上がった少女はぼろぼろになった服と言えるかも怪しい布切れを纏い、体の所々に痣や切り傷があり、頭から大量の血を流していた。
「──ねぇ、お兄、さん。なんで、なんで……。私を、助けてくれなかった、の」
そう途切れ途切れに言葉を紡ぐ少女に向かって、俺はゆっくりではあるが歩を進める。
「──やっぱり。お兄さん、も。私を、愛してくれない、んだね」
俺は無言のままに歩を進める。
右肩を鋭い触手のようなモノが掠め、肉を少し抉りとった。
勢いよく血が吹き出す。なんてことはなく。どろどろとした血がゆっくりと右腕を伝って地面へ滴り落ちる。
腹部の傷から、既に相当量の血を失っているらしい。
「──なんで、なんで……! 約束した、のに……!!」
彼女の能力か、小さな見えない刃が俺の体を切り刻む。
様々な箇所から、血が流れ出る。
──視界が霞み、ぼんやりとしか見えない。
ゆっくりと、ゆっくりと。俺はぼんやりと見える少女へ向かって、ただ進む。
「──もう、いい……! 来ない、で……!」
少女の叫びに、空気が震える。
手を伸ばせば触れられる位置まで届いたが、それを拒むように彼女の髪の毛に混じって伸びている鋭い触手が、無数の刃で俺を貫いた。
──体から体温が消え去った。寒い。
俺はゆっくりと手を伸ばし。
──少女を抱きしめた。
「これは、まだ夢の続きなんだ。目が覚めたら、俺が迎えにいく」
────だから、待っていてくれ。
「──ホント、に? 私が、起きたら。お兄さん、来てくれる、の……?」
俺の体を貫いていた鋭い刃のような触手が、力を失ったようにするりと抜けていった。
涙と血に塗れた彼女の顔を胸に抱き、頭を撫でる。
「──約束、だよ……! お兄さん。私、信じてる、から────」
こちらを見上げて精一杯の笑顔を見せた少女はそこで力尽き、俺に全体重を預けて静かに眠りについた。
────約束だ。
俺は腕の中で安らかに眠る少女を、その場にそっと寝かせた。
「──ロゼ。俺を、乗せていってくれるか」
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世界に、終わりを告げる音が鳴り響いた。
天からの無数の光は、まるで俺達を避けるように大地へ降り注ぎ。
人を、文明を。破滅へと導く。
「──ロゼ。俺は、少し眠る」
風を切って空を駆ける黒き鋼の竜となったロゼの背で、俺は小さく呟く。
重い瞼を落とし、暗闇に意識を委ねた。
「……ユーゴとなら、僕は飛ぼう。どこまででも」