イヴ・フレイン
パイプや鉄骨で入り組んだ迷路のような道を歩き、見えてきたのは学校ほどの大きさを誇る灰色の建物だった。ただただ機能性だけを追求したように、飾り気はない。
工場のようにも、研究施設のようにも見える。窓から中を覗くと、職員と警備員が数人。無人ということはないようだ。
「指定されたのはここだな……社名は『リーフブルー』か……なんの会社だ?」
『ネットの情報によると、機械部品の製造会社らしいけど……隠れ蓑じゃないかしら?』
「本当は違法組織だと?」
『なんとなくだけどね。――マスター、最後に確認するけれども、本当に行くのね?』
「ここまで来たしな。ここで退いたら一生後悔しそうだ」
『……つらい現実が待ち受けているかもしれないわよ? 知らなかった方が幸せなこともあると思うわよ。……それでも?』
俺のことを心配しているのか、AIならではの嫌な予感がしているのか、ソフィアはやけに喰い下がる。
「なんか、リーフブルーに行ってほしくない理由でもあるのか?」
『そうじゃないけど……現状維持というのも一つの手じゃないかと思ったのよ。現状――つまり、祈崎市で便利屋をするのが嫌になったわけじゃないでしょ?』
「それはもちろんだが……」
『マスター、いい? 成功の秘訣は、常に最悪を想定することよ。リーフブルーに行っても、記憶は戻らず、殺される可能性だって低くはない……そうなっても後悔しない? そうなる覚悟はある?』
「……確かに、お前の言う通りだと思う。本当に記憶が戻るかどうかの確証はないし、死ぬかもしれない。……それでも、俺は逃げちゃいけない気がするんだよ。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ」
もう迷いは完全になかった。あるのは僅かな期待と、拭いきれない不安だけだ。
『……そう。わかったわ。もう何も言わない。行きましょう』
「ああ。……付き合わせて悪い、ソフィア」
『慣れっこよ』
「ホント、いい相棒だよ――じゃあ……行こうか」
まとわりつくような空気を肌で感じながら、俺は脳内の電子を加速させた。
少し迷ったが、正面から堂々と入ることにした。裏口からこっそり入ったとしても、記憶を取り戻す具体的な方法がわからなかったからだ。
「うへぇ……」
入ってすぐに天井の高いホールが俺を圧倒した。まるで会社というよりも高級ホテルだ。右手には受付カウンター、奥には直線の通路と二階への階段。見たところどこにも人は居ない。カウンターにも人は見当たらないし……どうしたものか。
『人を呼んでおいて出迎えもなしとは。――ソフィア、念のためここのセキュリティーにアクセスできないか試してみてくれ』
相手がどんな連中なのかすらわからない状況だ。こちらが優位に立てるようなら、立っておくに越したことはない。
『…………ソフィア? どうした?』
ソフィアに再度話しかけるが返事はない。自分の言葉が電脳の内部で虚しく反響する。
『おい、反応しろソフィア。何があった?』
言い知れぬ不安を感じながら、俺は自らの電脳をチェックする。
何かエラーが発生したわけでもないのに、ソフィアとの連絡が取れない。例えこの建物内にジャマーが設置してあったとしても、あいつは俺の電脳内に居るので通話は可能のはずだ。
可能性として考えられるのは、電脳に侵入され、ソフィアをアンインストールされた、といったところだが……この短時間、しかも無線で侵入を許したとは考えにくい。
「どうなってるんだよ……」
電脳の詳細を確認するが、防壁が破られた形跡も、侵入された形跡もまるで見つからない。やはりハックされたわけではないはずだ。
今からでも逃げ出そうかと考え始めたところで、遠くからコツコツと二人分の足音が聞こえてくる。奥の通路からだ。
「ちっ」
舌打ちをしつつ、ホルスターに手を添える。無骨な殺傷用の武器は確かに所持している。だというのに、俺は少しも安心することができない。ソフィアが居ないというだけで、こんなにも不安定になるのだなと、自嘲気味にため息をこぼす。
「…………っ」
俺は身構えながら、近づく足音の方向をにらむ続ける。いつでも逃げ出せるように、全身に力を込める。
時を刻む秒針のように、コツコツという一定の足音が、徐々に近づく。前方からの音が反響し、まるで全方向から足音が響いているようだった。
「ふぅ……」
一呼吸置いて、緊張を意図的にほぐす。小さく首を回し、肩の力を抜く。逃げるにしても、相手のご尊顔くらいは拝んでおこう。
足音が大きく響き――やがて止んだ。目の前に姿を現したのは、二人の人間。
「やあ、待たせてすまない」
「…………」
やってきたのは黒いスーツにオールバックの男性と、白衣を身にまとった若い女性だった。男は嬉しそうに笑っており、女は対照的にうつむいて口を閉ざしている。何かしら俺に関係のある人物だろうが、見覚えはない。
「……誰だお前ら?」
このままじっとしていても始まらない。俺はとりあえずスーツ姿の男に話しかけてみる。
「僕かい? みんなからはプロフェッサーと呼ばれている。本名なんてとうの昔に捨てたさ。気軽にプロフェッサーと呼んでくれて構わないよ。敬称はいらないから」
「プロフェッサー……教授ねぇ……」
オールバックの男――プロフェッサーは誕生日を迎えた子供のように、満面の笑みで話をする。何が嬉しいのかは知らないが、その態度が無性に腹立たしい。怪しいヤクでもキメてるのかこの野郎は。
「どうでもいいが、俺の記憶を戻してくれるんだよな?」
「ふむ……『戻す』というと少し語弊はあるが……ま、君の知りたかったことを教えてやろう。どうして記憶がないのか、自分は一体誰なのか、とかな」
その口ぶりからするに、この男は俺の記憶について委細承知しているのだろう。自分の脳を他人にわしづかみにされたような感覚がして、気味が悪くなった。
「……そこまで知っているということは、やっぱりお前らが俺の頭ん中いじくった張本人か」
俺の電脳にハックでもしたのか、もしくはナノマシンを使ったのか……手段は不明だが、俺の記憶はこいつらによって操作されたらしい。やはりここに来たのは間違いではなかったようだ。
「なんでこんなことを? 目的は何だ? 俺をどうしたい?」
「あー……詳しいことは彼女が説明するよ。僕は話すの苦手だからね。――ということだから、頼んだよフレイン君」
プロフェッサーは一歩下がり、代わりに今まで無言を貫いていた白衣の女が前に出た。
白衣の下は、ミニスカートにセーターという意外にも可愛らしい格好。そして目を引くのは、腰まで伸ばした白銀の髪の毛。青い瞳も相まって、人間というよりは妖精のような人だった。研究者のような格好をしているが、今までエステサロンに行っていたかのように、肌と髪の毛は艶やかだ。
年齢は俺と同じか少し下くらいだろう。改めて見ると、女性というよりは、少女と形容してもいいかもしれない。もちろん、生身であればの話だが。
「……っ」
彼女は意を決したように口を小さく開く。俺は押し黙り、どんな情報も聞き逃さないようにと耳を傾ける。
「ええと……初めまして、でいいのかしら?」
どこか聞き覚えのある声で、彼女は話し始めた。
「私の名前はイヴ・フレイン。――少し前まであなたのサポートAIを務めていたソフィアよ」




