人間の定理
翌日。朝からやってきたレナータの父親から報酬を受け取り、この依頼は終了となった。
「娘は義体の扱いが格段にうまくなっていましたし、嫌がっていた学校にも今日から行くと言い出したんです。本当になんとお礼を言ったらいいのか……ありがとうございました」
と、何度も深々と頭を下げるお父さんに、俺とアガットは少しだけ困惑したものだ。
それから、
「最初は不安だったが、なんとか乗り越えたな。……青葉、せっかくだし昨日の河川敷行かないか?」
珍しくそんなことを言い出したアガットに、俺は疑問を覚えながらも頷くことにしたのだ。
「相も変わらずきったない川だ」
着くなりさんざんな感想を述べ、アガットはケラケラ笑っていた。シラフのはずだが、まるで酔っぱらいだな。
「アジト無人にしてまで、何がしたいんだよお前は。ここに用事があったわけでもないだろ?」
「まあそうなんだが……ちょっとここで話がしたくなってな。昨日小娘には偉そうなことを言ったが、しょせんあたしもまだまだ若い。不安に思うことだって色々あるんだよ」
ポケットからいつも吸っている煙草を取り出し、ライターで火を付ける。俺にも差し出してきたが、手を振って断った。特に残念がる様子もなく、煙草を元のポケットに収める。
「お前が不安を感じるなんてあまり考えられないけどな」
「そうでもない。先の人生不安だらけだ。特に、あたしみたいな全身義体は生きる上でハンデが多いからな……」
「ハンデ?」
「そう、社会的不利。例えば――あたしは子供が作れない」
煙草を咥え、紫煙と一緒に吐き出したその言葉は、煙と共に消えることなく俺の胸に残り続けた。その姿はまるで、子供が作れないんだから煙草を吸っても構わないだろうと、言外に現しているように思えてしまった。
「ま、子宮がないんじゃ当然だよな……別に子供がほしいわけじゃなかったんだが、昨日レナータとあんな風にここで特訓してよ――」
俺の記憶が確かなら、アガットがレナータのことを名前で呼んだのはこれが初だ。本人の前で呼ばなかったのは、恥ずかしかったからか、余計な情が湧くことを恐れたのか。
「――悪くないなって思ったんだよ。あたしはこんな仕事してるし、いつ死ぬかもわからない身の上だから、当然無理な願いだろうが……いつか自分の子供を胸に抱いてみたい……なんて、少女趣味全開なこと思っちゃったわけだ」
静かに流れる川を見つめながら、ぽつりとそんなことを呟いた。いつもの毅然とした彼女らしくない、弱々しい呟きだった。
罪を懺悔して神に許しを請うような、そんな物言いに……なぜだかやるせなくなる。
「……案外普通に女なんだな」
「失礼な。この端正な顔立ちをよく見ろ。どこからどう見ても女だろ。なにより美女だ」
「義体のくせに偉そうなやつだ。――子供は無理でも、夫なら作れるだろ?」
「……もしかしてプロポーズか?」
「違うっての。別の可能性を示しただけだ。他にも養子を取るとか……家族を作る方法なんていくらでもある。だから、その……元気出せ」
うまい言葉が見つからず、俺は強引に話を切った。これなら、昨日のレフという少年の方がよっぽど男らしい。
「……優しいじゃないか青葉。いい部下に恵まれたもんだ」
「茶化すなよ」
「はは、悪かった。――なあ青葉、唐突だがお前って記憶喪失だったよな?」
「本当に唐突だな。そうだが、それがどうした?」
「いや、ちょっと気になったんだが――」
すべてを見透かすような、深紅の瞳が俺を射貫く。
「――お前、記憶が戻ったらどうするんだ?」
「どうするって?」
「いや、だからだな……祈崎市から……あたしと和佳菜の元を離れるのか?」
「…………」
しばらくの間、呼吸することさえ忘れた。思考が停止し、視界が凍り付く。
「……ええと……」
そうだ、俺は今まで記憶が戻ったらどうするかを考えていなかった。ただ漠然と記憶というものを探していただけだ。
俺はアガットにそう尋ねられて、初めてその可能性について考えた――考えざるを得なかった。
記憶が戻った自分。元の自分。本来の六道青葉。それを取り戻して、俺はどうするのか……短い間で思考を重ねる。
だが結果は――
「――わからないってのが正直な気持ちだ。記憶が戻った瞬間に俺の性格が豹変するかもしれないし、記憶が戻ったあとのことなんて神のみぞ知るってやつだよ。思い出した故郷に帰るのかもしれないし、ここに残るのかもしれないし、もしかしたらいきなり自殺する可能性だってゼロじゃない。……ただ」
俺は瞳を閉じて、余計な情報をシャットアウトする。冷静に、自分の心を向き合う。
「ただ……記憶を失った六道青葉の気持ちとしては、ここでお前や和佳菜と一緒に、便利屋を続けるのも悪くない……かな」
「……そうか」
それっきり言葉を交わすこともなく、川が日光を反射させる河川敷で風を浴びていた。
なんだか気恥ずかしかったのもあるが、俺もアガットも、これ以上の言葉は不要だと感じていたのだろう。
「……あれ? 師匠に青葉さんじゃないですか。こんなところで何してるんです?」
背後から聞こえてきた声に、俺たちはそろって振り返る。
「こんなところに居るなんて珍しいですね。これからアジトに戻るところだったんですけど……一緒に帰りますか?」
数日前と変わらぬ様子で、和佳菜がそこに立っていた。可愛らしく小首を傾げている。
「「……」」
これから親に悪戯を仕掛ける兄弟のように、俺とアガットはどちらともなく顔を見合わせ、小さく笑い合った。
「よう和佳菜。健康診断どうだった?」
「特に問題なかったですよ。病院の方もなかなか医療機器が充実していました。病院独自のネットワークが形成されていて、外部からはアクセスできないような工夫がされていました。病院の情報が外部に漏れることはなさそうです」
「病院にしては珍しいセキュリティーだな。覚えておこう。――それにしても、こっちはお前が居ない間に大変だったんだ。今日はその愚痴を嫌と言うほど聞かせてやるから覚悟しておけ」
「し、師匠がすごく意地悪な笑みを……青葉さん、そんなに嫌な事件でもあったんですか?」
「ああ、すごく嫌な事件だったんだよ。だから今日くらいは、アガットの話に付き合ってやれ」
「? は、はあ……わかりました……」
困惑気味の和佳菜と、変なくらい上機嫌なアガットを後ろから眺めていると、ソフィアが急に話しかけてきた。
まるで、ずっとこの瞬間を待っていたかのように。
『ねえマスター、急にこんな話するのもどうかと思うけど……人間の定理ってなんだと思う?』
人工知能がいきなり人間に問いかけてきたのは、とても根源的で、だからこそ答えが見つからない難題だった。
『どういう風の吹き回しだ? 急に哲学的な問いを投げかけるじゃないか。ネットでニーチェの言葉でも読んでたのか?』
『AIの気まぐれってやつよ。そういうプログラムがされているの。たまに気まぐれを起こすように、ってね』
『ふーん……そう言うお前はどう思うんだ? 人間の定理について』
『私? 私は……そうね――前に進む意志の有無だと思うわ。人間は絶えず進化を続けてきた。進むことをやめた人間に、人間の資格はない。ただ心臓を動かしているだけで、生きてることにはならないのよ』
『……結構辛辣な考えなんだな』
『AIだもの。――で、もう一度訊くけど、マスターの考えは?』
ソフィアのやつ、今日はやけに食い下がるな。彼女の考えを汲み取ることはできないが、真剣だと言うことは痛いほど伝わる。答えを聞くまで納得はしないのだろう。
だからこそ俺は、正直に、変に言葉を飾ったりすることもなく、ストレートに想いを結びつける。
『そうだな……俺が思うに、人間が人間であるのに難しい条件はいらないんじゃないかと思うんだよ。自分自身が人間だと思えば、その人は人間になるんじゃないかと思う』
『ずいぶんめちゃくちゃな理論ね。――それじゃあ、もし……もしもアンドロイドが「自分は人間です」って主張してきたらどうするの?』
『そう、だな……最初は戸惑うだろうが、その主張を受け入れて、人間のように扱おうと努力する』
細かいことをウダウダと考えるより、どうやって相手を受け入れるかを考える方が建設的だ。AIだから、アンドロイドだからといって、無意味に迫害したり、拒絶したりする気はない。
こんな考えを持つようになったのは、ソフィアの影響が強いだろう。AIだというのに、人間のような言動。そして頼もしさ。――そのことを、ソフィア本人から問われるというのも妙な話だ。
『人間もAIも、そんなに違いはないさ。AIみたいな人間も居るし、人間みたいなAIも居るんだから』
だから本当は言いたかった――俺はお前のおかげで、記憶を失ったにも関わらず、歪むことがなかったんだ――と。……恥ずかしいから言わないけどな。
『はぁ、優しいんだがバカなんだか……ま、そんな考えも悪くはないんじゃない? 少なくとも、私は嫌いじゃないから』
『それはどうも……さ、帰るぞソフィア』
『……ええ。帰りましょう、マスター』
早くこっちに来いとばかりに、遠くで手招きしているアガットと和佳菜に向かって、俺は一歩を踏み出した。
それからしばらくの間、ソフィアは不気味なほど無言だった。
これで四章終了です。次の五章が最終章の予定です。




