2話 本当についてないね
梅雨が終わりに近づいたころおかしな噂が新選組に届いた。妖がこの辺りを徘徊しているというのだ。新選組に苦情が来るのだ。
「そんなもん、どこにでもある噂だ。気にするな」
歳三はそう言って切り捨てた。
だが、隊士達の間ではかなり囁かれていた。あっちで見たとかそっちで見られるだとか。
雨はだいぶ小降りになっていた。
細い線を空中に残して落ちていく雨を見ながら左之助と新八は二人で話していた。
「どう思う、左之? 俺には単なる噂だと思えないんだよぉ~」
茶色の目が涙のせいで潤んでいる。いかついがたいの持ち主の新八は驚いたことに怖い話を苦手としている。しかも、怖がり方も尋常ではない。大の大人がウサギのような怯え方をしている。
「安心しろ。妖が出たらオレはお前を置いて逃げるから」
左之助が笑いながら言う。新八の怯え方をからかったのだ。
そのあとはいつもの馬鹿騒ぎになる。そうやって笑いあって怒りあう。笑顔が絶えないのだ。
いつもの屯所。いつも通りの日々。
三番組組長の斎藤 一はため息をついた。青色の長髪は後ろで軽く結ばれている。藍色の瞳は吸い込まれそうなほど綺麗だ。腰には刀がつけてある。皆と違い右側にさしてある。左利きだからだ。武士の中で左利きは馬鹿にされている。しかし、新選組はそんな彼を暖かく迎え入れた。彼を仲間と、認めバカにするやつは誰もいない。
一は今から雨の中の見回りに行くのだ。一番組と。
一番組組長は総司なのだ。どいういう訳か一と総司は戦闘の時以外、あまり気が合わないのだ。戦いになると二人は背中を預け合えるほど信頼し合っているのに、普段はそうはいかない。
しっかり者の一。それに対して猫のように気ままな総司。性格から合うはずがないのだ。
総司は隊服を着ながらやって来た。紫色の傘を持っている。
「この程度の雨で傘は要らぬだろう、総司」
一が優しく言う。言葉と態度はまるで違ったが。呆れた様子なのだ。
それに言葉の端々にとげが含まれて含まれている。
総司の眉が跳ねあがった。
「あのさ、一君。僕のこと馬鹿にしてるでしょ? これは借り物なの」
総司は全部は言い切らない。察しはつくでしょうと言った顔だ。一の態度に不満が出ている。二人の視線が交わる。一はすぐ逸らし、総司は嫌味なくらい笑顔を作った。火花が散った。
一番組と三番組が歩いているとあちらこちらから視線が集まる。
男は恐怖と非難の目で。女は畏怖と憧れの眼差しで。
総司は女が苦手だ。笑顔は総司の本当の顔ではない。総司の心の ‘砦’なのだ。誰も信用していない。唯一信じているのは勇と左之助だけ。本心が表に出ないようにするための笑顔なのだ。
それに加え総司は常に笑顔で居ろと言う命令が歳三が下されていた。理由はあるはずだが総司に知らされることはなかった。
一は黙々と任務の見回りを続けている。
「何かありそうだね」
総司が言葉を漏らす。隊士達も安心してきているようだ。
死番もいくらか安堵の様子がうかがえた。だから総司は気を引き締めさせたのだ。組の全員の命を組長は負わされることになる。総司はその重さをしっかりと理解していた。一もそこは買っている。
死番。角や見通しの悪いところで一番最初に飛び込む係りを負わされている。死ぬ確率が上がるため死番と言われている。もちろん、ちゃんと帰ってこれることの方が多い。だが、順番で回される役目なだけあって死ぬこともある。大抵、死番に気のゆるみがでてきたあたりに。
屯所が見えてくる。ほとんどの隊士が気を緩めた。だが、一と総司は異変を感じとった。人影がないのだ。一つも。いくら雨だからと言っても真昼間。市へと続くこの道から人気が消えることなんて有り得ないのだ。何かあると本能が危機を発している。
一と総司が背中合わせになる。隊士達もその様子を見て気を引き締めなおす。
「まったくついてないね」
総司が愚痴をこぼす。
「まったくだ」
珍しく一が総司の意見に賛同する。
生暖かい風が吹き付ける。雨が斜めに降り注ぐ。
「ぎじゃいいィしゃああァァぁっ!!! 」
得体の知れない叫び声が鼓膜に突き刺さる。皆が耳を塞ぐ。
怪しい色の雷光が空を駆ける。次の瞬間、総司達の目の前に現れたのは‘化け物’。それ以外に表現する方法がないぐらいおぞましい姿。人間の頭蓋骨を口にくわえ闇の目で辺りを見回す。どれが手でどれが足か分からないぐらいの触手。
何人の隊士がその姿を見て卒倒したか。総司も一も確認する余裕なんてなかった。
誰一人動かなかった。否。動けなかった。あまりの出来事に思考に体が追い付かないのだ。心と体が完全に別の物になってしまっている。
化け物がゆっくりと触手を伸ばす。一番組の隊士だ。総司はほとんど考えていなかった。部下を殺させないためだけに刀を振った。化け物の触手に菊一文字があたる。
ところが菊一文字が斬ったところはすぐにくっついてしまった。触手はそのまま隊士へと近づく。その隊士は気を失っている。喰われる。誰もがそう思った。