26話 道の先に続く未来図
総司は神華をそっと放した。顔を覗き込む。お互いの目が合う。
森を思わせるような緑色の目と夕焼けを切り取って入れたかのような紅の瞳。
どちらともなく笑顔になる。
「どうせ止めても聞かないんでしょ? 本当は放したくないんだけどなぁ」
総司が小さな声で呟く。その声は残念そうな響きが含まれている。そして、総司の想いを充分に表していた。
神華は里に帰るのだ。もしかしたら一族の説得に失敗してしまい、二度と総司と会うことが出来ないかもしれない。総司が新選組のことで死んでしまうかもしれない。
もう、二度と会えないのかもしれない。
でも、行かなくてはならないのだ。神華は運命と戦わない限りいつまでもいちまでも、本当の意味での自由を得られない。いつまでも一人っきりのままになってしまう。
だから、神華は行くのだ。自分の道を歩むために。
不安はある。山のように。それに、寂しいのだ。神華は人の温もりを知ってしまったから。
紅の瞳に涙がたまる。
「総司、ごめん。……ううん。こんな言葉じゃダメだよね」
神華は謝りかけて、首を振った。息を吸って笑う。
涙を拭い、真っ直ぐに総司を見つめる。
「好き、だよ」
誰もが口にするような言葉。
誰もが交わすであろう簡単でありふれている言葉。
優しさと、温もりと、想いと。人の優しさだけを詰めたような響き。
ありふれた単純な言葉。
だけれども、重みが違った。
神として人とちゃんと交わったことすらない少女のい心を開いた総司に対しての特別な好き。だけれども、もう、会うことすら叶わないかもしれない。甘くて切ない言葉。
一体どれだけの人がこの言葉を繰り返してきたのだろうか。
一体どれだけの人に気持ちが伝わっただろうか。
一体どれだけその願いはかなっただろうか。
きっと、叶ったのはほんの一握りの人たちだけだろう。
だからこそ、人は求めずにはいられない。
神華はそう思うと切なくって苦しくってどうしようもなかった。再び、涙が溢れ出す。
神華の目から涙が止まることはない。
「ほら、泣かないの。これがお別れじゃあないんだから、さ。…傘、取りにおいでよ。絶対に」
総司の小指と神華の指が絡まる。
互いの体温をそれぞれが感じている。離れることが無いようにしっかりと結ばれている小指。
総司は神華の涙を空いている方の手で拭う。
それから、二人共が一番の笑顔で笑った。
二人の不安はけして全部消えた訳じゃない。
それでも、また会う、会えると思う。
会いたいと強く願う。
願いはきっと叶うだろう。何の根拠も無い。だが、そう思えた。
絡み合った小指の体温は確かなものだったから。
だから、二人はお互いを信じて繋ぎ合っていた小指を放した。
「もう、いいかナ? 」
二人の間に入る余裕がなく、今まで声をかけそびれていた樹神が声を出した。樹神は邪魔することもできずに側の木陰で涼んでいた。
暗黒時代を呼ぼうとしていたことを反省している色は無い。
神華は顔を叩き気合いを入れる。手形が頬に残るぐらい力いっぱいやったようだ。神華は完全に気持ちを切り替えた表情をしている。
キリッとつり上がった眉。引き締まった口。紅の目は先を見つめているようだ。強く、勇ましいいつもの神華に戻る。
「うん。お待たせ。あの堅物一族に泡を吹かせてやろう! 」
気合いが入っている声で神華は高らかに宣言した。
樹神も一緒になって拳を突き出している。それなりの兄弟に見えた。
総司は少し笑った。
神華の切り替えの速さは好きだ。だが、それでもちょっと切なくなるのだ。神華だけがどんどん先に行ってしまうようで怖いのだ。
総司も自分の顔を叩いた。
「痛い」
当たり前のことを総司が呟く。
「あはは。そいじゃ、ちょっとだけ行ってきます」
優しく、神華が言った。総司も今度こそ、笑顔になった。
「うん。行ってらっしゃい」
総司は神華に対して笑顔で言った。
神華が歩き出すと樹神をひっぱた。樹神は振り向いた。
「いい? 神華に傷をつけたり、つけられたりしたら君を殺しに行くから」
緑の目が鋭い物へと変わる。
新選組で仕事しているときの目だ。
樹神は内心舌を巻きながら頷いた。
「キミなら本当にやりそうだ。分かったヨ。できるだけのことはする」
樹神はそれだけ言うと神華の後を追いかけて行った。
総司はその姿を見守る。
それから、踵を返した。
総司と神華は別々の道を行く。
遠くてもつながっていると信じている。叶わない可能性の方が高いと知っていても、残りの少しを信じて歩みを進める。
互いが互いの道を行く。もし、機会があれば、その道はまた交わるはずなのだから。
どちらも、振り返ることはしない。
振り返れば止まってしまうから。
決意が鈍ってしまうから。
だから、決して振り返ったり、後悔したりすることは無いのだろう。
夏の終わりを告げるヒグラシが鳴いていた。
湿気を含んでいたはずの空気は少しずつ乾燥してきている。
空は夕焼けに染まっている。
神華の髪と同じ色だ。紅の瞳を映したような空の色だった。
優しくて、気高い色がどこまでも続いていた。