16話 変わる変わる廻る廻る
京の都に雨が降る。
神華は歩いて行く。連日の戦いですっかり疲れが溜まっているらしく足取りはおぼつかない。顔色もかなり悪い。体中、怪我だらけだ。腕や肩は傷から流れた血が固まりこびり付いていた。
「樹神は、殺さなければならない。絶対に」
かすれた声で呟く姿はとても痛々しい。かなり痩せている。
神華は路地裏に入る。そのまま、壁に寄りかかりずるずると座り込む。怪我も回復しきっていないのだ。おまけに樹神に襲われた際の傷もまだ記憶に新しい。
神華の体は最早、少しも動かなかった。とにかく体が重いのだ。まるで自分の体ではないかのようなダルさに包まれている。一歩歩くことさえ、小指をほんのわずか動かすことすら今の神華には出来なかった。
ただ、意識がずるずると深い闇に飲まれて行くだけだ。瞼は自然と落ちてきて体から力が抜けるのが神華にも分かった。
神華はゆっくりと目を閉じた。すぐに規則正しい寝息がたった。
「何で、人は戦うことしかできないでしょうね? それは私も然り」
神華が気を失うのを待っていたかのように、黄緑の髪を揺らしながら、忠司が物陰から出てきた。悲しそうな表情で。
歳三の命令でずっと神華を見張っていたのだ。何も手は出せなかった。出すことが出来なかったのではない。
忠司は神華が怖くて手を出さなかったのだ。
「無理をし過ぎですよ」
忠司は苦笑する。
細い腕で軽々と神華を持ち上げる。美しく流れるような動作だ。神華は忠司に横抱きにされながら雨の街を屯所に運ばれた。
眠っている横顔を雨の滴が伝っていった。
神華を治療する。誰もが何も言わない。
神華の体は痣だらけで、切り傷もいっぱいあった。白い肌に似合わない無数の傷。痛々しい。だが、ちゃんとした治療はしていなかったらしく、膿んでいるところもあった。
たった一人で京の町を守り続けている少女。
新選組に何か手伝えはしないだろうか。でも、その言葉は誰もが飲み込んでしまった。声にすらならなかった。そんなことを言う資格なんて無かったから。
今更、神華にどんな言葉をかければいいのか、誰も分からないからだ。また、どんな言葉をかけようとも神華が認める訳がなかった。夕希が神華を拒絶し、歳三もまた、神華に酷いことを言った。
それでも、神華は新選組を、京の街を、世界を守ってくれていた。小さな肩に全てを背負って立ち上がり続けてきた。何度も何度も救ってくれた。
だが、神華に何も出来ない。それが事実であり現実だ。
神華が目覚めた。紅の瞳が顔を覗かせる。
傷と雨に濡れたせいで神華は熱をだしていた。高熱だ。呼吸さえままならない様子だ。
「大丈夫? まだ寝てなよ」
総司が神華に言う。額にのっている布を濡らし直し、総司は汗を拭ってやる。熱はまだ高い。総司は悲しそうに緑の目を伏せた。
神華は何か言いたそうに口を開きかけた。しかし、口は閉じられた。熱が高い頭で慎重に言葉を選ぶ素振りを見せる。頭痛が酷いのか、時折、目を閉じる。
「何で、私は屯所に? 」
簡単な文の質問が神華の口から放たれる。だが、その一言に含まれている厳しい言及を総司は感じ取った。
総司は苦虫を噛み潰したような表情で神華を見つめた。
「んー、それは秘密かな? 元気になったら教えてあげる」
打って変わるように総司はいたずらをするような表情になった。優しく、爽やかに笑う。
うまい具合にはぐらかされた神華は納得のいかない目で総司を見つめた。不満そうな表情。
「ん。ありがと」
でも、いつもより素直だ。熱のせいだろう。
神華は天井に視線を移した。それから、再び目を閉じた。
「まあ、眠って。後のことはそれからでいいよ」
総司は優しく囁いた。そして、神華が眠りやすいようにお腹をトントンとリズムよく優しく叩いた。暖かな大きな手で。
神華は息を整えた。
その後に、安らかな寝息が部屋に響いた。
寝顔は誰もがそうであるように神華もまた可愛らしいものだった。
総司の口からフッと笑いが漏れる。口が緩んでいる。愛おしそうに神華を見つめた。やがてその緑の瞳が真剣に物事を考えるかのように細められた。
総司は部屋から出た。
ため息を一つついた。
総司は自分の右手を見つめた。この右手は多くの者の命を奪った手だ。赤い血の感触は総司の中で鮮やかによみがえる。
神華は嫌ではないだろうか。
神華はその手を人の血で、樹神の血で濡らすのだろうか。血に染めるとしたら彼女は何を言い、何を思うのだろう。
そんなことばかりが総司の頭を占めていた。他に何も考えられないくらいに。不安と焦燥。怒りと悲しみ。感情が総司の中で荒れ狂う。
総司の頭は神華と神華の兄と名乗る樹神のことで一杯一杯なのだ。
神華は世界を終わらす前に樹神を止めると言い放った。言ったからには神華はやるだろう。
「もしも」
総司が固い声音で呟く。
先ほど、神華をを寝かした時の優しく暖かい声とは全く変わった声だった。感情を押し殺したかのような怖くて固い声音。強い意志を感じさせる。
「もしも、この手が汚れきっていないのなら、誰かを守るために汚したいんだ」
総司が拳を握りしめた。拳には力が入り過ぎて、白くなっていた。
静かに己の拳を見つめる総司の肩を誰かが叩いた。
総司は振り向いた。