16 見えない手(4)
「この、くらいッ」
身を縮め頭は守り、クロスボウへの装填を遅々としながらも完了させる。
カチリと終点の音が鳴るまでハンドルを回した腕は度重なる手長の猛攻により痺れが走り、これで外せば……第二射を番えられるかどうかの保証もなかった。
黒一色の変わらない景色。
居るはずの見えない腕。
完全に影へと溶けた一匹の獣は疲れという概念すら捨てたのか吐き出す唸りに途切れる気配も無く隙を狙い襲い来る攻撃は嫌になる程に正確だった。
「チ」
胸へと溜まった緊張を吐息に変えて外へと押し出す。防御に徹し待ち構えた衝撃は背中から、震える痛みと重さを背負い雨中の空へと顔を上げる……
「ぐっ、ああ」
向くのは前方。大きく回り込んで背中から叩き付けて来た手長の爪を起爆剤に変え、たたらを踏みつつよろける足を踏み出す足の第一歩へと変え、駆ける。
「らあああッ」
ぬかるんだ土を踏む足。爪先は深くなり始めた水溜まりを躙り上がる飛沫は踝に掛かる。とても冷静ではいられない頭の中で不規則に開始を告げる秒読みのカウントを、何一つ先の見えない闇を走りながら一つずつ増やしていく。
「ああッ」
1……まだない
「ハァ!」
2……まだ、来ない
「が、あ、ハアッ」
3,4,5……必死さを笑う足が互いにもつれ、6を数えるより先に追い駆けて来た獣が『右側』から腕を振るう。
「グっ」
……肩部を、堅い石か何かを投げ付けられたような感覚。
意識の外で崩れようとする足を気力で制し、感じる痛みを上擦る声に変換して身震いするのを止める。
「かッ、やっぱり、真っ直ぐになんて来てくれないか」
──グアオ
「くそっ」
逃げ出す事すら不可能だと再び追い討ち気味に開始される執拗な襲撃。
浅く、素早く、決してその場に留まり続けない一連の攻撃
はこの手長という獣が害獣の域に収まらない程知的だという事を知らしめる……真っ直ぐに、向かって来てくれれば適当に撃った矢でも当たるかも知れない、そんな夢想めいた偶然をサラリとかわし、叩き付ける腕の一本が再び真後ろから降り掛かる。
膂力を前方への加速と変えてくれる重い一撃。
「く、あああッ」
痺れる痛みを確認し、もう一度走り出した。
──こっちはどこまでいっても人間だ。
無尽蔵なスタミナも無ければ駆け出す足が獣の速度を上回る事は絶対にない。初速を稼ぎ残り体力を吐き出す呼気へと上乗せし……カウントを開始する。
「だああああ!」
カウント1……気配はまだ遠い
「ハアッ」
カウント2……雨を弾き、迫る四足の影が背後を駆ける。
離れる自分と追う獣。二つの距離は3,4,5で時計の針が進む度に加速度的に狭まり。再び、最後の6で追い付かれた。
「イッ」
今度は、左から。
飛び付き翳した腕と爪が肘を掠め、勢いに追いやられた手は無意味に振れ動かしていた足は停止する。
──ガア
「ぐ」
三度開始される襲撃の雨。
守るべきは最低限の急所とクロスボウ。
上半身を屈め頭を落とした格好で、時折耳を攫っていく鋭い風切音に混じり微かに切れた赤い血が見えない影に花を咲かせる。
「ハアッ、グ、ハアッ、ガッ、ア」
──シルドなら、もっと上手くやっていたかも知れない。とっくに終わっていたんじゃないか。
不甲斐ない自分への苛立ちと急加速と急停止を無理矢理繰り返し続けた心臓が暴れ続ける。
「ハッ」
もう少し、もう少し、かも知れない。
あるかも分からない希望の糧は次の走り出しを命令し、出来はしなくても息を揃える。
──ガアア
痛みを生む咆哮が、降って来た。
「ヅ」
衝撃に腕には震えが走った。
押し潰す重みの中で考えて、耐えて、土壇場の失敗を恐れ頭の中で何度も思い描く手順を繰り返す。
『来い』という強気の反応、『一生来るな』という逃げ腰。反する二つの願いがごちゃ混ぜとなる中で密かに、右手のクロスボウと左手の短剣とを持ち替えた。
──ガアア
人にも似た殺意を滲ます叫び声、漏れた獣の吐息は背後から。背中押す爪の接触に合わせ
「ッ!」
……ここしかないと、前へ向かって飛び出した。
右も左も分からない暗闇。
頬で砕ける雨粒、ぬかるむ土を連続的に踏み付け、カウントを開始する。
「だあああ」
1。
全力で走れ全力で走れ全力で走れ……離れれば離れるだけそれがいい。追ってくる足も、早くなるからだ。
「があ、ハッ」
2。
息が詰まる、足が土に取られる、前が見えない。止まる要因はいくらでも思い付くがこの時だけだと全て封じる。
3。
「ッ!」
どうせ──3までしか走らないから。
振り返り、睨み付けた黒。何も見えない向こう側には確かにいるだろう手長の姿。
急停止に滑る足を腰を落とした体勢で止め、掲げた短剣を……『地面』へと向けて振り下ろした。
「こっ──」
ドロリと、刀身から泥へと埋まる感触。
その身を離した手元の先から何もかもの判別を闇が奪っていく……だけど無くなった訳じゃない。突き刺した場所はまだ分かる。そこへと向かって右足を振り下ろし、持ち手の部分をしっかりと踏み付けると土の上へと向かって引きずり落とした。
カウントは止めていた。時間がどれだけあるか分からない。
剣先は走りくるであろう手長に向けクロスボウへと手を掛ける。
「れ──」
弓の先は下へ。
どれだけ強力な武器であっても当たらなければ意味は無い。長大な剣に比べれば細く短い矢、点として進む爆発力が補える範囲は少ないが。
当たれば、出来るはずなんだ。
自分自身よりずっと信じられる、この──
「でぇ──っ」
唯一、心苦しいことがあるとすればそれはイネスの事。
武器を借り受けておいてなんだがこれで、完全に『返す事が出来なくなる』。
「ッ」
頼むから、やってくれ、出来るだろう。
なんせお前は誤射とはいえ……あのシルドの冒険者装備を砕いて見せたんだから。
「弾けろおぉッ!」
引き金を引き、射出する。
──ガ
獲物は近い。どこに居るとも分からない手長ではなく足元の『短剣』だ。
反動、秒すら満たない飛行時間を食い潰し剥き出しの刃へと矢が迫る。
発揮する威力は甚大で、硬質の刀身を難無く砕き、弾け飛ばす。
「ッ」
破壊が産んだ耳を切り裂く音。一瞬の閃光にも似た火花が踊り、見事に千々に砕けて弾けた刃の一片一片と、何か、白い液体を映し出した。
何の目的も持たない無数の飛来物の軌道は無秩序だ。
ただ道を塞ぐモノを切り、右も左も奥も手前も、全てが関係なく避けようもない斬撃が襲う。
それは撃ち壊し自ら危険を作った自分にも同じ事だった。最低限に顔を覆った腕をすり抜け、欠片の切り口が皮膚を飛ばす、滲む赤と強い痛み。
涙目に後悔を思う気持ちも強いが、それも
─ガ
『向こう』に比べれば断然マシなものだった。
─ガアアガアアアアアア
「く」
半ば狂乱と化した獣の雄叫びが宙を震わせる。
どれだけ傷が、どれだけ痛いか、それは見えもしない自分には想像の範囲外だったが少なくとも身を守る防具なんて有りはしないんだ。
自爆と無差別に近い攻撃は、確かに見えず追い付けない相手を叫ばせた。
そして……一瞬の火花に過ぎなかったが確かに影も剥がれたんだ。
「そこ、か!」
既にすぐ近くまで迫っていた手長の巨大。
目を焼く光に闇の残滓の中へと残った黄色い輝き。
クロスボウに矢はない、短剣の一つも自分で折ってしまったが獣へと迫る武器の最後の一つは腰回りの鞘にしっかりと収まっていた、終始抜く事の無かった大刃の短剣、握り締めた持ち手を引き抜くと手長の影へと向かって踊り掛かった。
──グッ
……半狂乱だった雄叫びが止まる。
もう息を吹き返したのか。短く姿勢を起こす足音、既に走り出していた未熟な剣の軌道を上回り、持ち直した長い腕が風を切り迫る。
止まれない
「だ」
止まる──ものか!
「アアアアアッ!」
振る刃と爪とが先の見えない空中で交錯し。
「ガ」
衝撃が、肌を撫でる。