14 見えない手(2)
「――ッ!」
生まれた痛さに、止まり掛かる身体に鞭打って突き動かす。
折り畳まれた腕は肩と肘の二点を中心にして伸び上がり、手の中に握り締めたクロスボウを後方と向かって叩き付ける。
視野の完全には届かない黒の中で、一瞬目に映った気がする駆け出した獣の姿。
「く」
本来振り回すには向かないクロスボウが鈍い通り風を巻いて叩いた先には何もない。空振り、自重から崩れそうになる身体に足を張ってその場に立ち止まり上へと上げた顔の先では本来そこに在るべき獣の姿が闇へと消えていく所だった。
「この、イツッ」
悔しさと痛みが漏らす荒い息に伸ばした腕で傷口を強く押さえ込む。
……本来であれば痛いどころでは済まされない爪の通り道、しかしドロリとした粘度の高い液体が手に触れたのは首筋の裏側だけだった。
不意打ちに近い攻撃で手長の爪が裂いていった脇腹と背は冒険者用装備に守られ傷はなく、防ぐ物の無かった首筋も傷自体が浅かったのか出血はあっても大事じゃない。代償として失われたのはイネスから借りた雨除け、頭部を塞ぐ事が出来る覆いも削り取られて地面へと落ち、元からシルドとの攻防でズタボロだった外套は今やこのまま返すのが忍びない位に変貌してしまっている。
「うっ」
じっと見ていると妙な気持ちを浮かび上がらせてくる自身の血から視線は外しクロスボウの次矢装填に手を腰へと回す。
全体としての傷は浅く血の気の量も耐えられる範囲内だが……まだ手長の襲撃自体は終わっていなかった。
――グ
―グ
―――ググ
「チ」
風に乗り、時折耳へと届く唸り声。
迫る雨音に霞みそうになる弱い音に神経を尖らせ、矢筒から取り出した新しい矢をクロスボウの弦に絡ませる。
対モンスター用として過剰戦力ともいえる武器は一度『外した』としてもまだまだ頼もしい、亀裂に近い傷が走ってしまっている外見に反し装備としての能力に遜色は全く無い。
光沢ある弓の重量感、鉛色に輝く射出部、手に丁度良い握り具合……全く問題は無い。
「……ぐ」
何かが仮にあるとすればそれは『使い手』の問題に他ならないだろう。
「避けた……そんな」
忘失と思い描き反芻するのは先程見た手長の挙動。明らかな意志が見えたそれに微かな戦慄が走る。
接近に合わせ確かに狙いは付けたはずだ……急いでいたから多少荒くても真っ直ぐ向かってくる相手に対して掠りもしないなんて事は恐らくない。
接近の途中、あたかも攻撃を誘ったかのような急な横跳び、死角から死角へと走り抜け、一撃を相手へと加えると下がって行く……まるで人間のような行動だ。
「クッ何が、獣だろう。理性的な虎とかなんだソレ!」
──グ
「チ、くそっ」
自らで呟いた悪い冗談に対しクスリと笑う隙すらくれず低い唸り声が遠くの木々に反射する。
狙い。回り。確認し。潜む。
――グ
一匹しかいない包囲網は恐怖心を掻き立てる暗闇も相まってか狼の群れに取り囲まれた時以上に鼓動を激しくさせ、怖じ気づきに飲まれないように自ら意識して強い声を上げる。
「来るなら来い。逃げないぞ」
──グ
「お前も、逃がさない」
チラリと視界を横切って見えた気がする赤く染まったレックスの姿。……予想外の手長の動きには目を剥いたがどれだけ異常な獣であっても生き物の範囲内である事が小さな希望だった。
どれだけ行ってもモンスターではない。叩き付ける爪や牙は防具を通過出来ず、クロスボウの一射が確実に身体へと吸い込まれればそれで終わるだろう。
──まだ、大丈夫。
「ッ」
雨音に混じり、耳へ入る唸り声に逃亡する意志は感じられない。
漏れ出す威嚇と敵意は僅かに光って見える瞳の色から覗き見える……振り続く雨による視界の悪さが向こうの優位を浮き彫りにしているからか。単に野性な力が上回る夜の時間だからか。
これというハッキリとした理由は思い付かないが『今回は』背を向けて逃げる様子は感じられない。自分と同じだろう。
「これ以上、好きに……」
――――ガ
「来いッ!」
……人語を解するはずがない。
しかし挑発に口にした一言に呼応し大きな四足のシルエットが積み重なった倒木の山へと踊り上がった。
空は隠れ、自然な灯りには頼れない不確かな暗闇。唯一の光源てなるランプの光に煽られて黄黒の縞模様を持つしなやかな体躯が空を駆けるように走り始めた。
「今度こそ」
距離は……まだある。クロスボウの装填は既に終え、強い力を生み出す弓の先を影へと向ける。
焦って飛び出したとも見えるシルエット、今度は外しはしないと明確な意志で引き金へと軽く指を掛けた。
「──」
新しく番えた矢。力の解放を持ちかねカシャリと鳴らす音。一撃で命まで刈り取る矢の先を獣へと狙い定め指を絞る……
「な」
……はずだった。
思考を分断し突如として頭上から降って来たのは水と土。
勝手に口へと滑り込んで来る泥に息は詰まり、一瞬前に見えたのは地面を大きく掻き上げるような動きを見せた手長の姿。
長く、太く、異様に発達した前脚は駆け抜け様に地面の土を踏むのではなく目的を持って空へと蹴り上げた。
駆ける身体より早く降り立って来た黒の欠片に狙い澄ましていた照準は外れてしまう。
「ぶっ、グ」
土に視界が狭まりはしたが、しかし速さはあっても泥自体に威力は皆無だった。被った土を手で素早く叩いてしまえばそれだけで消え去る脅威に過ぎないが、ほんの数秒……それだけあれば野生の獣が伸び上がり、接近して牙を突き立てるには十分過ぎる時間だった。
──ガアアア
耳へと入り込む、潜む事も忘れた猛り声。
振り解いた黒の合間から見えたのは存在感を顕とする開かれた口と、黄色く輝いた瞳。
「ッ!?」
……愛らしい外見の猫達と同色でありながら凶悪さしか感じさせない開かれた瞳孔と視線が絡み合い、直後に。
衝撃。
牙と牙とが噛み合う音。
急接近の勢いに押し出され一時重力から解放された雨水が自らの役目をようやく思い出したかのように背後の水溜まりへと落ちていく。
「こ、のっ」
──グ
見つめる黄色の眼を掲げた左手の後ろから睨み返す。
重さと圧力とに傾げてしまう身体で、それでも倒れてしまう事だけは懸命に防ぐと鎧腕の向こうへとクロスボウの先を向ける。
当然狙う先は手長の頭、艶めく牙の並んだ巨大な口を睨み付け。
──ガ
発射する。
猛り声が響いた。
発動の瞬間を待った駆動音。
発動の瞬間を予測する影。
目も止まらぬ力の解放には一拍掛かり巻き取り機が手元で震えた後、全ての邪魔する物へと牙を立てる凶悪な矢が放たれる。
「ヅ」
衝突、弾ける土。
僅かに上がった水柱の奥で何もない虚空を突き破った不手際を笑うように蠢く風切音が腕を伸ばしてくる。
また、外した。
「くのッ」
迫る爪。
しかしその野生の攻撃では防具を貫けない事は分かっている。肝心の頭さえ守りきってしまえばまだ反撃の糸口はある。
すり抜けて伸びて来る長い腕がゆっくりとすら見える動きで懐に入り込んだ──構えていた左腕をかわされる。
「──」
シルドと同じように迫る爪は、クロスボウが狙われると一瞬身体は強張ったがそれすら素通りして腕は奥へと入り込む──
接触。
それは腰部の横合い、しっかりと防具の役割を果たしたコートに爪は肌までは届かない……しかし。
「は」
直後に、パリンという甲高い音が懐で鳴った。通常の人体ではおよそ鳴り得ない甲高い音……だが自分はそんな音を鳴らす物を知っている。ここまでの唯一の道標の役割を果たしてくれていた『壊れモノ』。
──グ
喉を鳴らし口を開き手長の唸り声が空気へと混じる中で自分は確かに火を灯す『ランプ』の砕ける音を聞いたのだった。