13 見えない手(1)
目に映った獣の姿は見間違いようのないものだった。
色褪せた黄と黒で形取られた縞模様、険悪に寄った皺と漏れる咆哮、何より一回り以上も盛り上がった肩と『長い腕』が襲い掛かってきた獣の正体を如実に知らせて来る。
「こいつ……グ」
奇襲に近い爪と牙を受け止める事には成功したが、その次へと、動き出したい意思とは反対にくるぶしから下の足は重圧に負けてズブリと泥の中へと沈み込む。
全身を伸び上げ、圧し潰すように振り下ろされた足と爪は肌へと突き刺さる事は防げても内包する圧力と重さまでは消す事は出来ない、必死に体勢を崩す事を我慢するだけで震え出す肘の先で汚れた毛並みが揺れていた。
「ぐ、ヅ」
徐々に徐々に、折れて行こうとする自らの足。
耳を打つのは獰猛な息。
鉄臭い血色と独特の獣臭さを混ぜ合わせた異臭は感じる鼻を捻じ曲げ、一点へと圧力を集中させる肩からは軋みという名の悲鳴が上がる。
「こ、の──っ!?」
何とか、腕を振り払おうと決め腰へと力を貯めたその瞬間。乗り合わせた前足がまるで示し合わせたように腕を足掛かりとして更に伸び。太い足の奥からは大小様々な鋭い牙の並んだ口が顔を出す。
「カ」
僅かに光る琥珀色の獣の眼に、写し返された自分の顔が大きく歪んで目に見える。
人と変わらない赤黒い口内の奥から唸りは走り、閉じ込められていく上下の牙、金属質な刃と刃を合わせる音にも似た甲高い音が鳴り響く。
「……ツ」
寸前で反らした首のすぐ真横からガチリと背筋を凍らせる音。
そのまま通り抜けていく頭は肩口を越え腕に掛かった圧力は二段の飛び掛かりによって手の上から消失する。暗闇に残る輝く琥珀の瞳の残滓。
擦れ違い様を必死にもがくように走り出し、距離を大きく開けると太股の短剣を引き抜いて構えを取る。
「クソ! 不意を突かれたこの……ぇ」
意気込みに振り向いたその先には……『何も』なかった。
一瞬呆然と見送った目に直ぐに意識を奮って立ち直すと暗闇の奥を目で探す。
「クソ、どこに!?」
……危機感と共に焼き付いた特徴的なシルエット、膨れ上がった前足を持つその姿。
種別としての虎を一回り大きくさせた影は奇襲に現れたその場からは忽然と消え失せ……変わらぬ雨と暗闇に浮かび上がる木々の倒れた姿に、胸の内の心臓が嫌な動きをして一度跳ね上がったのを感じる。
「ま、さか……どこに」
──グ─
「ッ!?」
一拍の合間を取り暗闇から響いて来たのは呻く音。
『消えた』としても『失せた』訳ではない。低い獣の呟きに光と共に意識を向ける。
ランプだけの矮小な炎では全てを見通せない影の中、木々の間を移動する唸り声が草葉を擦れ合わす雑音に紛れ耳まで届いた。
「クソ……逃がすかっ」
一度の会合から姿を消した手長を求めて四方を駆けつつランプの光を翳して闇を退ける。
一面の黒、光を吸って邪魔する無数の白い雨。
足の動きに合わせ上下する光に切り取られた光景は広い空間と声のない材木ばかり、探す姿が数度木の影で見え隠れしたように見えるがそれすらも本物かどうか区別が付かなかった。
「く、隠れるのかよ!」
せっかく見つけた倒したい相手。吐き出す息が見えない何かに掛かったように行き詰まりを感じ焦燥が心に波を立てる。
中途だった矢の装填を再開し雨に濡れた指先が滑らないように注意しながら先を急いだ。
「チ」
番えようとしていた最初の矢は一回の接触で既に地面の泥の中に落ちていた。新しく取り出した矢を筒から引き抜き、先の丸まった先端を弓のしなりに合わせ上へと重ねる。
「逃げるなよ……逃げるな」
──グ
「どこだ、どこだよ」
─グ
「待ってろよ……」
───グ
光の届かない影の奥から見つけられない自分を笑うように時折聞こえて来るくぐもった音。
錯覚を繰り返す縦縞の姿に、ともすれば低い風の音に紛れてしまいそうな唸り声に神経は尖って行く。
巻き取り機から伸びた鋼線は固く張った弦の中心へと絡み機械仕掛けの力で絞られていく。
「ここで──」
ギシと手元で発するクロスボウの音、静かな獣の息、耳うるさい雨。
……逃がさない。運がいいんだろうここまで来たらシルドの邪魔すら予定調和に思える。
暗くて広い森の中で手長がここに居た幸運。やられる為に出て来たのかと少しだけ強気になった気持ちが身体を急かす。
「──」
ボキリと、何かを踏み抜く音が遠くの木々に聞こえた。
ハンドルを回す手の振動は固い引っ掛かりを最後に停止する……装填は終わり、引き絞られたクロスボウはシルドに傷付けられた上でも尚頼もしく横目で一目視線を送った後に左手にはイネスに借りた短剣を握ったまま暗闇を狙う。
「どこだ」
少しでも姿を見せたら撃ち抜くつもりだ……冒険者として悪い事だと理解した上でそれでも冷静に狙いは付けられている。
前面を開いた雨除けの下から覗くランプの火が、届く範囲で許された最低限の視野。
──グ
木々に混ざる唸り声が右側の樹木達から聞こえた気がした……そちらにクロスボウを向ける。
──グ
……向けた先からすぐに移動したのが分かった。今度は背中の奥、拾い上げた音を頼りに狙う。
一発、確実に。
「どこだ」
……そう念入りに思う思考の端で心配性な自分が、何故率先して襲って来ないのかと小さな疑問符を投げた。
「──」
考えのない獣だからと思う反面、最初の奇襲を最後にしまるで自分の周りを不規則に行き来するような唸り声に違和感はあった。
これが初対面なら話しも違うが初めて目にした時には確かに一直線に襲い掛かって来た……その後シルドに一方的に倒された印象が強く、それ以外の子細が薄くなってしまっているのは痛い。
「……ん?」
森で邪魔して来たシルドの言葉。村人達が自分達を騙していると悪いように言っていたがそもそもの原因は他にあった。
本当に、頼りにしていたようなアール達に薄い察しが顔を出してくる。
「害獣……?」
本当に……村の人間達が意図して偽討伐を依頼したとしたら──少なくとも『自分達の手に余る』と判断したからだろう。
シルドにやられたボロボロの姿、そこに甘えた訳じゃないが少しおかしい。
─グ
─グ
─グ
「……」
猪突猛進じゃない。
さっきから唸る声は回るだけで一向には襲って来なかった。
今と同じ伐採所で以前に見た時は……時は……
「…………見られた?」
あの時、自分は誤射をした。凶器となるクロスボウから放たれた矢がシルドを撃ち抜いたその時に、手長も居た。
「まさか……」
──グ
初めは一直線に向かって来たはずだ──しかしその後倒れたシルドを背にし向かい合った時、手長はおずおずと森の中に引き下がった。
あの時アレは立ち上がろうとするシルドの気迫に押されてと、勝手に判断していたけれど──
「ッ!」
思考が自らの内側に没しようとしたその時、カランとすぐ近くで乾いた音が流れた。
咄嗟に向けるクロスボウの先、光に映り目に入ってきたのは途中を大きく砕かれた、木の枝だった。
「──あ!」
グ
ギリギリ視界の端を駆け出す巨体が黒い影を背負って目に映った。
振り返る。
今までに貯めに貯め殺していた獣の雄叫びが背後で爆発していた。
声に竦む手。
足を目指して食らい付いて来る獣の頭に、先を揺らしながらも襲われるより前に狙いを付ける事に成功する。
迷いは切り一瞬の判断の元で絞られる引き金、自らの膂力は関係なく命を貫く一閃は一拍の間を持って問題無く射出され獲物に襲い掛かる。
進む四足が手前の地面を強く踏み。
「──な」
横へと、跳ぶ。
射出された矢は真っ直ぐに進む。
地面へと接触し盛大に巻き上げた土と水、自らへと降ってくる土砂の奥に輝く瞳が視界の届く一杯を通り抜け背中へと消える。
「ッ」
背筋が凍る悪寒の後に風を切る音と接触する熱い痛みが脇腹から背中、首筋の根元までに掛けて通り抜け。
「コイ、ツ」
後ろ髪のやや下、切られた皮膚に続いて赤色の線が空へと飛び上がった。