12 獣
シルドに襲われて良かった事が一つある……大半が悪い事で、良かった事も本当に良いか分からないがそれでも得られたものだ。
「ハッ、ハッ」
足取りに合わせ荒く震える心臓はまるで自分の物ではないかのように熱く、反対に付着した泥を上から流す冷たい雨により頭は急速に冷えていく。
……実際に感じる温度差のせいもあるかも知れないがそれでも少しだけ、自分が冷静になれた気がする。
「ハッ」
目に入る森の影よりもより暗い、責任と後悔の触手がより深い部分に絡み付く前に明確な目標に変わってくれたのは良かった。
『獣』でも構わない。
『実は』利用されていたならそれでいい。
『向こう』がどう思っているかは関係なく、自分が、レックスを──
「だ、あっ!」
暗い森の帳が、進む先で不意に開かれる。
……………………。
「ハッ、は、ウェッ」
染み込む水は案外重く柔らかく変化した地面の土は纏った装備の重さをより一層知らしめる。
可能な限りの限界に近い全力疾走だ。視野の狭まった暗闇が別の理由で霞んでしまうより先に目的の場所に辿り着けたのは運がよかったのかも知れない。
「ココにッ、く、いるか」
頬の内へと溜まった水気を吐き出し、言葉に乗せた強い勢いと共に装いの下のランプの光を周囲にへと向ける。
光源の届くギリギリの範囲内に、浮かび上がるのは立ち並ぶ木々の列から切り取られた広い空間。
ここだけガランとした広間には切り倒された木々が場所を分け互いに重ね合うように積み重なり、長い時間を掛けた自然のすえた匂いと腐葉土の放つ微かな異臭が鼻をついた。
『伐採所』
それ以外の詳しい名称は聞かされていない。
「ハァ」
黒い口を思わせる開けた暗闇はかざす光も端までは届かずに、薄いヴェールの役割を果たす降り続ける雨水は見渡せる距離すら狭めさせる。ここに、居るだろうか……
「クっ」
口の中まで勝手に入り込んでくる雨の欠片は非常に苦く、しかし気にする事なく開けた口から叫び出す。
実際に『手長』を見たのはここだ……誤って、シルドを撃ってしまったのもここ。
確か、最初に『奴』が現れたと聞いた場所もここでありレックスが……実際に襲われたのがどこであるかは自分には分からない。
手長を探す場所として思い付くのはここしかなかった。
「出てこい獣ォ!」
先の見えない黒の中へと光は向け、放つ言葉は吸い込まれるように闇へと消えていった。
「どこだ、出て来い! どこだ!」
駆け出し、伐採所の中央付近に進む。
開けた中心をクルリと回り自らの動きに合わせた白い光が黒墨の表面を僅かに削って回転をする。
「オォイ!」
目元に忍ぶ冷たい雨、がむしゃらに振るった指先から水が飛び、踏み鳴らす足は水溜まりに小さな波紋を残す。
「オイ! オイッ!」
目的の相手を探し響かせれ声も探す視線も止めはしない。
無駄に走って。
開いた口から不味い雨粒が入り込む。
振り上げた腕は空振りを続け。
邪魔する木の枝を踏み抜くとパキリと小さく音は鳴った。
「どこだあああ!!」
──反響に響く声に、手長と呼ばれる獣が…………現れる事は無かった。
「そん、グッ」
走り過ぎか声の張りすぎか胸の近くで一瞬感じた強い痛み、自然とくの字に折れた身体の上で数度の咳き込みが口を動かす。
呻く端から外へ出て行くのはいつの間にか入り込んだ貯まった雨水。
胸に感じた痛みも意識をした時には既に過ぎ去り、落ち着いた頃を見計らい顔を上げると揺れるランプの炎の向こう側に何かが見えた。
「ハッ……ハ?」
目に見えた何かは照り返す小さな光。
ランプの火に呼応する輝きは自然のものではないように目には見え、その場所を意識して顔を向ける。
「な、んだ」
……大きさで言えば今の位置からは小さ過ぎて小粒程度。
揺れる火の光を確かに返す何かの輝きに……探す目標を一時失った自分にとって目指すには十分過ぎる理由だった。過度の使用に疲れを感じ始めた足を動かし、光へと近付いていくとそれは逃げる事もなく次第に大きくなる。
「……」
遂に光が足元となる場所まで辿り着き、重なる泥の中に手を差し入れると確かで堅い手触りが指に返って来た。
「これ」
引き抜く。
「……」
それは実物の大きさで言えば道端に転がる石程度……というよりも石そのものだった。
灰色をした変哲もなく硬い部分から、きっとここが照り返していたのだろう僅かに顔を出した半透明の結晶が光を放つ。見る角度と吸い込み光量によっては七色に輝いて見えるその姿には強く見覚えがあった。
──違いがあるとすれば、あの時見た物より少し『大きく』形が違うという事だ。
「これ、レックスの──」
呟き掛けた言葉に。
──グ─
……別の方向から拾い上げる物音があった。
「っ!?」
突如背後から聞こえた音に、振り返る。
身体の動きに合わせて向いた火の光、照らし出される伐採所の空間の中には
「……」
何も居ない。
「なんだ」
嫌な感触に拾った結晶混じりの石を急いで懐の奥へとしまい込みとクロスボウを構え、その時になってようやく自分の失態に気付く。
「あ」
まだ……矢を装填してない。
シルドと対した時からそのままだった事を思い出し矢筒の中へと指を伸ばすと再び響く『音』。
──グ─
「っ!」
音は、また別の方向から聞こえた。今度は向かって左側、急いで振り向き光を向けた先に浮かび上がるのは重ね積まれた木材の山だけ……やはり何もない。
「ぅ」
額に触れて弾けた水が頬を流れ、その中に混ざり込む粘着いた別の液体。
嫌な予感に焦りだし、握った矢をクロスボウの中へと当てた所でまた別の場所から音は聞こえた。
─グ──
「ッ」
……そるはさっきまで向いていた先だ。今度は意識して素早く向けた光の向こうに一瞬、何かの影が見えた。
しなやかで早い影。
見間違いと切り捨てるには余りに記憶を揺すったその姿にクロスボウに矢を番えさせる事を急がせる。
巻き取り機から伸びた継ぎ手を弦に掛け、人力である程度引いた後に機械式のハンドルへと手を掛ける。
─グ
「クソッ」
今度は右から。
音の聞こえた方向に光を向けるのとほぼ同時に
背後で
グ─
『獣』の咆哮と巨体の影に伴う鋭い爪が落ちてきた。
「クっ」
ガチリと合わさって鳴る音。
胸に込み上げたのは間に合ったという安心感と間に合わなかったらという怖さ。
クロスボウから腕を放し掲げた左腕が受け持った衝撃……堅牢な装備の内まで入り込んで来る鋭利な爪はなく、その肥大化した『長い』腕の奥で見知った黄縞の、凶悪な猫を思わせる顔の上には光を吸い込む琥珀色の瞳が闇に輝いた。
「手長!」
先日逃がし、その結果レックスを傷付けた原因。あの時と変わらぬ獣は立ち並ぶ牙の奥から明確な殺意を匂わせる低い叫び声を上げる。