09 今もある、きっと取り戻せるもの
――木の裏に背を張り付け息を整える。鼻腔をくすぐるのは緑の匂い、濃いとはいえずまばらに立つ木々はそこまで多くない。
喧噪は遠く。大きな音といえば時折聞こえる風による葉擦れの音だけ。
林の中でも特に大きなこの一本の木に隠れてしまえば外からは恐らく見えないはず…それもチビチビとバカにされる『僕』の事、背丈も幅もすっかり隠れてしまい影に紛れてしまえば見えはしない。
「……」
…だと言うのにその人は来た。ゆっくりとした足取りには力みが無く落ち着いた様子でゆっくりと…それでも僕のいる場所は分かってるとでもいいたげに木の前へと近付くと腰を下ろした。
この人はいつもそうだ、気の無い素振りをするのは相変わらずのくせに何かあると嗅ぎ付けて必ず傍に居た。その態度はどこか超然とし、僕を見ているようで…それでまるで僕の先でも見るようにその視線は透き通る。
……またいじめられたのかい?……
その問い掛けに耳を打つ言葉に、まるで心臓を鷲掴みにされたかのように大きく鼓動を跳ね上げて…
ガタンッ
「っ」
大きな反動に頭が上がる。打ち付けた頭は木の壁にぶつかったようで痛みを訴えて、前方からは「おっと、すいません」と…本当にすまなく思っているかも疑いたいような軽やかな言葉が漏れる。
「う…ツ」
虚ろ気だった視界はやがてクリアになりはじめ、開かれた窓から見える外の景色は高速で後方へと流れて行く。顔を触る風も乾いた甲高い蹄の音も一定としたリズムを刻みその鼓動が僅かに眠気を誘う。…だからだろう、きっとあんな変な夢を見てしまったのは。
「ち」
気分が悪くなり、そのまま改めて眠り直そうかと体を丸めて位置を変える。
今は走る馬車の中。ギルドお抱えの大型の竜車などではなく一般の大人数人程度しか入れない狭い荷台。人を運ぶのは竜では無くただの二頭の馬。御者台に座る人間はそれを鼻歌混じりに操りながら、時折大き目の石を踏み車体は大きく揺れた。
「……」
逃げてきた。
手に残るのはいくらかの荷物と押し付けのお金。…それと矢筒。
結局頭を下げてギルドに返却する事も投げて捨てる事も出来ず今も片側に置いている。…たかが矢筒、とはいえこれも冒険者用の装備には違いない、きっと売れさえすれば幾らかお金になるだろう。そうした打算でもやついた思いを片づけて前を見る。馬車の車窓から見える空は青く、僅かな白い雲が駒のようにあちこちに配置されている。
眩しい快晴はまるでこれからの自分の行先を祝福してるように。冴え渡る青に軽く吹く風もまた気持ちがいい。……このまま馬車を走らせて、次の町にでも着いたならまず仕事を探さないと…いや…その前に宿か。
冒険者ばかりして知識の少ない自分にはその辺りの事が疎い、きっと町についても大変だろう。先ずは住む場所を見つけ人心地ついたなら生活サイクルを。…次は何がいいだろう、警備隊?商人?左官の弟子?……まぁどれもいいさ。きっと、将来への新たな展望は明るく開けてる。
『お前の、次の未来に幸あれ』
「……」
…開けている。そのはずなのに気分が悪かった。それはきっと先程の夢見のせいだ。今更に嫌な事を思いだして気分が滅入る。改めて何か別の…楽しい夢がいい。僅かに祈り願って目を瞑ると、それと同時に明るい声が響く。
「兄ちゃん冒険者?」
「……」
「…ん?ああ分かった!『元』冒険者だろ?な?」
声には答えない。聞こえてきたのは手綱を握る御者の声だ、馬車の中はガランとして自分以外の客は見えない。きっとおしゃべりな性分なのかもしくは延々と手綱を握る作業に飽き初めてきたのか、どちらにしろそんな気まぐれの言葉に答えてやる気はさらさらなかった。
いかにも楽しげなその言葉は今の自分には不快で。無視をしていれば黙るだろう目を瞑るが生憎とこの御者相当に根性は曲がっているようで、答える言葉はなくても1人で勝手におしゃべりな言葉を口から漏らす。
「そうか、元か。いいじゃない!元冒険者なんてどこでも引っ張りダコよ?体は丈夫、腕っぷしもいいし、気前も気持ちよくストンとして明快でさ。きっとうまくやれるって自信持ちな!」
「……」
―――もしかしたらこの御者…励ましでもしているつもりなのだろうか。
朗々と漏れる言葉は努めて明るく、まるでその言葉通りに明るい未来であるように語る。…そうだな、それもいいかも知れない。
肌を触る爽やかな風に濃い緑の香りが混じり始める。
「俺の同僚の1人に元冒険者ってのがいるんだけどこれが気持ちのいい奴でさ。しっかり働いて体力もある。オマケに打てば響く鐘みたいに声を掛ければハキハキと返事して。どうも先輩御者としてほっとけなくってね、何かと世話焼いちまうもんなんですよ。…これはあれかねぇもしかして冒険者ってのは何かそういう人を惹き付ける教育でも受けてるの?だったら教えてほしいなー」
「……」
そうかい、それはよかったね。そんな教育存在しないよ、あったとすれば今頃自分は人に巻かれて大忙しだ。
「…」
町を出た時の事を思い出す、最後の恩赦かギルドの用意してくれた馬車に乗る為に向かった乗り合い場には自分以外には誰一人いなかった。
別れを惜しむ声も、さよならと振る手もない。…誰も自分の事なんてどうでもいいのか1人で荷物を積み込み、1人で馬車に乗った。
だから、もう十分じゃないか。これ以上嫌な思いをさせないでくれ口を閉じてほしい。…もう…たくさんだ。
「…そいつ、片腕がないんです」
「…っ」
息を呑む。
あまりに簡単に自然と漏れた一言に一瞬何を言ってるか分からなく…それでも御者の言葉は流れる風のように止まる事無く続いて行く。
「初めはひどいもんでね、片手しかないから馬もうまく操れない、生活もうまくやれない、何をやっても立ち行かない。それでいて元ギルドからの援助ってのが何もないっていうから驚きですよ。…だから…兄ちゃん、早くに辞めてよかったよ。どこか一箇所でも片腕でも片足でもモンスターに食われちゃそれで人生半分が食べられたようなものさ。…そうなる前にいち早く気付けて手を引いたアンタは偉い、頭がいいよ。尊敬する」
「……」
言葉には確かな重みがあった。
その通りだ。冒険者なんてかっこよさげに言っても所詮は命の切り売り…大量のお金や名誉を手に入れられるのはその中のほんの一部しかいなくて、それ以外の人間は失敗に挫折をいやって程味あわせられて…それで最悪命を落とす。
考えれば考える程に最低な仕事だ。人の命をなんだと思っているのか、畜生か?悪魔か?……そんな仕事から手を引いた自分はいい。別の町に向かって何かをしようとしている自分はいい、賢いんだ。
「だけどね。ソイツ、ちょっと酒が入るたびに言うんです」
「……」
「自分の半身は冒険者時代に奪われた、今はもう決して取り返しにいけない程遠くに置いてきてしまった、それが今でも口惜しくて悔しくて…それでいて」
「きっと、自分の輝いていた時間はそんな最低の冒険者時代だった……ってね」
「…」
パシンっと鞭の叩く音が響く。御者の言葉はそこで終わった。
馬車の走る速度は加速度的に上がり、再び何かに躓いたのか車体は縦に横に大きく揺れてを繰り返す。…あるいは操作に集中しなければいけない所にでも差し掛かったか、それで何も言わないのか…続きを待っているというのに御者台からは無言で手綱を振るう音だけが漏れ聞こえる。
「……」
話しが分からなかった。それも仕方ない結局は他人の話しだ。完全に理解することなんてきっと出来ない。
――輝いていた?さっきと言っている事がまるで違うじゃないか。さっきは冒険者時代のせいで人生が終わったとそんな風に言ってたじゃないか、それなのになんで。
「…」
自分の向ける視線に気付かないのか、御者はひょいと避けるように体を動かし、片手で振るう手綱の音だけが辺りに響く。
『君はそうじゃないかも知れない』
向かう相手がいなくなり思い出す。自分がせっせと森傷草を取りにいっていた事を。
「…」
一体どこが輝いていただろうか。どれだけがんばって見ても結局はそれはランク外のクエスト、無事に帰ろうが傷付いて帰ろうが関係なく自分を見た他の冒険者はただ笑うだけで……だからといって直接的にモンスターと戦うなんて怖かった。
…出来なかった。
誰かがモンスターと戦ってる姿を見た。自身が遭遇した時の怖さは身を裂く様に、傷付き倒れ下手をすれば命まで落とす、そんな冒険者を他にも見ていて
「……」
それで、怖くなったんだ。
『なんで冒険者になったんだい?』
「…」
騙されたから。
耳聞こえのいい事を言われ唆されてその気になった。バカだった単純だった。その時の自分を過去に戻って殴りつけてやりたい怒鳴り散らしたい、そんな事分不相応だと、そんな出まかせに喜んだから、だから今の自分が苦しんでいるんだと…そう言ってやりたかった。
『なんで逃げた』『何故捨てた』
『その事を何故一番に聞かない!お前が気にすべき事は逃げ出したモンスターでも後の事でもない!』
「…」
そうだ…怖かったからだ。目の前で立ち向かえるはずもない強敵に迫られたらそうだろう。そんな気持ちが分かる訳がない皆自分とは違うんだ。戦える力があって才能があってそれに比べて自分は何も勝ってない。それでいて何故だと、どうしてだとなんで平気に聞ける。
…理不尽だ…ふざけてる…バカにしている。…こんな自分なんかに一体何を期待できるっていうんだ。
『またいじめられたのかい?』
「……」
『ふふ……悪い、何も君の事を笑ったわけじゃないんだ』
「……」
『私も昔は…今の君の様な状態だった。周りが合わなくて誰も信じ切れない、どっちを向いても誰を見てもどうせ私の事なんて分かってくれないと心の中では思ってね……気を付けていたはずなのに気が付いたら私1人だった、なんて事もざらにあったな』
「……」
悪人。
それを聞いて自分はなんと言ったか。…「嘘だ」と言った。
結局はその人も出来る側の人間でしかなくて、自分なんかとまるで違う。努力をすれば実に付きそれが周りに認められ…情けない怖さなんかきっと感じない。
『なら…そうだな。君に1つ、魔法をかけて上げよう』
…それは『毒』だ。
意気地なしの自分をその気にさせる最低の毒。その言葉に踊らされ挙句に失敗して取り返しのないものまで失う…分かり切っている、もう何にも手は届かない。
そう御者の言った通りに今はもう、決して、決して取り返でるものじゃ。
『よく考えるといい』
『良かったな』
『キミは……』
…そうじゃ…ない。
「……めて」
「…ん?」
胸の中のもやもやが駆け抜けて。
1つの何かが見えた様な気がした。
「止めて」
「…え?いや、兄ちゃんこんな所何もない」
「いいから!」
高く鳴る言葉と共に馬車全体に急激なブレーキが掛かった。慣性で前のめりになる体。流れるような景色はしばらく走り、やがて止まり。馬車全体が制止した事を確認すると立ち上がる、僅かな荷物を手に取り掲げた腕は木の扉へと手を掛け迷う事無くこれを開く。
「え、ちょっ兄ちゃん?何を!?」
「やる!」
背後から掛かる声が煩わしく手にしていた皮袋を投げ付ける。…中身は自分自身の対価として与えられた硬貨の群れ。これ以上はなく価値もこれくらいだと決めつけられた報酬。それを投げ付けて手の中の布包みを開く。
風に煽られ巻かれていた布地は青い空の下に白く舞う。幾重にも重ねられた下から取り出されたのは見慣れた細長い筒。付属のベルトを腰に巻き付け頭は右に来るように、振られた衝撃により矢筒の中身は大きく揺れて…まるでその事を喜んでいるように鳴いた。
「…お、おい、どこに!それにこの金どうしろって」
「取りに行く…」
「…へ?」
「オレの、半身!」
言い切り、前を見た。
風に混じる緑の匂いは濃くなっている。歩き出す…いや走ると言った方が近い。
ジャラジャラと背中の音を引き連れて乾いた砂の上を踏み締める。
もう今は決して取り返す事が出来ない…それが口惜しい。
そう御者は言った。…だけど、そんな事はないと思う。
自分はその話しの中の人物とは違う…才能だって力だって違うかも知れない、自分の方がずっと下だろう…だけど、まだ自分には半身は居る、在る事が分かった。
他ならぬ自分が投げ捨て、置き去りにした相棒を…それを取り返しに行くなんて事決して不可能じゃない。
「行くぞ…!」
遠くに見える緑の山。暗い影と凶暴な襲撃者とが支配する闇の中。
きっとまだ、自分の半身は今もそこに…。
「…そう、か」
ガムシャラに、駆け出して行く少年の背中を見つめ御者は1人小さく呟く。その顔に浮かぶ表情は複雑で半分は泣いている様な半分は笑っている様な、不思議な顔。
あいまいに歯を見せて微笑むと片手で受けた皮袋を傍に置き離れた少年に向かって掲げた右手を小さく振る。
…その御者の左腕は長いマントに隠れ、決して見える事はなかった。