31 きっと大丈夫
息を殺し、待つ。たったそれだけの事がこれ程大変だなんて今日初めて知った。
「……」
ベッドのシーツを頭まで被り物音一つ立てずにジッと……耳を澄ませば聞こえてくるのは大きな喧騒と怒鳴り声『駄目だ』『役に立たない』『予定と違う』そんな声を、聞いているだけで頭がおかしくなりそうな声を聞き、極力無視しようと心に決めると何も感じない振りをする。
「っ」
すぐ近く、部屋の外から僅かな足音が聞こえた。ゆっくりと落ち着きのある足取りに誰が来たのかを想像し。今までの人生で一番の、自分でも最大級の『寝た振り』を心掛けて目を閉じる。
「……」
僅かに開かれた部屋の扉。擦れる木々の音と一緒に部屋外から白い塔のような光が部屋の中に差し込む。
「……眠ってるね」
「……」
聞こえてきたのは優し気なじーちゃんの呟き。思わず返事をしそうになった口をぐっと堪え。何にも反応を示さないように全身を硬直させる。扉を開けはしても立ち入る気配は見せない人の姿、無音である部屋の中とは別に自分の心臓の音は胸の中でバクバクとうるさいほど。……本当に、息まで殺してしまいそうな静寂の中。耳に聞こえてきたのは小さな溜息。
「本当に勝手な事ばかりよくそんな……あの子達が可哀相だ」
……諦めにも似た呟き、最後にそれだけを残してじーちゃんは部屋を去って行った。音を立てないように気を付けて静かに閉じられる扉、隙間が完全に閉じると同時に入り込む白い光も完全に消え。
再び静かで暗い部屋に戻る。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
忘れていた呼吸を再開し、高鳴っていく胸の内にまるで悪い事でもしているみたいな緊張感を感じる。暗い部屋の中で生まれて初めての経験に胸は踊った、これから待ち受ける小さな冒険に、膨らむ笑顔は小さな笑いを溢す。
「ふふ」
頭まで被ったシーツの下で、胸へと抱きしめるのは高級そうなガラスの器。黄銅の金属部分と付属の小さな火打石とを手で撫で回し、時間が過ぎるのを今か今かと待ち続ける……初めは武器しか扱ってないと言っていた詐欺じゃないのか、こんなにいい物をぽんと貸してくれるなんて……だけどそのタイミングの良さが今の自分には都合いい。
外の廊下から聞こえる喧騒、騒ぎと怒鳴り声とが混ざった音が徐々に小さくなっていくのを感じる……会合も終わりが近いのか、もう少し……もうすぐだ。
「待っててくれ、大丈夫な、はずだから」
誰にともない自分の呟きが、暗い部屋の中で僅かに漏れる。
―――――――――――。
「……ぅ」
呻き、身体を小さく揺すり目を開く。
ぼやけた視界は眠気眼である事を覗いたとしてもかなり暗く、肌に触れる空気は異様に冷たい。
「……」
呆っと顔を左右に振り、そこでようやく自分が床へと寝転がっている事に気付く。身体を起こそうと思い至ったのは更にそこから数秒後。起き上げる重い上半身に、なんでと疑問を抱くより先、床へと突く腕に強い電流のような痛みが走る。
「ッ」
すぐに手を離し暗がりで確認をすると指先は破れ切れたままだった。
出血こそ止まっているがようやく塞ぎ掛かってきた切り傷は妙に生々しく、冷たい空気が肌へと触れる度に断続的な痛みが続く。
「くそ……ん?」
感じる手の痛さに毒を吐き、身体を揺り動かした所で胸の上から身体の横に何か布地が滑り落ちる。やや大き目で荒い縫い目のタオルか何か……眠る前に寒くて自分で用意したのか……バカみたいだ、そんな余裕があるならさっさと部屋に帰ってちゃんと寝ればいいのに。
「くっ、……いたいな」
昨日から二連続となる床での睡眠、凝り固まった関節を無理に動かすと余程の不満があるのか筋肉はすぐに悲鳴を上げ。ゆっくりと慎重に立ち上がると壁へと手を置き廊下を進む、剥き出しの頬や肌に染み込んでくるように忍び寄る空気の冷たさから薄々気付いていたがどうやら今の時間は夜らしい。
どれくらい床で寝てたのか。正確な今の時間は何時なのか。
相変わらずの厚い雲に窓から外を見上げても正しい事は何も分からず。微かに目に入る光源は村の中の他の家々の灯りと揺れる焚き火の赤い炎。
暗闇に慣れた目には十分な光源に前後不覚となって動けなくなる事もなく、とりあえず自分の部屋へ戻ろうと足を進める。
「……ッ」
ジクジク痛む指先に少しでもいいから治療をしたかった。
探り探りで辿り着く自室の前で身体を折り曲げながら扉を開くと、迎えてくれるのは乱雑に散らかされた室内。
大切なはずの冒険者の装備が、コートは脱ぎ捨てられた状態で床に広がり、鎧腕は関節の部分で外れ分解したパーツがそこかしこに散らばっている、倒れた矢筒から床にバラまかれているのは幾多の矢。ひどく物が散らかり……これを自分でやったと遠い頭で考え至っても今更片付けようとするような殊勝な気持ちは湧いてこない。
「……」
結局、治療用の道具を探す事すらやる気が失われ、壁へと預けた肩はずるずると下に、落ち込む視界で暗い壁を睨み、開けた口は変な形で歪み固まる。
「……ん」
酷い有様の室内……そう思っていたが一つだけ全うな形で残っているものがあった。扉のすぐ横の壁、そこに立て掛けられて置かれている自分のクロスボウ。弱い光源を吸い鈍く輝くその金属部を指で撫ぜ、そのまま肩掛け紐へと腕全体を通すと『相棒』を手に部屋を後にする。
「……」
廊下へ戻っても変わらない暗闇。僅かな期待に居間の方に目を向けるが誰か人の姿はありはしない。冷たく今では広く感じる家の中をフラつき、そのまま行く当てもない足取りで外に出る。
通り抜ける谷間の風。
重く厚い扉を開き、一歩外へと進むと夜気を孕んだ冷たい風が肌を撫でる。オレンジ色に燃える焚き火の炎、家々から漏れる明るい光。暗闇に輝くそれらの光源を横目に、空家の軒先で座り込む。
都合よくあった大きめの石は椅子代わりに、昼でも暗い空を見上げ。それでもやっぱり夜の方が寒いと他人事のように肌で感じる。
「さむ」
風の冷たさに目を閉じ耳を澄ませば聞こえて来るのは風が揺らす木の葉の音と、燃えて弾ける焚き火の炎。白とオレンジで作り上げる光達が及ぶ範囲は草木の緑や地面の茶までハッキリ見えるが、そこから先は黒一色。闇に溶け込む光景をぼんやりと見つめ、あの奥に、今は自身も黒く染め上げられているだろうモンスターを思うと軽い震えが走る。
「……っ」
息を殺し、こちらを淡々と狙うあの獣の姿を想像し。落ち込む思考が具体的なモンスターという存在に移った後は、あれやこれや色々なものが一気に吹き出してくる。昨日の失敗、今までの失敗、それより何より今日仕出かしてしまったレックスに対する自分の失敗。
「……はぁ」
落ち込む気分で申し訳なく思った。多分、勢いに任せてレックスに嫌な事を言っただろう。特別にモンスターと何の関係もないレックスにそんな事を言ってしまった自分が今はひどく情けない。
「……」
何もかも自業自得だ。自分がしてしまったそのダメさ加減を棚に上げて当たり散らし、喚き……あの時は沸騰しそうな程に頭を占めていたレックスに対する苛立ちも今は全く湧いて来ない。夜気を忍ばせる風の冷たさは強制的な頭の冷却を進めて思い浮かぶのは自分よりもレックスのあの時の顔……。
「泣いてたな」
ポツリと、漏らす。
「悪いこと、したな」
度重なる反省に罪悪感が上乗せされ、落ち着いた今となっては自分の酷さばかりが浮き彫りにされる。
考えたくない考えに手は乱暴に頭の後ろを掻き、ピリリと走った痛みに呻き独りで勝手に落胆する。あてもなく彷徨う視線は目的なくあちこちの暗がりを探し……結局、どうしても誤魔化しきれずになって重い気持ちから肩から上が地面へと向けて落ちていく。
「謝ろう」
空回りに空回りの果て、遅いとすら言えるタイミングで行き着いた結論に息を吐く。
レックスだって自分を心配して来てくれたはずだ、なのに。
悪いのは、自分……多少、軽いその物言いに苛立ちを感じたのは間違いないがそれでもレックス本人に何も悪い事はない。
謝ろう、そう決めると心は少しだけ軽くなる。そうするなら早い方がいいか、明日の朝一番がいいか、やっぱり多少は時間を置くべきか……さすがに、行って押し掛けるというのも非常識に過ぎる。
「明日……」
小さな呟きに顔を上げた瞬間に遠くに光が――
「ん?」
見えた……気がした。
「……」
目を凝らす。
気のせいだったのか、もう一度顔を向けても先程のような光はない。そもそも顔を向けた何気なく見た森の一角、こんな時間に暗い森の中にあるはずもない人工的な炎の光に疲れていたのかと頭を振る。
「そんな訳、ないか」
ぼやく自分の声に、物言わぬ焚き火の炎がバチリと応える。
――――――――――――――。
「よし」
問題ない。『抜け出す』事に成功した。
家を出る瞬間が一番危なくて見つかりそうになり、村の中を隠れて進む時もいつバレないかとヒヤヒヤした。慎重に慎重を重ねて進み、ついに暗い森の中に辿り着いた時には周りに誰の姿も無かった。唯一の心配だった借り物のランプも今は問題なく意気揚々と炎を吐き出し……最初の方は使い方がよく分からなくて一瞬だけ強い光を放ってしまったけど今は大丈夫、もう慣れて来ている。
軽くあの女の人が貸してくれた事にかなりの不安はあったけど揺れる人工的な炎は光の強弱すら可能な優秀な物だった。炎の勢いも強く、これなら一晩中すら灯していられるかも知れない。
手元のランプが照らし出す夜の森、鬱蒼とした木々は昼間とは全く別物の姿となって目に映り、風が吹き抜ける度に大きく揺れる木の葉、自分自身の影が木々の作る凹凸に従い大きくなったり小さくなったりを繰り返し。自分で踏み締めてしまった小枝の音にいちいち驚き、もう帰ろうかなんて情けない事すら考えてしまう。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
帰りたいと、そう思い浮かぶ度に口を開き呪文を繰り返す。『大丈夫』という何願い事に近い言葉呪文、夜の森に微かに響く自分の声に従って暗い森の中をひたすら進んで行く。……昼間来る方がきっとずっと楽だろう、だけど今は昼間は来れない。狼の件以降手長の出現後も森への出入り口には見張りが立っていて入り込めないしうまく森に入ったとしても誰かに見つかるとも限らない。手長だってこんな夜は休んでしまっているはずだ……昨日はどさくさに紛れてコワードの後を追って探しには来れたけれどそんな偶然が何度も続くと思わないし、何よりそれじゃ遅過ぎる。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
硬い声を漏らして足元を光で照らす。
ランプの火は常に下に、照り返す小さな欠片が無いか目を皿のようにして探していく。
ここは昨日も探した所。
こっちは『あの日』通った覚えもない道。
ほんの少し前の自分の記憶をほじくり返して、とにかく落としたに違いない、狼と出会って逃げ帰って来たはずの順路を逆に辿っていく。
あれが見付かればきっと大丈夫。
あれがあればきっと上手くいく……そう、親切にもランプを貸してくれたイネスも言っていた。
「だいじょうぶ」
だから、探す……怖さはあるけど大丈夫。
「だいじょうぶ」
見付からなくてへこみ掛ける……だけどきっと大丈夫。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
…………無い。だけど諦め切れない、自分が悪いんだ。
「……」
暗く、静かな森の中。
物音が凄ければそれはそれで怖いけど誰も話しをする相手がいない事が自然と今日の自分の失敗を思い浮かべてしまう。
「……う」
へらへらと笑って、本当に大失敗をしたと思う。
なんであんな事になっちゃったのか。元気付けて、励まそうって、そう思って待っていたはずなのになんで余計にひどい顔にさせちゃったのか。
『うるさいうるさいうるさい』
「……コワード」
『友人』にそう言われた時を思い出す。
目を強く閉じ、顔ごと捻じ曲げる辛そうなあの表情……あんな顔にするつもりなんてなかったんだよ信じてほしい。ただ良い事を言って、元気付けてそれでちょっとでも笑ってくれれば……それでよかったのに。
「……」
落ち込んでいた所で、藁にも縋る気持ちで相談してみたイネスは分かった口調で教えてくれた。
目に見えないものよりも確かに形のあるものの方がずっと強い。
柔和で人の良さそうな笑みに。優しい口調とその声音は全く別人のはずなのにまるでじーちゃんに打ち明けられたような、そんな安心感を感じさせてくれた。
だから探そう、頑張って見付けよう。絆はあったはずなんだ。それを無くしてしまった自分が悪い、コワードを怒らせた、自分がきっと悪いんだ。
「見つけ、ないと」
――友情の証。
口にすればすごく恥ずかしい、それでも本心から上げようと思っていたものがきっとこの道のどこかに。
それがあれば、それさえあれば、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
「うッ」
邪魔な木を手でどかし、鋭い枝が手に刺さった。痛みはある……だけどまだ我慢できる。
何か輝く物が見えた気がして、泥の混じった土を掘り返した。爪の間に土が入り込み、それでも引き抜いた手の平は何も掴んでない。
「う、うっ」
大丈夫。
「うう、うっ」
大丈夫。
「コワード、うっ、っ」
きっと大丈夫。近くにあるはずなんだ。きっと、もう近くに。
あの『石』が、証があれば。
「あっ」
掲げたランプにその時反射する光が見えた。
微かだけど見えた希望の輝きにようやく探し当てられたと思ってオレは走り出す。
痛い体で息せき切って走り、そしてようやく手を伸ばせば届く所まで来て。
「ぁ」
ランプの炎に反射して揺れ動く『二つ』の光……揺れる琥珀の瞳は静かにこちらを振り返り。
「―――――」
そして、獰猛な唸り声を上げた。