23 格の違い
自分は、それなりに冷静な人間であると自覚があった。
やるべき事はただ真っ直ぐ考え、後はそれに従って動くだけ、他に余計な気は回さない。簡単な話しだ。
今までもそれが出来、そしてこれからもそう出来るだろう。それだけの自覚と自信が既に出来ている。
「何をしている」
だからこそ、自分自身で驚いた。口から先に外へと出る言葉は冷静。握り締める手の平は冷たく、しなければいけない事を意識して冴え渡る。
それでも確かに、俺はキレていた。
―――――――――――。
狼の一匹が宙を舞った。何をされたかちゃんと理解は出来ているのか血斑を纏うその身体では思い計る事は出来ない。空中で綺麗にくの次に折れた獣は、そのまま地面に接触して勢いよく転がり、停止した後になってもなかなか立ち上がらない。しばらく時間を置いてようやく立ち上がったと思えば数歩進んだだけで転び蹲り、苦悶に開いた口流れ出る細く長い血の川。顎先を伝い地面へと崩れ落ちるその様が二度と再び四肢を張って大地に立つ事はなかった。
「ふん」
蹲り動かなくなった獣を見下しシルドは確かに鼻で笑う。片手に持つ長く黒い柄のハルバードは周囲が森であるという事も忘れて空中を縦横無尽に駆けながら唸りを上げ、石突き部分で地面を叩くと小さく土の欠片を舞い上げて静止する。襲い掛かろうとした狼達の重なる唸り声が一瞬にして静かになりやり場のない鼻先がシルドを見上げ、そして仲間『だった』一匹を目で見る。
動かない。
立ち上がらない狼の一匹に獣とはいえ情はあるのか近くに居た何匹かが寄り添うように割れ物でも扱うかのように優しく鼻で触れ……反応が全くない事を確認するとか細かったその声は低く、恫喝するような唸り声へとすぐに変わった。周りに居た他の仲間達も同じく、死骸を振り返り、凶行の主を見据え吠え、爛々と強く血走る瞳で睨み付ける。
見ているだけで自分でも圧されるような光景にそれでも何も感じないというのか聞こえて来るシルドの声音はいつものように抑揚が少なく、いつものように静かなものだった。
「何をしている」
「え、あ」
再び紡がれる同じ言葉。目の前の狼ではなく自分が反応しなかった事が気に食わなかったのか、若干不機嫌そうな素振りを見せる。本能的に早く返答しないと、と焦り、それでも『何を』なんて適当な聞かれ方をした所でズバッと出てくる名回答なんてありはしない。
「あ、え、あ、いや、シルド」
腕でレックスを庇い、隠したまま顔を上げると自分の声にピクリとシルドの肩が反応しゆっくりとした動作で振り返った。
眉間に寄った皺は深く濃い、元からの目付きの悪さを更に増長させるように引き締められた口元からは喜びの一欠片すら感じられず、ひたすら伝わってくるのは不機嫌そうなオーラ。
……それでも僅かにだけ感じる違和感に、よく見ようと目を凝らすがそれよりも先にシルドの顔は反らされ、再び唸る狼達へと向かって視線は集中される。
「何をされた」
先程とは少しだけ違う質問。
「え、いや……何、とは」
「……情けない」
「うぐっ」
分かってた。分かっていたけど余りに直球過ぎる。ぐさりと胸を抉る言葉に言い返す言葉も思い付かず……確かにたかが獣に手間取るなんて冒険者失格だと言われても仕方ないが、それにしても自分なりに、それなりに……もうちょっと、言い方ってものがあるだろうが。
「情けないって、そんな事言ったってなぁ、シルドっ!」
飛び出る文句に重なり遠吠えが響く。木々に反響する高い呼び声、それに引かれるように目を血走らせる狼達がそれぞれ四肢を張り臨戦態勢に入って行く。先程までのギラギラとしながらそれでも理知的に行う狩りの態度とは違う、野生を前面に押し出した猛り狂うような獣の鳴き声。シルドへと集中し向けられるその一つ一つには明確な敵意が込められ、仲間を一匹失った事が完全に引き金となったようだった。
「う」
まずい、と思うか。まずくないと思うか……シルドの実力は知っているつもりでも、それでも目の前のこの数に、自分と同じく『たかが獣』と侮っているならやめるべきだ。モンスターでないとはいえ、野生の狩人に備わった爪や牙は人にとって十分驚異で、何より今のシルドは村で別れた時のまま、冒険者用の防具を何一つ着けていない普段着そのままの姿だった。
「シルド、気を付けてくれ! そいつらっ」
「全く、情けないんだ……」
「ぐっ、ああいや、分かった! 分かったからとにかく!」
「……自分だ」
「目の前に集中し……へ?」
「自分が、情けない」
唸り声が走り、獣が駆け出す。
自分の時のように一匹二匹が隙を見て襲って来るようなものじゃない、本能のままを剥き出しにするようにこの場にいる獣達がほぼ同時に駆け出し、全員の殺意が同時にシルドへと集中する。
足、腿、腹、胸、腕、首。およそ急所といえる急所全てを狙ってくるような群れでの攻撃に援護しようと思いつつも手の中にはクロスボウはなく……辺りを見回している間に、黒い凶器が素早く視線を横切った。
本来の早く鋭く聞こえるものではなく、重く腹の底まで響いてきそうな風切音。軽く握っているようにしか見えない横薙ぎの一閃に、鈍く輝くハルバードの斧刃が機会を与えられた事に狂喜し、与えられた獲物へと襲い掛かる。
一瞬で刃が通り抜けたと思えば先を走っていた数匹の狼から一斉に血が飛び出し、流れ出るその血飛沫すら煩わしいと言わんばかりに振り終えたハルバードはそのまま空から振り下ろされる。左から右、右上から斜め下、オーソドックスに手で振るわれるだけの斬撃は研がれた肉包丁のように何の苦もなく狼達の身体に吸い込まれ、一拍置いてからようやく、思い出したかのように血が吹き唸り声が鳴る。
「……」
赤と黒が空を舞った、その中へと向けて無造作に突き出されるシルドの腕……見ただけではただ前に伸ばしただけのようにしか見えない手の先が悲痛にこだまする狼達の雄叫びを掻い潜り、血潮の中から引き抜かれると手の中には首の部分を手で掴み締め上げられた一匹が捕まっていた。
恐らく、そこまでしなくてもよかっただろう。ハルバード一本を振り回し、それで十分終わったはずだ。しかしシルドは捕まえた狼の一匹を鈍器代わりにして振り回し残党へと向けて叩き付ける。
肉が肉を打つ音、群れであった狼達が仲間の身体と肉とによって弾き飛ばされ切り付けられた赤い傷を更に抉る。長く細く延々と続くような唸り声は果たして殴られた獣か、使われた狼からなのか。片手一本で操るハルバードが左右に振り分けられながら地面を抉り、首元を握られた狼の体躯で巻き上がる土を上から何度も何度も叩く。
衝撃の余波に吹き飛ぶ草葉、斬撃の軌道に居たあまりに切り裂かれた哀れな木。宙を舞う赤と茶、緑と黒の堆積物の中に時折ボキリとまるでアクセントか何かのように鈍い音が続く。
「……」
壮絶だった。何が酷いかと言えばその凶行もさる事ながらその中心で僅かばかりにも漏れる人らしい声が全くない事だ。力を振りかざし笑ったり、血の猛りに吠えたり、後悔を口に漏らしたり……そんなもの、何もない。
そういう『らしい』部分を全て切り捨て、ただただ無言で製造される血と肉の賛歌、その音色すら雑音だと言わんばかりに動くもの、音を発するもの、その全てことごとくをシルドは食い潰す。
どっちが人らしいなんて分かったものじゃない。……ついさっきまで自分を狩ろうとしていた獣達に同情や哀れみなんてそんなお門違いじみた気持ちも沸かないがそれにしても何か、見ていて胸に込み上げて来る悪い物がある。
「ぁ、あ」
横合いから伸びた小さい手、掴まれた腕を通して小刻みな震えが伝わってくる。
怖さの余りに自分が震えてしまった訳じゃない、庇い抱えた腕の中でレックスが目の前の光景を両方の目を見開いて見て、そして何事かも声を発する事なく震えている。
いかにも怯えてますというその表情に。自分も同じ顔を浮かべて見ているんじゃないかと感じてしまい歯を食いしばって硬い顔を作る。
「っ」
幽霊か何か、信じられない物でも見ているようなその眼差しが自分からもシルドに向けられていると思うと、胸に沸く嫌な感じ以上に……後味の悪さを強くさせる。
黒い奔流にしか見えなかった中で、遂に動き出す物がなくなりシルドはようやく腕を止める。血を吸ったハルバード、左手に持った最早何なのかよく分からなくなったものを無造作に投げ捨てる。剣風と衝撃とによって舞い上げられた細かい粉が、暴虐の終了と共にゆっくりと下降し。役目を果たした凶器はより喜ばしげに鈍い輝きでもって光を放つ。
「……」
何も動かないと思った中で、僅かに動くものがあった。『運悪く』生き残った一匹がその場から這い出るように歩き出す。シルドへと立ち向かうのではなく反対の森の奥へ、もぞもぞとするそれを無感動なシルドの目が追い、最後のひと仕事とばかりにハルバードを振り上げられる。
「っ! も、もういいだろう! 十分だっ」
触れるレックスの手を離し、思わず自分は走り出していた。振り下ろされるハルバードを止め、獲物を追い立てるシルドの動きを止める……正直虫の息である残された一匹に、いっそこの場で意識を絶ってしまった方がマシなんじゃないかという有様だが。食卓でいつも見ている不機嫌面、それと変わらない目で狼を追うシルドの姿に何かが堪らなくなって止めに入った。
「そのっ、相手は獣だろう、それ以上に武器を使うなって。か、簡単すぎるだろ、な? オレだって、なくったって楽勝だったんだ、ホントだ!」
「……」
「そ、それに規則だ。規則だから破るなよ! 今は身の危険でも何でもないだろう!」
「……ふん」
いつもより早口に回る自分の口。
押し留めていたシルドの体から余計な力が抜けていくのを感じる……軽く十年は寿命が縮んだような思いだ。足を引きずって逃げようとする狼には目もくれずシルドは手に持つハルバードを軽く数度空中で振るう。張り付いた獣の欠片が辺りに落ち、その落下音だけで胃の中の物を吐き出したくなる程だ。
「規則だから……ハ」
防衛という名の惨劇の後を目にしシルドは口を歪ませる。横から見れば悪い笑みにしか見えないその顔に、後に続いた言葉がやけに耳に残った。
「その言葉、忘れるな」
真意の分からないその問いに、自分はとにかく頷いて返すしかなかった。
…………………………。
村へと戻ると軽く騒動が起きる。野生の狼の群れに遭遇した事……今となって『元』群れと言った方が今は正しいかも知れないが、しかもそれを掃討した事によって噂は火が付いたように走り回る。
当のシルドといえば、やる事を終わらせればろくに会話もなく勝手に一人で帰ってしまい近くに居ない。その代わりに話しの慌ただしさをいやでも加速させたのはレックスだ。村へと帰るなり大きな声で言い回り、注意を促すと同時に胸を張ってこう騒ぐ。
『コワードがオオカミの群れをやっつけたんだ!』
……何故、そうなった。
反論したい気持ちもあるが、それ以上に疲れが残っている。レックスとしても完全に嘘を言ったつもりでもないんだろう。きっと、その方が『気持ち的に楽』なんだ。
「はぁ、これで何とかなるよ」
報告を聞き終え徒党を組んだ村人数人が確認の為に森へと向かったのがそれから数時間後の事、慎重に進む彼らを見送ってレックスはここに来てようやくと言った具合で肩を落とした……横顔に見えるふやけた笑顔はシルドを見た時のような怖がる素振りは微塵も残らず、最初に村を走り出して出て行った時の切羽詰まったような様子も感じられない。……いい事だ。
「まぁ、それは、いいんだけどな。なんでオレが狼倒した事になってんだ」
「ふっふ、感謝してくれよコワードォ、その方がハクが付くし……格好いい!」
「格好……はぁ」
「コワードォ……軽く村の英雄なんだから、そんな意気消沈したような顔しないでよ、ほら~笑って~」
「……ニッ」
「うわぁ……」
「うわぁってなんだ!?」
……バカな物言いに訂正する元気も失われる。それでレックスがいいというならそれでいい。当の狼撃退……虐待の張本人であるシルドが何と言うかまでは分からなかったが、文句があるならばその時に名誉を返上し、祭り上げればいいはずだ。
そもそもあのシルドが自分から手柄を誇って言いふらすようにも全く思えない。
「いやぁさすがはコワードくん、冒険者とはいえ一人で狼の群れを対処するなんて中々出来る事ではないよ。うん」
「今、どこから湧いてきた」
にょきっと横合いから顔を出すように現れるアール老人に若干引き。その反応に変わらぬ微笑と老いで刻まれた深い皺が楽しそうに動く、うんうんと納得する様は勝手に一人走りし、自分へと尊敬のキラキラとした眼差しを向けて来る……何だか寒気がしてきた。
「自らの手柄を公にはしない、謙遜して遠慮する。うんうん今時珍しい中々出来た事じゃないよ。やはりコワードくんは一味違う人間に私には見えるな」
「はぁ、そう……そう言えば朝どこに、村の人間が皆出ているようだったけどアール……さんは見えなかったと思ったけど」
「ああ、それかね……本当は私が一番に出ておもてなしをしようと思ったんだが、何故か息子に止められてしまってね。いつもそうなんだ……悲しい事だが何故か最初に村を訪れた人間の前には出て来るなとね。父であり元村長の私を気遣っての事か、せめてもの償いに精一杯もてなしたいと願っても、頼むから奥に居てくれと」
「……ああ」
「なんでだか、見当は付くかい? 知っていたら教えて欲しいのだけどね」
「…………さあ」
多分、そのおもてなしに原因があるんじゃない、と正直に言う事が出来ない。一応は知らない体だ、余計な口を挟めばボロまで出そうだ……そして口を挟まなければ延々と続くように思えるアール老人の歯が抜けてなくなっていくような大絶賛と褒め称え……頭の痛さと胃の膨れを感じ、助けを求めようとレックスを見ると、何故か踊っている。自分の尻尾を追う犬か何かのようにしきりにズボンと衣服のポケットを漁りながらその場でぐるぐると繰り返し回っていた。
「何、してるんだ」
声を掛けようか掛けまいか一瞬迷うが一応聞いておく事にする。
「あ、いや、ははは……ちょっと、落し物」
「落し物?」
「ああ……うん!? い、いや、何でもないよ、あは、大丈夫、ハハハハ」
「はぁ?」
「うん!」
「……」
……明らかに無理のある作り笑顔だったが、それ以上聞く事も止めて、放置する。そのままぐるぐると回っていたレックスだが不意に諦めたかのように回転を止め、代わりに居住まいを正すように姿勢を伸ばし、真っ直ぐにこちらを見上げる。自分の胸程度までしかない背丈からじっと注がれる視線は自分に集中し、若干口をもごもごと動かした後に次の瞬間、有り得ない事に腰を深く曲げレックスは自分に向かい頭を下げてくる。
「えっ?」
「あ、ありがとうコワード」
「あ、ああ」
「コワードが、来てくれなかったらオレ」
「……ああ」
「それに! ホントは……それだけじゃないんだけど、とにかく……アリガト」
「ん? それだけって何が」
「……は、くっ、いや……とにかくそういう事だから、じゃあっ!」
しっかりと頭を下げていた時間もせいぜい十数秒。会話も中途半端に途中で言葉を切り上げると、そのままレックスは反転し脱兎の勢いでどこかに向かって走り出す。……狼が出た件によってしばらく森に入る事は禁じられたはずだが村の中を目的も分からずに走りまくり……何なの。
「ふぅむ」
「……」
「いやぁ……青春って、いいね」
「何でまだ居るんですかアールさん」
一人残ったアールはしたり顔でこちらを見つめ、何がそんなに楽しいのかウンウンウンウンと何度も頷く。……孫も孫なら祖父も祖父で何を考えているのかいまいち分からないのが不気味だが……。
「でも、ありがとう……か」
……悪い気はしない。
しかし同時に喉の奥に引っ掛かるものがある。『ありがとう』を伝えるなら自分より、本当は言わなきゃいけない相手が別にいるはずだ。そしてそれは自分にとっても感謝を伝えなくてはいけない相手で。
「……」
非常に、気が重い。俄然重くなる肩に、それでも伝えないでいる方が精神衛生上に悪い気がして覚悟を決める。
「なぁ、アール……さん」
だから、聞くことにした。
前に御者に言われた事だ。ただのお節介、冗談程度にしか思っていなかった話しを本当に実践する事になるとは。思いもよらなかったが他に適任な相手も見付からず仕方ない。
「うん? なんだいコワードくん、私に出来る事ならなんなりと」
「……それじゃあ」
――ああ、舌が重い。絶対に変に勘繰られると分かっていながらも仕方ないからと口を開く。
「その、上手い話し方って教えて」
「まさか、コワードくん、口説っ」
「口説かない」