22 狩る獣、狩られる者
「はぁっ、はぁっ、はぁ」
走った。走り切った。
限界まで走り続けて、止まった今でも心臓がバクバクと鳴ってうるさい。
「はぁっ、はっ」
……でも、その甲斐はあったみたいだった。辺りを見回しても狼の姿なんてどこにもなくて、少しだけ木々の少なくなった森の向こうに、村の姿が見えてくる。
「た、たすかったよ……ハハ」
安心して息を吐いて近くの木にもたれかかると視界は勝手に下がる、落ち葉が目立つ地面の姿は肩が上下するのでブレまくりだけどそれでいい。助かったんだからこれ以上の事はなくって、もう当分はあんな森の奥まで行かないように心に誓う。
「はぁっ、はぁっ……あれ」
その時になってようやく気付く、一緒に逃げて来たはずのもう一人の姿が見えない。振り返り、辺りを見回してみても誰の姿もなくって、鬱蒼とした暗い森ばかりが後ろに広がってる。
「まさか、コワード……コワードォッ!」
叫んだ『オレ』の声に応えてくれる人は居なくて。
『……』
遠く、村と呼べるギリギリの境界線に立ち、静かにこちらを見ているもう一人の冒険者の姿だけが目に入った。
――――――――――。
「くっそ」
とんだ貧乏くじだ。視界の端で躍り上がるように動く灰色の影が目に入る。鼻先を地面に擦りそうな程低い姿勢から飛び上がってくる獣の牙。身体ごとぶつかって来るような噛み付きを何とか躱し、数歩をよろけるように進むと即座に体勢を立て直す。
目に入る緑の森、その中で蠢く灰色の毛皮達は一匹、二匹、三匹……気のせいか最初の時より増えているような、そんな錯覚さえあった。
視線の先で二重に交差するように動く獣達、遠く聞こえる甲高い遠吠えは次々に木に反響し響き渡り、僅かな休む暇すら与えずに野生の吐息がすぐ目の前まで迫ってくる。
「くっ!」
身体を強引に捻る、無理がある。完全には避け切れず身体を掠めて通過していく獣の前足、鋭く短い爪は冒険者用のコートを突き破る事は出来ず、代わりに伝えて来る衝撃だけで体勢は横へと崩れた。
迫るもう一つの影、ゆっくりと力を蓄えてから飛び跳ねる跳躍、太もも付近を狙う低い飛翔を左腕を前へと出し受け止める。
「ツっ」
鈍い音に手応えがあった。正面からの突き当たりに身体は大きく後ろに下がるが、それでも装備に傷は無い。跳ね返された獣は悔しそうに呻くがそれも一瞬の事で直ぐに後ろに下がり、先にぶつかって来た一匹もそれに従うように草木の影へと下がって行く。
距離は離れても決して消える事のない唸り声、警戒するようにじっくりと進む狼の四足が落ち葉の塊を踏み抜きクシャリと音を立て。自分を中心にぐるりと円を描くような包囲網が短いスパンで伸縮を繰り返し、ゆっくりゆっくり時計回りに廻るそれぞれの瞳はギラつきながらこちらを見る。
「はぁっ」
……レックスは、逃げ切れただろうか。
囮になると、確かに言ったのは自分だけどそれでもこうもあっさり置いて行くか? 貧乏くじにも程がある。次第に早くなっていく呼吸、数匹の狼を交互に睨みながら手の中のクロスボウを強く握り締めた。
「……」
装填は既に終わっている。矢も引き終えいつでも撃てる体勢になっているが、それでも撃つ事は出来なかった。今更相手がモンスターじゃないからとか、そういった見栄のせいじゃなく、純粋に目の前で迫る獣達に一体『どれ』に狙いを付けて撃ったらいいのかが分からない。
「くっ」
立ち並ぶ木々の奥、よく通る低い遠吠えが響く。先程から何度となく聞いているこの声は、狼達のリーダー格によるものか。『狩り』の合図を告げるその音色にそれぞれの狼が地を這い草場の上で場所を確かめながら動き出す。
……昔、どこかで狼は群れで狩りをする生き物だと聞いた事がある。多くを狙わず単独の獲物に狙いを絞り、統率の取れた動きで翻弄をする。野生ながら理知的な動きで敵を追い詰める様は聞いた時にはまるで人間みたいだとバカらしく関心したものだが。いざ、自分の身になってみればそれがたまったものじゃないとよく分かった。
獣が動く、先程と目の前で同時に駆け出す二体。一体は正面から、何の工夫もなく地面を蹴り最短距離を通って突っ込んでくる先にあるのは自分の足。先んじて動き出した一匹の影に隠れるようにして横合いに移動するのがもう一匹。一拍遅れのタイミングをずらした攻撃は低い姿勢から飛び上がる。
「こっの!」
一匹目の突進は何も問題なかった。目で見える場所、風を切るような鋭い音こそあったが直線的な攻撃は空振りをして通り過ぎる。問題は、次。
「っ!」
唸り声が空を駆けてやって来る。胸元へと飛び込んでくるような跳躍に。大きく開かれた顎から覗くのは黄ばんだ鋭い牙と蠢く舌、飛び散る唾液の一雫すら悪意のあるように思えて、攻撃に備える為に身体は動き出す。飛び込む毛皮の塊に合わせるように突き出す鎧腕の肩部分、助走も何も含まない不出来な体当たりでやり過ごすと擦れる狼の口先が金属部に触れて通り過ぎた。
「っ」
衝撃はある。それでも明確な痛みはない。堅牢な冒険者用の防具にただの野生の牙では傷一つ付けられない。このまま守りに徹すればやり過ごせるのかと安堵した瞬間、別の方角から。全く意識をしていなかった背後の方から『音』が迫った。
「グッ」
落ち葉を踏み抜く強い音。
人の意味ある言語とは遠い呻くような唸り声。
振り向いてみれば一体どれだけ回り込んで来たのか飛び掛かる体勢へと既に入った一匹。助走を終え、大きく踏み込んだ前足を中心にして四足は地面を離れる……狙いは首。
背筋がぞっとしてくるような鋭い牙の並びに一瞬頭ごと食い千切られる自分の姿を想像し、身体は無我夢中で動いた。
「ああああっ!」
崩れた体勢から避ける事も流す事も無理だと悟り。最後の頼みに手の中にあった『相棒』を強く握る。継ぎ接ぎだらけのクロスボウを下から全力で振り上げ、よく見えもしない背の後ろへと向かって強襲。駆ける軌道は地面の上を滑るように背の高い雑草を巻き起こす風によって払い除けながらクロスボウの先端が後ろへと伸びた。
手と、そして耳へと返ってくる勢いのある音に衝撃、弓部下の弓床部分が獣の顎先を下から捕らえ、振り抜く力によって狼の細長い体躯が仰け反るように宙へと投げ出される。
『やった』……そんな淡い思いもすぐに消えて行く。会心の手応えがあったつもりだったが、武器としての相性が悪過ぎる。元々近接用なんて考えてない射撃武器をどれだけ鈍器替わりにして殴り付けたとはいえ獣の活動を止めるまでの威力は無く。吹き飛んだ狼は細く短い痛ましい叫び声こそ上げるもののすぐに立ち上がり、他の獣の隊列へと後ろ足で加わると円周を回りながら観察する包囲網の中に混ざり込む。
「……くっそ」
口から悪態が飛び出す。
心の底で、余裕だと思っていた部分があった。『どうせたかが獣』、そう思い緩んでいた部分はもう残っていない。息は上がり、間断の無い攻めに肌の上に汗が吹き出る。短く息を吸い、大きく息を吐き……体勢を整えた所で三度の遠吠えが響いた。
「ちっ」
眼前へと迫って来るのは二匹。軽やかなステップで連続して地面を蹴り、それぞれが狙う先は自分の肩に脇腹。
「こんのっ!」
乱れる息の中で必死に腕を振るう。足を振り上げ地を掬う突進をやり過ごす。
一匹は完全に躱す事に成功し、しかし続いたもう一匹の突進が脇を掠めた。
傷は無い、裂かれるような鋭い痛み襲う代わりに重い衝撃が腹の底へと響く。二匹の攻撃に少しだけ崩れた包囲網、その小さな隙を縫うようにして外へと向かって走り出す。
足に残った力を搾り出すように前へと進み、大きな木の横をすり抜けて姿勢は低く。途中、もつれるように転げかけながら何とか走り。
「くっ」
しばらく進むと、視線の先に別の一匹が割り込んできた。
走る唸り声、地を蹴る足、飛び掛かってくる狼に身体は大きく泳ぎ咄嗟に数歩下がり突撃を躱す。
「う、くっ」
回避行動が成功し、気付いてみれば再び自分を中心に丸く囲うような包囲網が出来上がっていた……更に増えたんじゃないかとすら感じる獣の群れ。足は自然と後ろへと下がり、それぞれが自分を見るギラギラと光る飢えた視線に息を呑む。
「こ、の」
手の中にあるクロスボウを強く握ると指先の向こうで機構部分が音を立てる。
……モンスターがしてくるような一撃一撃が重い攻撃とは違う。すぐに終わらせようとはせずにあくまでも軽く、しかし確実に命を狙ってくるような連続的な攻め。防具の硬さの内側で生身の身体が疲れを感じ、この場を凌ぐ事の限界を見せ始める。
……息が、上がっていく。
「はっ、はぁっ! くそ」
まだ、身体に余裕はあった。しかし徐々に早くなり出す呼吸は整え切れず、急かされ動かされ続ける度に汗が滲む。心臓の鼓動は次第に早鐘のように変わり、口内で乾いた頬の裏へと舌が張り付く。
唐突についさっき全力で走ったばかりである事を思い出した。気後れに勝手に下がろうとする両足を意識して前に出し、クロスボウの先でそれぞれの獣を交互に睨み声を上げる。
「来い、来たらその身体撃ち抜いてやる! 来いよ!」
自分を囲む連続する唸り声……攻撃の合図となる遠吠えはまだ来ない。その事が幸いしていた。
狙いを定める。矢の先を視線に合わせ武器の先で一匹一匹。当たれば確実に仕留められる程の力を秘めている事を確信し、その自信も確かにあるが……それが出来るのはあくまで『一匹だけだ』とも頭では分かってる。
「……く」
揺れる狙い。
顔には出ないよう、ただの野生にそこまで感じる知性があるかどうかは分からないが視線だけは強く保って狼を見る。
――クロスボウはあくまで対モンスター用の冒険者の武器だ。一発一発が重く、体躯の大きなモンスターならば狙えば当てられると思う……しかしそれが的が小さく、しかも動き回る複数の相手ではどうだか保証がない……撃つのはいい、だけど撃って一匹を倒し、それからどうすればいいのか。矢を番え装填する事に時間の掛かるクロスボウを考えれば二発目を番える余裕を目の前の野生は与えてくれるか。しかも、最悪、撃ち出した最初の一発すら当たる事がなかったら……。
「っ」
迷っている内に遠吠えが鳴った。
走り出す獣、三つの影が視界を横切って迫る。近付いて来るそれぞれを順番に矢で睨み……結局撃つ事は出来ずに身体を捻る。
一匹目が左足を掠める。鋭い痛みも傷も無い、しかし重い衝撃に足の踏み出しが遅くなった。
二匹目が眼前へと迫り、左腕で顔を覆って受け止める。特別に加工された金属の鎧は容易くその牙を跳ね除け傷を防ぐが身体ごと地面に埋まるような重さに生身の肩が軋み声を上げた。
三匹目。狙い澄ましたような突進は腹部から下、突き上げるように進み襲い掛かる。ただの体当たりに肌が切れコートに穴が空くような事もない、ただただ身を締め上げる圧迫感に口から息が漏れる。
「くっ、グっ!」
ガムシャラに腕を振るって、その全てが空を切った。軽やかな跳躍で下がる狼達、自身の荒い呼吸の向こうで見定めるような瞳がこちらを見る……それは狩人の目だ。理知的な野生のハンターの獲物を観察する目、熱く肉に焦がれながら透明に見つめてくるその目に、今狩られる側に立たされているのは自分なんだと気付かされる。
「くっ……調子にっ」
怖さがあった、焦りもある。しかし、それ以上にムカムカとしたやり場のない苛立ちが胸を覆う。自分は『冒険者』で、獣よりも恐ろしい『モンスター』を相手にするはずだ……それなのにこの体たらくは何だ。ギリと噛み締める歯の奥に狩りが始まってから初めて感じる鋭い痛みが口内に走った。
負けられない、こんな。ただの犬っ。
「お前らなん、かっ」
自分を奮い立て、大きく足を踏み出した所で……身体が、大きく沈む。
「え」
膝に力が入らなくなり途中から折れた、それに合わせて視界が低くなる。足をみれば踏み出した場所でカタカタと揺れ笑っているのが分かる。力が入らず、崩れ掛けたのも一瞬の事だったが。それを狩人達が見逃すはずもない。
遠吠えが響き、狼が動いた。もしかしたら見逃さない所かこれを狙っていたのかも知れない。理知的な野生の群れが殺到し、それは今までにない程の大きな数に膨れ上がっている。迫る牙と牙。前にも横にも後ろにも全周を覆うように襲って来る狼達に呆然として腕は下がり。
――――カシャリ。
その時、クロスボウが暴発をする。
……巻き取り機から力の放たれる音。風を切る一閃が走り出し、飛び付こうとする狼達の毛並みをすり抜け凶器の矢は唸りを上げて直進する。眼前を邪魔する草葉はそのことごとくが退けられ、瞬間大きな音が遠くで発した。
向ける視線の先で中程度の太さの木に大きな風穴が開く、飛び放たれた葉が風に乗り空を揺らいで、自重の重さに耐え切れなくなったのか樹木は奇妙な音を立てゆっくりと傾ぐ。
目前に迫った狼達は突如鳴る音と結果に一瞬にして下がり後ずさる。向かう瞳は今まで頑なに『獲物』のみのはずだったのに、ここに来て初めて後ろが向かれ、半ばから折れ曲がったような木の惨状を目の当たりにして目を剥く。……それはただ耳のよさから音に反応をして止まってしまっただけなのかも知れない。しかし思い掛け無い窮地を、狩人達にとっては千載一遇の好機だった瞬間を逃すには十分過ぎる程の時間であり。
「くッ」
足は、まだ動く。
後ろへと引いた狼達の合間を縫い、近くの木に寄りかかると腰から引き抜く二発目の矢。焦る指先を何とか操作し番えた矢をワイヤーに掛けるとハンドルを引く。その間も普段であれば異様な光景に警戒を高める狼達は遠巻きに唸り声を上げるだけ追撃を加えてくる事はなかった。
「よしっ」
手の中のクロスボウに完全に装填は終わった。十分過ぎる程に奪えた時間に、狙いを付けると狼達は先程と同じように円を描くようにして取り囲み、しかし矢先の先端を嫌うように避け、狙われると早足で動くようになった。
響かない攻撃の合図に、胸の鼓動を抑え息を吐き、口元には微かで不出来な笑みが浮かぶ。
「はっ、ハハ……怖気づいたか、臆病者」
――どの口が言う。
自分でも失笑レベルの物言いだが、今はいい。尚も攻める様子のない狼に先程とはまるで立場が逆になったよう。見せつけるように一歩踏み出せば、同じ距離分だけ引くように包囲が離れ、二歩進めば低い唸り声は上げるものの互いを見るだけで襲ってはこない。
「……はっ」
動かない獣と同じように自分もこの隙に身体を休める。……動くこと自体に支障はない。しかし今でも少しだけ笑っている膝には余り力が入らなかった。
もういいからそのままどこか行け……心の底ではそう何度も念じ、しかしいつまた響くかも知れない攻撃開始の遠吠えに備え呼吸を整える。
いつ来るか……それとも先に出るべきか。崩さないように気を付ける表情で睨み付け、非常に長く重苦しく感じる時間。息を呑む音すら聞こえそうな静寂に突如として甲高い『声』が混じって来た。
「コワードーーー」
「っ」
それは、確かに人の声だった。舌足らずで甲高い音に同時に視界の隅で草むらが動く。まさかと頭が理解するより早く声の主は早く、そして無造作に近付いて来た。
「さっきすごい音がしたんだ、大丈夫。コワッ」
……きっと声を出した本人も、そして聞いている自分自身でさえその瞬間固まってしまったんだろう。ひょっこりと何の疑いもなく草むらの奥から飛び出して来た小さな頭。その目がこの場の事態を把握した瞬間に凍り付いた。
続けて何かを言おうとしていたのか。開かれた口が言葉を発する途中で停止し、間の抜けた顔を晒したままそのまま動かなかった。この場で唯一、動きがあったのは群れる獣の方。野性的なカンで狙い定める視線を自分から『別の獲物』へと目指して移行する。
遠吠えが、響いた。
「……ばッ」
……気付いた時には動き出す狼達と同じく自分も走り出していた。
異様に、身体が重い。何が邪魔しているかを悟り、手の中の物を放る。投げ出され、宙を行くクロスボウが目の端にゆっくりと写り、それすら気に掛からない程の全力で足を出す。
唸り声がすぐ近くにあった。
獣達の横を抜け先に声の主へと辿り着く事に成功する。恐怖からか引き攣って固まるその顔に、守る防具もない身体を正面から抱き抱えると自分も強く目を瞑る。
殺到する野生の吐息が背の後ろに聞こえた。次に来る衝撃に備えて身体を強張っていく……痛くないといいな、なんてそんなバカみたいな発想に歯を食いしばり息すらも殺し。
「何をしている」
空気が裂けた……確かにそう感じる程に重く早い何かが通り抜ける。
閉じた瞳の中でも感じる黒い何かの影、風が鳴り終わった後に続くのは獣の悲鳴。肉を打ち、転がる物が地面を擦り上げる音が耳に届く。
「……シ」
目を開けるとそこには自分の嫌いな。『自称仲間』の後ろ姿があった。