10 シルドの登録用紙
「―――ほけー」
「あら? コワードちゃんこんな所で何してるの?」
「―――――」
「ん?」
「―――――――」
「ふうん……全く、しょうがないわね」
「―――――――――」
『フゥ』
「ひぎゃあッ!?」
――突然、駆け抜けた衝撃に、いや悪寒により意識が戻される。左耳を発生源とした強烈な寒気はゾワリと首筋まで広がり一瞬で背中まで。驚きから腰掛けていた椅子からも転がり掛け、何とか目の前の机にしがみついて顔を上げると極至近距離にはディガーの顔があった……それも何故か、タコのように唇を尖らせた状態で……。
「な、なっ、なぁッ!」
「あら、起きた?」
「何やってんだ! いやホント何やってるんだよ!」
「うん? ふふ、だって隙だらけだったからちょーっと耳元に向けて『フゥ』って息を吹き掛けて起こして上げただ・け・よ?」
「う、うわああああ」
笑顔と共に見せる突き出す唇のむちゅむちゅと動き……再発する悪寒に身を震わせながらも必死の抵抗で自分の耳へと爪を突き立て掻きむしる。……すごく……痛いが、それよりも何よりも脳裏に勝手に蘇ってくる感触を忘れる為に、今は痛みすらも我慢する。
「いや、そこまで嫌がられるとさすがにショックなんだけど……だけどダメでしょうコワードちゃん! こんな所で呆っとしていたら、もしクエスト依頼のお客さんでも来たらどうするのよ」
「ハァ!? ぼーっとなんてしてないだろ! それよりも鳥肌が、鳥肌が止まらなくてっ」
「そーお? じゃ、今何時か言ってみて?」
「消えない、クッソ感触がっ、消えてくれないぃ! ……ア!? 時間? そんなのまだ昼の――」
ディガーに答えつつ目線はギルドロビーの窓へと……そこで目に映るザッと窓打つ水滴の群れに意識とは反対に身体は硬直した。
……確かついさっきまでは暗いながらもただの曇り空であった空は今では大きく荒れ、次々と降りる大粒の雨は激しい音を立てて窓枠に沿って流れ落ちる。小太鼓の乱打を思わせる連続した音は気にしてみれば無視するのも難しい程に大きいが……反対にその激しいはずの雨の降り始めがどうやっても頭の中から浮かび上がっては来ない。
「あれ」
呆けた顔にぼんやりとディガーへと目を向けるとその口元に浮かぶのは小さな微笑。「しょうがないわね」と口を開いて漏らす言葉に小さく竦めた肩の動きが目に入る。
「もう、お昼ならとっくに終わったわ。今はそうね、優雅な午後のカッフィータイムってとこかしら? こんな天気じゃとても優雅とは程遠いんだけどね」
「え、いや……だって」
「うん?」
「……」
「……ねえ、本当に大丈夫コワードちゃん? ちょっと疲れてるんじゃない?」
目線を合わせたディガーの緩み切った瞳の奥に僅かに混じる心配そうな色合いに頭を軽く振るうと誤魔化すように笑みを浮かべる。
「何でもない、大丈夫だ」
吐き捨てるように言った短い言葉は果たして本当にディガーに言ってるのか自分に言い聞かせようとしてるのか分からないけれど、シャッキリとして来た頭で出来るだけ冷静に考える。
短い時間。自分ではそう思ってギルドロビーの机に一人腰掛け、何事か考えているつもりだったのに大分時間が過ぎてしまったらしい。……反対に費やした時間の割には何をそんなに考えていたのかハッキリとはせず口元に浮かぶのは苦々しく引き締まる表情だけ。
……今の自分の気持ちを知ってか知らずかディガーの方はといえば心配そうに覗き込んでいた視線を引っ込めると訳知り顔の笑みで頷きを繰り返す。太い腕を重ねて組み合わせる腕組みに、こちらへと向かう視線に目と目が合うと似合わないウインクが一つ零れる……その仕草に再びゾワリと背筋が沸き立ち掛けるがなるべく見なかった事として記憶の底に葬り去る事にする。
「うん分かってるわ、最近コワードちゃん忙しいもの」
「え?」
「まぁね。辛いのは分かるわ、でも冒険者としてここからが本番よ? こういう仕事って基本的に身体が資本なんだから踏ん張らなきゃいけない所って結構多いの」
「あ、ああ……ああ?」
「うんうん、それが分かっていればよろしい」
「……おう」
いや……正直ディガーが何を言おうとしているのか全く分からなかったが、とりあえずの場凌ぎに返した同意に本人は満足をしたらしい。更に深まる笑みにこちらの了承も取らずに腰掛けた机の反対側へと座り込む。腰を下ろした瞬間に「よっこらせ」と潔い実にオッサンじみた掛け声が流れ、向かう視線は自分ではなく窓向こうの外の景色へと。
「厳しい事もあるけれど、それも大抵は頑張っているクエスト中での事。だからこんな雨の日は……こういう酷い酷い天気の時くらいはゆっくり休んでも問題ないわ」
「……ああ」
「……よく降るわね」
視線と仕草に釣られて同じ場所を見ればそこにあるのは変わらず振り続ける強い雨。……ディガーの言葉を信じるならまだ日中と言える時間帯のはずだが、空を遮る厚い雲と上から下へと際限なく横切る雨粒に見える街の様子は夜にも似た姿。本来なら夜にしか灯さない吊るされたカンテラに既に光が入っている事も尚更時間の錯覚を抱かせる。
「頑張ってるみたいね」
「え?」
そのまま、天気の話しでも続けるのかと思ったら口を突いて出て来た話題は全く別の物であり、思わず視線を向けるとディガーの無表情な横顔が目に映る。
「シルドから聞いてるわ、クエストの話し」
「うっ」
「……大活躍してるそうじゃない。すごいわ」
無表情かと思った横顔もこちらに向かうといつもの微笑に見えた……それでも気のせいかオクターブ下がったような低い言葉に、慌てて視線を元の窓へと戻すと外の雨を睨み付けて目を細める。
面白くないと本心でそう思ったがチクリと刺さるディガーの言葉に間違いはなく……それと同時にシルドが『あの時』言っていた言葉も又嘘じゃないんだと思い知った。
『ディガーにはお前も大活躍をしたと伝えてやる……よかったな』
「……チ」
……『最初の』クエストの終わりにシルドは確かにそう言っていた。
放った言葉通りにシルドの報告は自身の活躍を『勝手』に上乗せしたもので、そのままの評価をディガーへと伝えたらしい。
実のところ初めて挑んだ調査クエストから既に数日が経っている。その間の日々に自分とシルドは他に複数のクエストもこなしており……正規冒険者ギルドが余らせた低ランクモンスターの駆除や残党刈りにも近い討ち漏らしの殲滅、低ランククエストばかりであっても比較的『忙しい』毎日を送っていたのは間違いなく。
……しかしその実、それら全てのモンスターはシルド一人によって倒されていた。
「……まぁ、ね」
変に悟られるのも嫌い避けていた視線を前に、口元に貼り付ける笑と反らした胸は自慢そうな様子を装って……乾いた言葉にならないように注意しながら口を開いていく。
「そんな大したモンスターじゃなかったし、余裕だったかな。最近オレも活躍……頑張ってるから問題もないし」
「あらー! さすがコワードちゃん」
「ふふん、まぁね」
「うんうん! ……本当はちょっと不安も残っていたんだけどその様子なら大丈夫ね! これもみんなシルドのおかげかしら?」
「あっ、ああ」
「……そうだコワードちゃんカッフィー飲む? さっきの優雅な午後じゃないけどリズが丁度用意してくれたものがあるの、一緒に飲みましょう」
「……じゃ貰います」
「オーケー、それじゃちょっと待っててすぐ持ってくるから」
意気揚々と……そう称しても間違いない様子でディガーは立ち上がり、鼻歌でも似合いそうな楽しそうな足取りでギルド奥へと歩き出す。
ギルド受付のカウンター横には宿場として機能している『泥船』へと通じる通路があり、体格のいいディガーの後ろ姿をその向こうまで消えて行くのを静かに見守る。
「よろしく~」
……最後に精一杯の間伸びした声。
背中も見えなくなり、足音まで完全に聞こえなくなったのを確認する。
本当に一人。ガランとしたロビー内に自分だけだと確認すると机へと突っ伏し、緊張していた腕はブランとその場で垂れ下がった。
「は……あぁぁぁああ~」
飛び出す溜息と一緒になって何かが外へと漏れていくような脱力感。
沸き上がる自己嫌悪で熱くなる頬とは反対に触れる木製机の冷たい感触に……次第にムカムカと気分は悪くなり振り続ける憂鬱な雨を見上げ強く睨み付ける。
「うーあ……もうっ、なにが活躍だ、くぅーあぁーぐぁー」
……さっきディガーに『余裕』なんて言ったのも完全に強がりだ。もう引き返せない事まで言ってしまったのを理解して頭は熱を持ってこんがらがり……いやそもそもシルドが悪い、全体的にシルドが悪い、もう何もかもこの世全ての事柄はシルドが悪い!
口先だけのでっち上げの活躍に我慢がしきれず、何か当たれるものはないかと見渡せば何の事もなく目の前には丁度いい机が、振り上げた腕にやるせない思いに全力で振り下ろせばゴガンと大きな打撃音が辺りに鳴り響き……それと……すごく痛い。
「く、ッツア、もー、あー!」
結果、もう痛いんだか悔しいんだか分からず飛び出す呻き声が雨音の激しいリズムと混じり聞き難いレベルのものへと変わっていく。
漏れる溜息と悔恨が一時的な発散によって消えていけば、後に残るのは言い様のないやるせなさばかり。
「はぁ」
……言い訳じゃないが自分でも決して手をこまねいてたばかりじゃない。
調査クエストはもう仕方ないとしてそれ以外の低ランクモンスター戦でも何とか活躍しようと努力したつもりだった。
いち早くシルドよりも先に敵を察知しせめて一匹くらい倒してやろうと意気込んでみても……結局失敗。
どれだけ強いのか凄いのかは知らないが遠距離からの機先を制そうと試みても必ず邪魔をされ失敗し、一度接近戦が始まるとシルドの姿にモンスターが隠されマトモに狙う事も出来ない。癇に障って文句の一つでも言えばその度に『お前は戦わなくていい』『静かにしていればそれで終わる』と、そんなものばっかりだ。
「……」
それでいてクエストの報酬は折半を、ディガーの報告に『コワードの手柄が大きかった』なんて見え透いた嘘ばかりを……そんな……こんなのまるで。
「バカに、してっ」
再燃する胸中に再び気晴らしの獲物を求めて視線はロビー内をウロウロし。
「……うん?」
その時、カウンター席の上に乗る一冊の本が目に入って来た。
妙に気を引かれて立ち上がって近付いて行けば、それは思っていたよりもずっと立派な冊子であり青い表紙に白色の整然とした文字が並んでいる。……大体リザリアのせいだがこんなにしっかりとした様式の本がこのギルド内にあるのが物珍しく、手に取って見て表紙をよく観察して見ると……手が止まった。
「これって」
表表紙の上の方に、堂々として書かれていた題名は『ギルドマッドシップ 所属冒険者登録管理用』と、そう書かれていた。
冒険者登録と言えばまだ記憶にも新しく、このギルドに来た時に自分が初めて書いたものだった……まだ懐かしいと言う程古い話しじゃないが今自分が感じているのはそんなセピア色をしたものでは全くなく。
所属の、冒険者の、登録、という事はこの中に……シルドも……。
「い、いやこんな」
「何をしてるんだコワード」
「ハっ!?」
この日二度目の驚き。
素早く振り返った先の所で宿場へと通じる通路から顔を出したのは最悪なタイミングでシルド本人。慌てて手にしていた本をカウンター上で滑らせて遠くにやり、シルドの視線から隠すように自分は飛び上がる……相変わらず陰気そうな悪人面で何を考えているか分からないが、外行きの途中らしく雨除けのいつものマントを既に纏っている。
「どこかっ行くのかシルド」
「お前に関係ない」
「あ、そう……」
会話逸らしすら一秒も成功しない。鋭い目線が自分の背を越え、一度本へと向かったように見え……その後何事も無かったかのように踵を返して宿場の方へと戻っていく。
「え、お、おい……出かけ……ないの?」
「……お前に関係ない」
「……あ、そう」
ループかと思う会話の内容にシルドは足取り早く通路の奥へ進んで行くとすぐに見えなくなった。
「なんだよ、もう」
『コワードちゃーんー、やっぱりお茶菓子とかもあるからこっちに来てー、リズも一緒に飲みたいからってー』
『ちょ、ちょっと父さん!?』
「……あー」
吐き出した言葉に続くように彼方から聞こえて来るディガーの声。
気が抜けたような脱力したような気分で肩を落とし、自分もまたシルドを追う訳でもないが通路を進む。
「……」
最後にチラとさっきの本を振り返り盗み見るが、もう一度手に取る事は無かった。
―――――――――――――。
「しんど……い」
自分の部屋へと辿り着き、ベッドまで縋るように到着すると倒れ込む。全身に感じる強い疲労は肉体的……というよりどちらかというと精神から来る厄介な疲労。
原因は何なんだと考える必要もなく、諸悪の根源は優雅な茶会で繰り広げられた様々なディガーの拷問によるものだった。
「触るな……もう触るな」
若干光を失くしたと自分でも分かる瞳で部屋を見渡し、思い出したくもないのに勝手に浮かび上がるのは嵐のようなタッチの連鎖。
『そういえばこの前ねー』
会話の切り出しに肩タッチ。
『そうしてそうしてねー』
会話の盛り上がりに腕キャッチ。
『なーんてねー』
小粋なギャグを隠れ蓑としての執拗な太ももスルー。
……思い出すだけで鬱になる。やめよう。
「いっそ、いっそ殺してくれ」
マイナス方向に全力疾走する言葉が漏れたとほぼ同時に部屋の中に、正確には部屋の扉から強くドアをノックする音が連続して響く。
「うん?」
倒れ込んだベッドの上でもそもそと、無気力に首だけ向けて扉を見るが再び音のする気配はなかった……そのままいたずらかと思い込み考える事を放棄しようとも思ったが、脳裏に浮かぶのは恐ろしい悪魔の姿。
……もし……もしこれが仮にヤツによるものならば次に訪れるのは問答無用の扉開放に……そして歴史は繰り返される自称優雅なカッフィータイム。
……それだけは……それだけは阻止をしなければいけない。
「う、ぅ、行きます……今、行きますよ」
悲しみに滲む涙を我慢してベッドから立ち上がり部屋を横切って扉まで……その間に全く外から音が聞こえなかった事を不審に思いながらも辿り着くと、そっとドアを開ける。
「あれ?」
来るかっ……と強襲に耐えられる姿勢で迎えて見れば開いた扉の先に人はおらず、首だけ出して廊下を見回しても誰もいない。
「なんだ本当にいたずら……」
安堵か脱力か、両方混ぜ込みの気がする気持ちで戻り掛け、足元から聞こえてきたカサリという何かの擦れる音に足を止める。
「ん?」
よく見てみれば部屋の扉の下の方、ドア枠と本体との間に挟み込むようにして入れらている一枚の紙が目に入る。折り畳まれた白地の用紙に腕を伸ばして拾い上げると、大きく書かれていた表題が目に止まり。
「え」
その瞬間、身体の動きが凍ったように固まった。
目に入るのは几帳面に整えられた様式。
粗悪ではない上質の紙は指先の上へと抵抗もなく乗り、目に入って来たのは『冒険者登録用紙』と書き込まれた文字と『シルド』という名前だった。