06 コワード
「ッ」
息を吐き背中を木の裏に押し付け隠れる。
高鳴る心臓は静まらず高い鼓動と荒れる呼吸で位置がばれてしまうのではいかと怖くなる。せめて少しでも漏れ出す音を抑えようと腕を掲げるが、その動きも途中、肘先から走る鋭い痛みによって止められた。
「ツ、ク、ぅ」
咄嗟の事に左手で右腕を抑えてうずくまる。腕全体を覆っていたはずの服は今や焦げた布へと変り果て。肘から先に見える大きな空洞、縁は彩る黒い焼け跡に細やかな屑が風に乗り舞う。服の下から見えた肌は大きく腫れ上がっており、膨れ上がった丘の中央には亀裂が走り一筋の流れる血が川となって地面に落ちる。
その惨状に叫びたくなる衝動に駆られるが必死に歯をくいしばり耐えた。
しゅうう シュウウウ
「!」
耳が、異音を捉える。
初めは風の漏れ音かなと気楽に思っていた音だったが一度味わってしまえばその感想はガラリと変わる。これは、風を吸い上げる音。周囲の空気は取り込まれ奔流は吸収され…やがて熱い熱の塊として消化される。
「ク!」
駆け出す。もう見付かっている、時間はない。
隠れていた木から飛び出し茂る草に足を取られながら振り返ると後方では森の影に隠れた大きく黒い姿が震える、上下に切り開かれた口の中では整然と並んだ白い牙が顔を出し、口腔の奥では血にも負けない真っ赤な赤い激流が渦を作る。
ガアアアアアア!
咆哮が漏れた。
「くッ」
爆発…飛び散る熱。
影の口からは人の姿を丸ごと包み込むほどの巨大な炎の塊が吐き出され先程まで隠れていた木を容易に包み込む。燃え盛る炎も一瞬の事で、目に痛い黒煙を吐き出しながら支えを失った巨木は幹の途中から折れ曲がりドシリと地面を打って倒れると赤色に染まった木の葉を巻き上げる。
「っ!くそっ!クソ!」
悪態を吐いて走る。黒い影も走る。
必死で走る小さな人をあざ笑うかのように影の足取りは早く。周囲の木々をまるで足場の様に踏みながら森の中を跳躍する。
黒色の影はあるいは本当に質量も持たない影なのか、あっという間に距離を潰すと宙空から降り下ろす爪が地面を抉り土を跳ね飛ばす。
飛び上がる泥の欠片が頬に付着し、肌を伝いそのまま地面へと落ちるより先、影の体が回転するように回った。
「!」
咄嗟に下げた頭は何かの奇跡かもしくは本能なのか。地面を転がり滑るように走る自身の頭上を…ほんの数センチの差で轟音が通過する。黒く光る鱗に覆われた長い尾は風切り音を響かせて頭上を通過し付近にあった木に突き刺さると木片を弾かせてへし折る。
背筋を恐怖が伝わる…せめて距離を、少しでも遠くに離れて…。
そう願った先に耳に聞こえてきたのは聞き慣れ始めた風の食われる音。
シュウウウ しゅううううう
「また!」
後ろを見、息を吐き出し駆ける。
目に写ったソレの姿はまるで鳥の様だった。地面を抑える前脚は腕とは言えず空を自在に泳ぐ鷹の様に見える、鋭い爪に左右に広がる大きな翼、何百もの細かな羽はソレの姿同様に全てが闇に紛れる黒色に染められている。
大きく口を開いたその姿はまるでトカゲの様。隙間なく並ぶ牙と口の上、唯一黒色ではなく赤色付いた鋭い目。地面を踏む後ろ脚は太く発達し、ただの跳躍がまるで空を駆ける様に目に写る。
鳥とトカゲ、その長所を混ぜ合わせたような複合的な姿、黒い影の口内で貯め切った奔流はその色を真紅へと変え、解放の瞬間を待ち構え渦を作る。
ガアアアアアア!
咆哮が響く。同時に空気が燃える。
「っ、ああああ!」
音と衝撃にそのまま押し出されるように体を投げ出して飛ぶ。地面へと向け吐き出された炎の塊は一瞬で土を焼き、窪みにあって蓄積されていた水の溜まりを蒸化させると膨大な白煙を作り上げて視界を隠した。
「っ、痛…!」
…土の上に投げ出された状態で痛む体にうずくまる。焼かれた腕は地面との擦り切れに更に裂傷を深めて血を流し強く打った膝はがくがくと震え言う事を聞かない。
「ハァ、ッ、ぁ、ハァ!」
引きずる体で何とか近くの樹木に辿り着くと背中を預けて立ち上がった。
息が荒い、体中が痛い、気を抜けば勝手に流れ出そうとする涙を何とかせき止めて見せるのが精一杯だった。
――もう、ダメだ――
自然とそんな考えが浮かぶ。駆け出してまだ数十秒か?数分しか経ってないのか…時間の感覚がよく分からない。軋む体は既に痛まない所を見付ける方が困難で、荒い鼓動を告げる心臓はこれ以上はムリだと必死に訴えかける……いやもし逃げたとしてもどうする…どうせ追い付かれて殺されるのが目に見える…。
「ハァハァハァ、…くっ!」
ガシャリと音を立て背負っていたクロスボウを手に握る。習慣として矢は番えてあった、金属のバネ仕掛けは機械的な補助があるとはいえ矢を引くには時間と力が必要だ。体重は木に預け左腕一本でボウ全体を支えると震える指先でハンドルを掴み取る。
「ツ!」
一巻き…腕が痛んだ。
それでも構わないと矢を引く。未だモクモクと膨れ上がる煙は幸いで、この時間に準備を終えようと焦る指先に力がこもる。
…せめて…一矢。
「痛!ツ!…ハァ!…ハァ!」
心の中に思い浮かんだその閃きはまるで麻薬の様に痺れ頭を支配する。
――考えて見れば元々敵うはずのない敵だったんだ…自分よりも格上のはずの冒険者があっさりとやられて死んでしまっている。そう考えればそんな化け物相手に自分なんかが逃げ切れるなどふざけた冗談にしか思えない。……だけど…だけどだ、もしもそんな相手に一撃でも、加える事が出来たらどうか。
「ッ」
…きっと…きっと、褒められる。頭の中に浮かぶ想像は麻薬…その中で全員に称えられる自分が見える気がした。…その時にはもう自分はいないかも知れない、しかし、あのコワードが!?なんて言われるかもしれない。まさか!?なんて目を見開かれて言われるかもしれない。…そう思うと頬が曲がり…不思議と感じている痛みも遠くなる。
「…ハ」
カチリと音が鳴る、矢の引き絞りが終わった。
同時に強く吹き始めた風が煙の尾を散らして消して行った。震える指先はトリガーに、照準がぶれ続ける矢の先を煙の向こうへと向け構える。
「……」
自分が、嫌いだ。
弱くてすぐに怯える自分…情けないと笑われる事が何よりも悔しかった。
…でも、そんな自分でも最期は格好よくいられる、そう思うと気分がいい……まるでずっと夢見ていた英雄の1人であるように。…バカにされるでも下に見られるでもなく皆にすごいなと…『居てくれてよかったなんて』…そう、言われ……
「!」
煙が晴れる。
トリガーを握る指に力を込めて標的を。
ガアアアアアアアアアアアア!!!
咆哮。
「…っ」
目が合った。
目、目、目、目、目、目、目、目。
「ィ……」
血走る瞳。獲物を見る目、怒り、殺したい、食いたい、貪りたい。そんな絶対者の目が、怯えるだけの得物を見て、細まる。
開かれた牙が目の前まで迫った、滑る舌は赤く濡れ、一本一本がナイフの様に太い牙の群れが得物の咀嚼を待ち構え揺れる。垂れる透明な唾液に生臭い異臭が鼻を突き…これから来る。
死。
『背中からの一突き』『鋭利な傷』『胸の上まで貫通』『臓器』『粉々の骨』『ミックスされ』『飛び散った』
脳裏に刷り込み考えないと願ったはずのあの…冒険者の死体が瞼の裏で焼き付いて目に写った。
――――!
…耳が煩い。
鼓膜を破る程の叫び声が頭の中にこだましやかましく響き渡る。不快で、聞き苦しい、聞くに堪えない酷い叫び声。
―――――!
その出元は自分の口だった。…その事に気付くまでに随分な時間が掛けた。
緑の森の中の風景は高速の射影器のように後方へと順次流れて行き。痛い程に鳴く胸は、吸い込んだ空気を一体どこへやってしまったのか次から次へと新しい空気を求めて荒れ狂う、邪魔な木の欠片が体へと突き刺さり痛い…。
――――!
…自分は走っていた。その手の中に愛器であるはずのクロスボウの姿はもうない。見苦しく叫ぶ声は間違いなく自分のもので。酷く不安定なその音程が暗い森の中を陰鬱にこだまし自身を責め立てる。
逃げ出したんだ……怖くなった。
頭の中をフラッシュバックする冒険者の死体がこびりつき、自分もそうなるかと一瞬考えると頭の中はパンクした。死にたくない、殺されたくない、食べられたくない。
――――――!
走る。ただ闇雲に無我夢中に走る。
足場の悪い森の中を懸命に…もうこれ以上は限界だ、もっと走れば恐らく心臓が破けてしまう、臓器も蕩けて、きっと自分は死んでしまう…そうした幻想と既に疲労も通り越した足が泣き言すら乾かしたその時に。
背後から襲い掛かる強い衝撃により意識が刈り取られた。
―――――――――。
襲撃者は苛立っていた。
自身の力に自信があった、森の闇に隠れ襲い掛かった獲物を一撃で葬る。強者の証であるような一方的な強襲はまだ意識も浅い彼にとって唯一といっていい誇りだった。
…なのに。
――――!
吼える。
爪を振り下ろし、尾を叩き付け、炎を吐き奇襲も繰り返した。
なのに、何故だ。目の前の小さな獲物は倒れない。紙一重を繰り返し逃れ続ける…強さとしては恐らく今まで目にした得物の中でも最弱だ、だから猛った、だから怒り狂った。何故、何1つ反撃すらしてこないこの獲物が捉え切れない。
―――!
咆哮、苛立ち。
一瞬で終わると目論んでいた彼の心情などあざ笑う様にどれだけ迫っても獲物は逃げ続ける。苛立ちは増し、怒りが溢れ、初めて感じる明確な殺意は混乱するどころか彼の心の内にすっと入り込み染み込んで行った。
追い追い逃れ、追って逃れ、長い時間が掛かりようやく追い詰めた振り回した襲撃者の尾が掠め獲物は弾き飛ばされ動かなくなる…ようやくだ…ようやく動きが止まった、これで…。
…そんな時に。
『はあああああ!』
新たに現れた邪魔者が割って入る。
いや新たではない先程対峙した白い鎧姿の得物だ。こちらは反撃も鋭く数も多い。この獲物が先駆けであったのか後方から続く足音が幾重も重なって響く。
――――!
苛立つ。怒り吠えた。
憎々しい小さな獲物を殺し切れなかった事に、大して力もないくせに群れて縋り付く敵に。
精一杯の憎しみと怒りに大きく体を震わせて飛び上がると、近くの木を足場に空へと飛び上がり…漆黒の翼を広げると襲撃者は緑のカーテンの上を飛び退って行った。
――――――――。
『…が!……ん…だよ……って……に!』
…朦朧とする頭の中に声が響く。乱雑に高く霞が掛かる今の頭には音が高すぎて痛い。
『…よな……も…思う………んで…が………魔なんだよ』
声は1つだけではないらしい…近くに感じる人の気配も多く、言い合う荒い言葉が図賞に交差して耳に届く。
「…」
…目を開けたくないと思った、耳を閉じてしまいたかった。どうせ気を失っていたならなんで……どうして今気付かせたと恨みたかった。
「……」
…しかし、そんな自分の心の内とは裏腹に身体の方は正直で、周囲の状況を少しでも探ろうと懸命にその機能を取り戻していく。
「……から、なんだ……んな所に………が居るんだよ!クソ…ざ…んじゃねえ!もう………も……っとだったってのに!」
「…めろ……ないだろ…傷の……てをしな……こでは…」
「…んでだよ!構……ねえだろ!こんなヤ…なんか!どうせな……っそ…」
「死んでくれりゃよかったんだよ!」
大きな声が耳に届いた。
「……ハ、ハハ…」
自分の口から乾いた笑い声が零れる。
体中が痛くって、胸の中はもっと痛い…。
目の端から零れた涙が一筋地面に落ちた。
この日、モンスターの森で行われるはずだった討伐は中止。たった1人の為だけに竜車は町へと戻る事を余儀無くされた。