幕間 それぞれの一日 終
信じられるか? これでまだ清い体なんだぜコイツ……
「それじゃあ私はここで!」
「あ、ああ……」
傾き始めた陽の光が作る街路樹の影の向こう側、こちらを振り返ってそう言ったミリアははにかんだような笑みを浮かべている……それに対して自分はといえばきっとかなり微妙な表情。何とかうまく送り出そうと頬を曲げて見るけど引きつったような笑顔が精一杯だった。
……店主の店を出た帰り道、T字路の道を挟んで反対側に立つミリアは一瞬だけ浮かべていた笑みを曇らせると小さく肩を落として見せる。
「本当だったらもっと話しがしたいんですけど、一度ギルドに帰らないといけなくて」
「イ、ああ、いや……残念だね」
「ハイ」
……嘘です、ごめんなさい。
名残惜しさを隠そうともせずにチラチラと振り返って見るミリアには、心の底では悪いなと思いつつも『GOGOGO』と早く行ってくれる事を求めている。
何とか、何とかここまで来たんだ……あの、詰め寄るような店主の追求を振り切り机まで戻って来たはいいけれど、いつの間に仲良くなっていたのか、そこには和気あいあいとして話しをするミリアとリザリアの姿。会話には中々入れず、かといってうっかりとリザリアが口漏らすんじゃと疑い繰り返される戦々恐々。自分でも料理を頼んだはずがその味も、結局何を頼んだかも思い出せない程頭から抜けてしまっている。いつ終わるとも知れない心臓に悪いガーリートークの中、『そろそろ戻らないと』と言い出したミリアがまるで天使か何かのように見えたのは疑いようもない。
「……はぁ」
しかし、いざとなりここまで別れを惜しむような姿を見てしまうとさすがに内心で心痛む罪悪感というものもあって……だがそれでも、あえてここは心を鬼にしなければいけない。流されるだけの人生は終わりに後ろ髪引かれる思いはあってもNOと断れる強い心を持たないとでこの先、生きていく事だって難しいのだ。
「それじゃコワードさん、今度はギルドで会いましょうね」
「……え」
「シャラさんも話したがっていましたから」
「う、ぇ?」
「ねっ!」
「…………はい」
でも縋るように見られたらさすがに仕方ない。……世の中強い態度でばかりでは生きていけないと思い直し! ……何か自分の心の弱さに欝になりそうな微妙な感慨があった。
「よかった! それじゃ」
再び明るい笑顔に変わったミリアは愛想を振りまくように数歩進み体ごと振り返りながら大きく手を振るう。まるでこちらまで揺れる空気の音が聞こえてきそうな程の勢いで振るわれる手には、どこか達成感に満ち溢れているような部分があり、自分にとってむしろ爆弾としか思えない発言も、その笑みを見つめているとこっちの心まで少し温まっていくようだった。
「絶対ですからねーコワードさんー!」
「は、はは……」
遠ざかり通路にエコーを残しながら消えて行く後ろ姿。その小さな背中が路地の先まで見えなくなるまで自分も静かに見送って……いつの間にかミリアに呼応するように掲げられていた自分の右腕に気付き、気恥ずかしさに慌てながら頬を掻くような振りに変える。
「はぁ」
人知れずこぼれた溜め息は、しかし自分で思っていたよりは重いものではなく……色々とあった気はしたけれど、それでも最後は綺麗に終われたと、そんな澄んだ晴れやかな気持ちがあった。
「……また、か」
それもいいのかも知れない。
ミリアの走っていった先に見える少しオレンジ掛かった空の色、漏らす呟きに恥ずかしさを隠してそっと自分の手の平を見つめる。
正式のギルドまで会いに行くなんて、そんな無謀な事をするつもりは全く起きなかったけれど、今は見えなくなったその小さな背中を想いいつかもう一度会うその時を思い浮かべると自然と笑が浮かんでくるような……そんな。
「で、コワードくん」
「……」
「この後どうする?」
…………この人の事をすっかり忘れてた。
「ア……ソ、ソウデスネ」
ギギギギギと心の距離感を示すように鈍く振り返った視線の先、いつの間にやらすぐ近くまで忍び寄りこちらを見つめながらニコリと笑みを浮かべているリザリアの姿があった。……そのやけに嬉しそうな顔を例えば花に変えて言うならば美しく咲いたバラのような(有毒)、空を飛ぶ鳥に例えて言うなら純白の白鳥のような(人を襲う)……そんなキレイな微笑みが目の前にあった。
そういえば店を出た辺りから妙に口数が少なくなっていたような、それのおかげで気付かないで済んだ、出来ればもっと気付きたくなかった事を思い出す。
ミリアが去っていったとて事態は一向に改善していない、むしろまだ渦中の中に自分はいるんだった。
「あの……はい、スイマセン……買い物、ですよね……ハイ」
……最早当初の街の案内がどうとかいう便宜めいた言葉は出てこない。買い物だ、買い物しかない、もっと言えばきっと荷物持ち要員なんだ。
急なミリアの登場に中断されたばかりでなく素性がバレないようにと協力までしてもらい……その静かな湖畔を思わせる笑みの下では今きっと真っ赤な溶岩がうねりを上げながら獲物を待ち構えているんだろう。
「……」
どうしよう……すごく逃げたい。
「や、あ、ハハハ、そうですねいやごめんなさい! リザリア……さんにおかれましては、いやなんていうか、その、これといってそのあの」
「……コワードくん」
「っ、ハッ!」
「今日はもう帰ろう」
「ハイッ…………はい?」
咄嗟に大きな声で答えてしまい、そして言われた事を思い直し首を傾げる。そんな自分を置いてきぼりにしてしまい当のリザリアといえばもうどこ吹く風なのかスタスタと足早な調子で来た道を戻っていく。
「へ? え、いいの……はっ!」
そのままリザリアの言葉を鵜呑みにし、つい喜んでしまいそうな顔を慌てて引き締めると思い直す。そう、これは学術用語で言う所の多分上げて落とす。上げて、落とすというやつに違いない。
このまま自分を安心させた振りをして数歩歩いた所で立ち止まる……そして「なんちゃって」とか晴れ晴れしい微笑みを浮かべながら隠し持っていたナイフを取り出して胸を突いてくるつもりだ。……何か今日一日で自分の中のリザリアの印象がすっかり極悪人紛いに変わりつつある気もしたけれど本当にそう遠く外れていないとも自分で思えてしまうので尚更始末が悪かった。
「と、ちょ、ちょっと」
「ん?」
強歩の早さで先を行くリザリアを必死に追い掛け……本当に必死というしかない程のスペースで離れていってしまったので慌ててしまったが、それでも何とか追い付くとリザリアの横に並びその横顔をじっと覗き込む。心の中のやましい何かは瞳に現れるとどこかで聞いた覚えがある……ならばその内心の揺らぎを見逃さないように、鋭く変えた視線でリザリアを射抜き。
「ふふ、コワードくん、どうかしたの?」
「……」
……いや、そんな高度なスキルは自分にはないからとすぐに思い知らされる事となった。
―――――――――――。
「オツカレサマー」
いつかした時と同じように私はベッドの上へと倒れ込む。
飛び上がった瞬間、折角用意した綺麗な服だったのにと事を思い出したけれどそれでも既に飛び出してしまっているのだから変わらない。倒れ込んだ反動により押し返す柔らかでしっかりとした感触のクッションの肌触り、さまよう片腕でその1つを掴み取るとうつぶせの顔をうずめるように頭を落とす。
「……」
開け放たれた窓からは濃い色をした陽の光が差し込んでいた、その今は妙に眩しく感じられる輝きを嫌い、クッションに隠されて視線が真っ黒へと変わるとようやく落ち着いたように息を吐く。
……恐らく父さんはもう帰っているのだろう。姿は見えなかったけれど既に開いていた宿場の扉からそう判断し、コワードくんにもそう伝えたけれど何か慌てるような様子に深くは言えなかった。
結局私は一人急いで自分の部屋へと舞い戻り、今こうして顔をうずめて視界を隠してしまっている。
「失敗した」
開いた口から漏れる小さな呟きと呼吸は押し付けた布地を伝わり耳の中にわずかな残響として返ってくる。どこかむず痒く感じるその響きは決して気持ちのいいものではなかったけれど今はただ我慢を続けるしか他にない。
「……失敗、しちゃった」
『失敗』。繰り返して言うその私の言葉は今日の『勧誘』の事に対したもの……うまくいくと内心思っていたのに結局は失敗してしまい。余計に漏れた吐息が鼻先もくすぐる中、何故失敗してしまったのかをよく考える。
最初に街に連れ出した事、これは成功だったはずだ。その後色んな店を見せて回ったのは、正直本当に良かった事かどうか今は微妙に分からない。途中、アンナ・ミリアと言う名前の冒険者の女の子に会ってしまった事が失敗だったのかと言えば……逆にそうとも言えない。彼女本人にコワードくんを説得してもらえればそれが一番だったはずだ……なのに。
「……本当なら今頃は、私にも同僚が出来ていたはずなのにな」
少し茶化して言う自分の言葉に、ミリアちゃんに向かって大層に言った言葉を思い出す。
『気を失っていたから仕方ないけれど。……だけど私は覚えてる。大きな声で叫ぶ父さんの声。抱えた腕からはぶらーんて、コワード君の腕が下がってた。『近付くなって』言われたけどね私見ちゃったんだ。血の気の失せた青い顔に……』
「ハハ」
口から小さく笑いが溢れた。自分でも迫真の『演技』だったと……そう思う。
非常に情を誘う感じに出来たのは高ポイントだ。顔も悲し気に伏せていたはずで、宿屋という接客業の中、私が唯一誇りに思える程の完璧な態度だったはず。
「……」
『勧誘』はあくまでコワードくんの為とは言って、それでも内心自分で期待する部分も少しあったと思える……何せ初めて出来る大切な仕事仲間の事、私自身もコワードくんの事を恐らく嫌ってはいないと思えるし、少し大変な部分もあるけれど宿場はとてもやりがいのある仕事なんだと、自分でも思っていた。
だからその為にやれる事をやって、その中には少しだけズルい嘘泣きという仕草もあった。
「……なんでかな」
そんな真に迫った私の話しを聞いてミリアちゃんだって……初めは少し傾いているように見えた。彼女自身何か思う所はあったのか、これは思ったよりうまく行きそうだと思ったけれど……それもラッセルさんが料理を運んで割り込んで来た事によってなんだかうやむやになってしまった。
……私はこれでも『空気』ってものをわきまえているつもりで、話しの流れはそれで終わった。
ミリアちゃんが、会話のその先を自分で言い出そうとするまでは。
『その……出来ればコワードさんには内緒で』
そう切り出した彼女を私は内心驚いて見返す。……少し話しをした感触からそれ程無理に我を通すような子にも見えなくて、何よりその場を乱すような事をわざわざ言い出すようにも見えない。
すっかり会話のの終わりとタカをくくっていた私は咄嗟に何か言う事が出来ず、ただ黙ってミリアちゃんの話しを聞く事になる。
『私はコワードさんの事を――――尊敬してるんです』
『……え』
驚いていた私に尚更信じにくい言葉が耳に飛び込む。
『尊敬』なんて言葉、きっとコワードくんにはすごい縁遠いもののはずだ。……私の知っているコワードくんは普段から頼りさそうで、怖がりで、困った事があればあやふやにしてごまかし……そしてクエストに出掛ければボロボロになって帰ってくるようなそんな、弱い人。
現に同じ場に居合わせたというならミリアちゃんには彼と違って大きな怪我は見えなくて……その事から分かるように見た目はともかくコワードくんよりもずっとしっかりとした冒険者なのかなと……そう思ってしまっていた。
『私は、コワードさんに助けられたんです。それに私だけじゃなくて一緒に居たシャラさんも。私、その時は全然ダメですぐに諦めちゃっていたのにそんな私をコワードさんは庇ってくれて、最後まで頑張って……私は、大事な時に大切な事が出来なかった。頭で分かっていたのに咄嗟には動けなくて』
『……』
『だから私はコワードさんを尊敬しているんです、目標だって言えます』
……彼女が話しているのが本当に『あの』コワードくんの話しなのか。私にはその二人の人間が重ならない。しかし何かの嘘か冗談かとでも思って見返したミリアちゃんの瞳はとても真っ直ぐなものであって。
『私はコワードさんみたいに強くなりたいです』
そう、はっきりと言って見せてしまった。
「強く……ない」
自分の小さく吐き出した言葉はまるで嫌々を言う子供のよう、目の前のクッションに塞がれてすぐに返ってくる言葉を自分で聞いて……コワードくんは『弱い』からああなったんだ、冒険者ですらない私から見てでもあんなに頼りない子なのに。……しかし、そう言って言い返してやる事が出来ないから、私は浮かべ慣れた微笑みを咄嗟に形作ると体裁を整えた口調で声を出す。
『そっか、うん分かった応援してるね……それじゃ冷めない内に早く食べましょう、私お腹空いちゃって』
そう、話しの矛先を反らして見せた私に、何故かミリアちゃんは口早に『スミマセン』と呟くと料理の乗ったテーブルに向き直る。きっと彼女自身も言っていて自分で恥ずかしかったのかも知れない。少しだけ変わってしまった空気に改めて再開した食事……そこからはすごい楽しかった。何を言っても私にしても同世代の、それも女の子とこうして気軽に話すような機会はなかなか無くて。それからはお互いの事、好きなもの事、最近の街の噂、そんなとりとめもない会話が次から次に飛び出し、それは、どこか疲れた様子のコワードくんが戻って来た後もずっと続いていた。
「……はぁ」
自分の中の、よく分からないもやもやが強くなる。そこで私は息苦しさからようやく顔を上げクッションから離れるとベッドの上でうつぶせから仰向けへと寝転がる。だけどやはり差し込む光はどこか気に入らず掲げた右腕を顔に押し付ける状態にして光を隠した。
「やだな」
小さく、そしてたまたま口を突いて出た言葉は昨日の夜、同じ体勢から自分で呟いた言葉と同じもの。しかし、漏れ出た一言に連れ添う気持ちは昨日の比じゃなくて、出口を求めた苛立ちが反発をしあいながら荒れて行く。
「……悔しい」
うまくいく。そう思っていた勧誘は失敗に終わった。
だけど、この心の内の悔しさはきっとその事ばかりではなくて。
『コワード君、よく覚えていないんだって』
『演技』の中で出た言葉。
『ふふっ、でも笑っちゃうよ。それで何とか持ちこたえたら本人はケロッとしちゃっててろくに覚えてないって言うし。そんなの聞いたって私は』
「……」
思い浮かぶのは力なく垂れ下がった腕。
血の気を失う顔が何度も蘇り。
汚れた血の跡と同じように頭の中にこびりつく。
『――どうしたらいいか分からないよ』
「……」
そこまで考え、私はミリアちゃんへの説得の中で……意図してかどうかは分からないけれど言っていなかった事を思い出す。……『その時』の私自身の浮かべた顔を話してはいなかった。
【……生きてる】
そう呟いた一言は、やがて目を覚ましたコワードくんが最初に漏らした言葉。様子を観察していた父さんの肩の向こう側から弱々しく聞こえた言葉はどこか乾いたような雰囲気だった。
クエストを達成したんだと喜ぶ冒険者の顔じゃない。酷い目にあったと強がって毒付く強さでもない。何もかも過ぎた事と、そう格好を付けて言える程の余裕もない。
【……生きてる】
繰り返し、そう言われた言葉を思い出し、二度目の呟きには深く湿った濁音が混じる。
ケロッとしていたなんてミリアちゃんに言ってしまったけれど、それは気を失った後の事をコワードくんが覚えていなかったというだけで。
コワードくんは『ちゃんと』怖がった。それが彼が冒険者には全く見えないと、私に最も印象付けていたはずの言葉。
「……強くない」
私は知っている。
コワードくんは冒険者に向いていないという事を。
彼は怖さに怯える普通の人間で、無事だったから今は生きてるからとカラッと笑える程出来た人間でもない。
……だと言うのに冒険者を辞めたいって言い出さないから。それなら、代わりに、私が……。
「向いてないって、大きなお世話?」
……言いたくないけど言わないといけない。何せ私は『失敗』をした人間であり、彼を……父さんと私の仲間を尊敬するとまで言ってくれた子が居るから。
だから、私は、私だけの空回りを終わりにしないといけない。
「私が、間違って」
もう心の底の苛立ちの正体も分かっていた。本当は冒険者に向いてるかどうかなんて些細な問題ではなくて、ただ、本当の私が……
『みぎゅわいやああああああああああああああ』
「…………え?」
その時、部屋の中に……いや中と言わずに宿場全体へと轟くようなような大きな奇声が響いた。
一瞬惚けてしまっていた私はすぐにその言葉にギョッとして立ち上がり……続いて残響して叫ばれる声が一体誰のものだかが分かり……何か一気にやる気が失われて再び倒れ込む。
変わらぬクッションの柔らかな反動。視線を隠していた腕が外れ朱色に霞んだ陽の光が目に入る。
不思議と先程までの嫌になるような眩しさは感じられなかった。
「やっぱ、向いてないな」
一つ息を吐き、聞こえてくるドタドタとした騒がしい地響きを耳にしてベッドから下りる。
無意識に沸き上がってくる自然な笑い顔を、必死に怒った風に歪ませながらも。
―――――――――――――。
「ない……ナイ……ない……」
まるで亡者めいたそんな呻きが漏れたのは自分の口から。宿場のロビーの中で机の上を、入口扉の裏を、顔を貼り付ける程に見た木目の床を……果てには奥のカウンターの中まで漁った辺りで感じた絶望感から声を上げていた。
「どこー、どこいったんだよークロスボウー」
最早半泣きにも近い口調で声を上げるけれどロビーの中に返ってくる返事1つない。確かに、朝宿場を出る時にはここに置いて(持ち歩く事をリザリアに拒否されて)あったはずのクロスボウ。茶、黒、鉛の眩しい混合色に、頼れる相棒の姿を求め続けているのだが一向に見つかる気配すらない。
……まさか、家出か……とついに馬鹿らしい考えまで頭を巡るようになって来た時、よくよく考えてリザリアが言っていたはずの事を思い出す。
「ディガー、帰ってるんだっけ……片付けられたのか」
自分の顔を手で擦りながら言う言葉に……恐らく、それが正解なんだろうと強く思う。何故かリザリアもリザリアでどこか変な様子だったのも気に掛かったが……もし、もしもそれが本当で仮にディガーがクロスボウを回収されているとしたら大きな懸念が残る。
「はぁぁ」
口から漏れる溜め息にせっかくミリアもやり過ごし何故か静かになったリザリアもラッキーで……それで今度こそ全部丸く収まったと思っていたら最後になってこんな余計な。
「……とりあえず全部リザリアのせいにして謝ろう」
……いや事実としてそれで間違いないと思うのだが、それでもちょびりとはある怒られる可能性にとにかく何もかも後回しにして部屋で休みたいと強い思いも顔を出す。
思えば今日色々あったんだ。
ロビーの中を抜け、カウンター横の階段を上り始めながら一日を振り返って考える。
そもそもの原因が昨日から続いた妙な胸騒ぎ……結局はそれも気のせいで終わりそうだけれど。朝から行きたくもないのにリザリアに街に連れ出され、ミリアに再開し、店主には妙な事で詰め寄られ……そして最後に怒られるて終わる一日のラストが目に浮かぶ。
「もう、散々だったけど……それでもまぁいいか、何か思った程ひどい事にはならなかったんだし……そもそも二股ってさ、実はリザリアって本当は男だったりするんじゃ、『あの』ディガーの息子(?)なんだしなぁ」
周りに人がいなくて一人になれば気が大きくなるもの。どっちにしろ怒られるかもととりあえず方針も決まった事で何とか安心し、思いのほか自分の呟いた言葉が面白く感じて吹き掛け。
「は……ぶっ!」
そして……階段横に備えられた窓から一瞬だけ外を見た時、本当に吹き出して身体が凍り付く……決して透明度抜群でないがそれでも外の景色が分かる程度には鮮明なすりガラスの向こう側、そこに黒色をした野鳥が群れが止まりこちらを見つめており。
グガァー。
「……」
……そしてその内の一匹が大きく一声鳴くと、こちらを見据えたまま群れは空へと向かって舞い上がっていった。
「…………そっ、そもそもミリアにしたってあれだ、恋人とか全然違うし、ば、馬鹿じゃない」
……ちょっとどもる。
それは甘酸っぱい恋人関係とかに関しての気恥ずかしさではなく、純粋な恐怖から。……とりあえず今見た事は無かった事と頭から追い出し階段を登る。
「ひっ」
落ち着いて前へと向き直ったその矢先、すぐ横に見えた壁の染みが何だか人の顔のように見え、しかもこちらを睨んで見たような気がして飛び上がる。
「は、はっ、はっ……ハ、染み、か、ハハ……全く、どうかしてる」
軽く頭を振るって今見たものも追い出すと今度は足早に急ぐ。そう、予感なんて迷信じみたもの、何の根拠もないはずで。
とりあえずこの壁の染みは後で綺麗に出来ないかディガーに聞いてみよう。
「とりあえず早く自分の部屋」
ナァーゴ。
「ひぃっ!」
ようやく階段を登り終え今度はその直後、何か動物の鳴き声のようなものが聞こえた気がして振り返る。……しかし、視線の先に見えたものは何の変哲もないただの廊下、木目の床と壁には年季の入ったような深い色合いこそは見えるが、そこに何かしらの動物なんているはずもない。
「はっ、はっ、ハハ」
気のせい、気のせい、気のせい。
同じ言葉を呪文のように繰り返し、次は足早とかは言わず全力で部屋を目指す。駆けて行く廊下に、幸い自分の部屋はもうすぐそこであり。中へと入れば絶対に安全とそんな妄執めいた信頼感がそこにある。後はシーツを被り、目を閉じ、自衛用のクロスボウを……いやクロスボウは無いんだった……とにかく一刻も早く部屋に閉じこもれば問題ないとドアノブまで手を伸ばし。
ハッ
その時、部屋の『中』から音が聞こえてくる事に気付いた。
ハッ――シュッ――カシャ。
「……」
ハッ――シュッ――カシャ。
よく見れば、自分の部屋の扉が少しだけ開いている。
扉とドア枠との間に生まれた若干の隙間の中、その奥の方から音は聞こえてくるようだった。
「ぐ」
ゴクリ。
自分の喉の中で音が聞こえてきそうな程に強く唾を飲み込み、扉の前で少しだけ屈んで耳を澄ました。
断続的に聞こえてくる音は乱れながらも決して終わりがなく、時折混じるヒュオオとまるで空気を吸い込んでいるような音。隙間から流れ出てくる風は生ぬるいのに、そのくせ自分の背筋には嫌になる程の冷たい悪寒が走った。
「……ん?」
しかしそこまで聞いて、少し冷静になれば部屋の中から聞こえてくる音……いや声には、妙な聞き覚えがある事に気付く。それは耐性がなければ地の底から聴こえてくるような招き声を思わせ……だが全く嬉しくない事に少なくない数だけ会話を交わした自分にはその声の正体が分かった。
「なんだディガーか……はぁ」
一度分かってしまえばそれはもうネタの知られた手品のようなもの。
静かに物音に耳を傾けていた事がバカらしく思えて笑いすら込み上げてくる……それでもなんでディガーが自分の部屋に居るのかまでは分からなかったが、少なくともそれは怯えるようなものでもないはずだ。決して触れられないような存在ではなくちゃんと現実にあるもの、人物的に怖くないかと聞かれればそれは微妙かも知れないけれど、それでも心は大分マシになる。
「全く! ディガー、何やって……」
少し強気になってしまい……だから自分は何の気なしに扉を開けてしまった。余計に感じてしまっていた恐怖感がただの徒労だと分かってしまった為に、それは何の躊躇いもなく。
本当にこの世のものとも思えない場所へと入口とも知らずに。
「………………」
空いた口が、塞がらない。
元々半開きであった為微かな抵抗もなく扉は開き、少し勢い込んでしまったまま部屋へと入り込んでしまいその瞬間に。
理解を越えた謎の感情に苛まれ自分の中の時は完全に停止した。
「フン、ハァアッ」
それは、例えて言うならマッスル。
ゴシュッ。
行う行為に相応しい言葉はパワフル。
カ………カシャ、カシャ……。
狂気、それは生贄。
「……」
目の前に見えた光景は、言葉にしてみればある意味幻想的な景色であった。
部屋一杯に満ちる暖かな陽の光と本当に暑くすら感じる空気。浮かび上がる漆黒のボディー。本来上半身を守るはずの人類の発明品である服は何故か腰に巻きつけられ、そんな祭りめいたスタイルでディガーはクロスボウを持つ。
荒い息遣いと共に揺れる腕の何とリズミカルな事か。
「フンハァ」という謎の掛け声と共に握り締められたクロスボウの上を、白い布地が撫でる、シュッと漏れる肌が熱くなり心が冷たくなる摩擦音。ディガーの持つ布地がクロスボウを襲う。
そして一動作一動作動く度に宙へと向けて弾け飛ぶ玉の汗は眩しい陽光を受けて七色に輝き、そんな物体が自分の部屋の中央を占領しているのだ。思考が、現実に追い付く事を拒絶している。
「ヒュオオォォ……あら? コワードちゃん」
「ひッ」
黒光りする物体に声を掛けられ反射的に後ろへと飛び退いてしまう……しかし悲しいかな部屋へと入り込んでしまった為に背中の後ろはすぐに壁、ガタンとぶつかる大きな音に後退路が阻まれる。謎の物体が人語を喋った……いやディガーなのだ当たり前だ、混乱するな。ピクピクと脈動する上半身剥き出しのただのディガーだ。何かいい仕事した後のように額を流れる汗を腕で拭い笑みを浮かべているのだが、やはりディガーなのだ。
「もう! ダメじゃないのコワードちゃん」
「は」
「『は』じゃないわ。宿場のロビーに武器を置き去りにして出掛けるなんてもう、前代未聞よ?」
「は」
「まぁそれで部屋まで持って来たんだけど……よく見たらクロスボウにちょっとくすみがあるじゃない? それでついでだから私が磨いて上げているの」
「は」
「ふふ、自分で武器の手入れなんて本当に久しぶり、つい熱くなったわ」
「は」
いや……確かに、クロスボウがいくら磨いても綺麗にならなかった事は昨日の悪い予感の一部だったけれど。だが、手入れ? 磨いてあげた? アレは何を言っているのか、さっきのはどう見てももっと悪魔めいた儀式か何かに違いない、何か掛け声言ってたし……そ、それにホラ、現に召喚の生贄となったクロスボウが生命力か何かを抜き取られてぐったりと。
「……ハッ! く、クロスボウー」
カ カシャ カシャ
「うわああああ、相棒ーーー!」
「え、ちょ、ちょっと突然どうしたのコワードちゃん、そんな大きな声……あら?」
ちくしょう、ちくせう。
未知との遭遇から立ち直り恐怖心の中で自分を奮い立たせて助けに走ろうとするが、そんな自分よりも早くディガーが動く。手にした布地とクロスボウをベッドの上に置き……汚れた布と一緒にいるせいかクロスボウ本体までがまるでボロ雑巾か何かのように目に映ったが……それを置き去りにしてディガーは目にも止まらぬ早さで接近してくる。黒い巨岩かと思わせた姿はまるで黒い昆虫に、想定外過ぎる高速の動きに反応は出来ず、壁に背を預けたまま身体はこわばってしまう。
「ひっいいい」
「シっ、動いちゃダメ、コワードちゃん」
ディガーの大きな手の平が迫り……自分の頬に触れた。マッチョな皮膚に浮き出た油分のせいか肌触りは妙にしっとり、それでいてベッチャリな感触が頬からこめかみまでをなぞり、そして一息入れて指を離すと、自分の目の前まで持ってきて見せ付ける。
「ほらゴミが付いてたから、取っちゃったわ」
※意訳『お前を食べるから、ぐちゃぐちゃにして』
「みっ」
この瞬間に、ついに理性という名の鎖が限界を迎えた。
「みぎゅわいやああああああああああああああ」
それはまるで自分の口から出たとは思えない巨大な悲鳴、反響していく音が互いに混じり合いながら広がって行き。
――まだ幽霊とかの方がいいですよね、触ってこないから。
そんなまるで他人事のような小さな思いがちょっとだけ現れてすぐに消えていった。
「ちょっと、コワードくんすごい声が聞こえたけど、何かあっ……」
駆け付けたリザリアは一歩部屋の中へと入り込み、そして瞬時に固まった。
部屋の中に居るのは何故か上半身裸な上に汗だくの自身の父親。そんな彼の困り顔の先では部屋の主にして奇声の張本人と思われる少年が仰向けに倒れている。……開かれた窓から部屋に入り込む風、その流れに合わせてまるで壊れた風車のようにカシャ……カシャ……と断続的な音がどこからか聞こえてくるのが印象的だった。
「……」
リザリアはこの時出来るだけ冷静に考え……そして考えた結局何も分からなくなって素直に口にする。
「本当に何があったの?」
若干呆れたその問い掛けに、どうやら気絶してるらしい少年は答える事が出来ず、代わりに乾いた笑みだけを浮かべるディガーが答える。
「いやそれがね、コワードちゃんがいきなり奇声を上げたと思ったら暴れて」
「……うん」
「それで、部屋の壁に自分から……」
「うん、もう分かったから」
カシャ……カシャ……
鳴り止まない断続的な物音はどこか物悲しげな雰囲気をして部屋の中に満ちて行き。
「はぁ」
その後、誰のものとも分からない小さなため息が漏れた。
――これによりコワード少年の完治が一週間程伸びる事になったのだが、それはまた、別のお話し。