幕間 それぞれの一日 5
「はい?」
聞かれた質問は意味がよく分からなく見返す視線の先では花開いたように笑う『彼女』の姿がある。腰掛けた机のすぐ傍で、薄く開かれたから窓から陽光と共に緩やかな風が入り込み路面に則して咲く小さな花々の香りを中へと運んでくる。そんな鮮やかで澄んだ風よりも、尚一層華やかなように目の前の彼女リザリアさんは薄く笑っていた。
「ええと、あの? それはどういう?」
ゆっくりと、何とか追い付いた頭で聞き返すとリザリアさんは浮かべる微笑を少しだけ解き、薄く歯を見せてはにかむと空いた片腕をそっと頬に添える。少しだけ困ったようなその仕草も何だかとても女の子らしいように私には見え、自然と自分自身の姿を隠すように服の裾を引っ張ると居住まいを正した。
「その、いきなりごめんね……ええと、コワードくんて冒険者に向いていないって、そう思わないかな?」
つい聞き返してしまった私を見かねてか、今度の言葉は一語一句区切るように。決して間違えようのないゆったりとしたペースで告げられた言葉から、さっきの『質問』が聞き間違いなんかじゃなかった事だけは分かるが……それでも私にはその言葉の意味が分からなかった。
驚きに目をパチクリと瞬かせてしまっている私に、リザリアさんは小さく断りを挟んで体勢を直すと腰掛けた椅子ごとこちらに向き直るように形を変える。
正面から向かい合ったリザリアさんの姿は私と大して変わらない程の背丈だったけれどそれ以上に目に映える『綺麗な格好』と『上品そうな仕草』はやはり私とは少しだけ違うように感じられ……その事に少しだけ緊張してしまっている自分がいた。
「今からミリアちゃんを説得するわ」
「はい?」
小さく短い言葉が口火を切り、リザリアさんの瞳はしっかりと私を見ていた。
――――――――――。
「分かってる、分かってる、コワードくんの言いたい事、オレはよーく分かってるから」
「え」
――いや先ずその一言からして何も分かっていない。
壁掛けの調理器具がずらりと並んだ厨房の中、一人納得したように頷く店主はこちらを見つめてウンウンと頷く、その使命に燃えるような2つの瞳で余す所無く自分を見ている。
培ってきた(そんなに培ってない気もするが)冒険者としての勘は事態の緊急性を知らせ、早くなんとかすべきだと体全体に指令を流す、
「あの、言ってることがよ――ぶっ」
……しかし、悲しいことかな、なんとかしたいと思えばなんとか出来る程世の中は甘くない。
何とか浮かべた愛想笑いで対応しようとした矢先に、店主は自分を見つめているようで何か別の得体の知れないものでも見ているのか、難しく引き締めた顔でワカイナ、ワカイナと呪文のように繰り返され漏れる呟きがまるで呪いのように重苦しく、いい感じに意志の疎通が取れていない現状に……つい数時間前に『他人とのコミュニケーションは難しいな』と思っていた事を思い出した。
「コワードくんもまだまだということなんだよ。だけどな! コワードくんが間違った道を進もうとしている今、止めてやるのも年長者の勤めというもの」
「はぁ……ハ? はぁ」
よく分からずとりあえず逆らわない方がいい等と思っていると……その瞬間の隙をついたように店主が動く。冒険者もかくやという素早い歩行で優に数歩分離れていたはずの距離を一瞬で縮め、なんとか反応して動き出そうとした自分よりも早くその野太い腕が伸び、軽目の衝撃が肩に下った。
「コワードくん!」
「は、ア!?」
掴まれた両肩の向こうで目の前に店主の暑苦しい顔が迫り。
「二股はダメだ!!」
「…………は?」
……その瞬間。確かに時間が止まったような錯覚を覚えた。
ふうたあまあたあ。
それはなんだろうとたっぷり数秒考えた結果、取り戻された意識がとても不純な単語に結び付き、片腕で暴れながらに声を上げる。
「っ、二股とか何言ってるんですか! いや、二股とか何言ってるんですか! なに二股とか何言ってるんですか!?」
「この、モテ野郎か、ア?」
「目、こわっ」
直視しがたい目で至近距離から覗き込まれ、目を背けようと首を曲げた時、その救いの言葉が厨房に流れた。
「何やってんだ」
「あ! ああ、違、いや、助けて!」
聞こえた声に目を向ければそこに半目を開いてこちらを見ている青年、この店唯一の従業員である男性店員がこちらを見つめており、そのまま厨房入口からの距離を保ったまま大回りに自分達の周りを回って行く。……明らかに近寄りたくないオーラが見え見えだったが懸命に助けを呼び続ける。
……そんな彼からかろうじて返ってきた反応はこちらへと向けて空いた手のひらをフリフリと振るうだけ……それは果たして頑張れという意味なのか、関わりたくないからという意味なのか。どちらにしろ自分を助けに手を差し伸べることはないらしい。
「……店長、オーダーありましたからスープとパン出します」
「ああ、ラッセル一人で平気か」
「……ええ」
「『ええ』、じゃない! 助けて!」
肩を掴まれたまま声を上げる自分は確かに見た。「ええ」と言い放った瞬間に彼はこちらを見てフッと笑って見せた所を、助ける気皆無のその行動に大声で抗議の声を上げたい所だったが、それすらも許されず掴まれた両肩から店主の予想以上に力強い腕によって前後にミキサーを掛けられ、抑えの無い首がガウンガウンと前後にバウンドし、目に映る厨房内の景色もガウンガウンと高速移動を繰り返す。
「コワードくん! 君が悩みを抱えていた事は分かってる。そうだ、人生に一度のモテ期が来るのが早すぎて焦ってしまった気持ちも分かる! だが分かるからといって踏み外していい人の道というものもないんだ!」
「わぁ、ウゥ、なぁ」
「焦るんじゃない!」
「い、き、いき……」
「コワードくん! なんでそんなに悩む前に相談しなかった、こんな修羅場でこじれる前だったらこのオレがいくらだってなぁ」
「ァ……きもちわ……ぅ」
「ん、コワードくん!? コワードくん!!」
「まぁ、あっちは任せろ」
前後に激しく振るわれ胸と背の上を行き来する頭の中。
ぶれる視界の隅で粛々と料理の盛りつけをしている青年の一言が耳まで届いてくる事はなかった。
――――――――。
「コワードくんてちょっと臆病な所があると思わない?」
「……そうですか?」
『説得』と口に出していた割にリザリアさんの口調は軽く砕けたもので、笑みの端には何か面白い世間話でも語るように小さなおかしさを乗せて頬を緩ませている。
「今朝もちょっと外へ歩くだけなのに、何か怖がって『クロスボウを持っていかなきゃヤダー』ってまるで子供みたいでしょ」
「……」
楽しそうにリザリアさんの語る中で、しかし私は困惑しながらも話しを聞いている。リザリアさんの話す対象である『コワードくん』と私の中の『コワードさん』がどうしても一致しなくて……私にとってのコワードさんは、『あの』クエストの途中に亀裂の底で出会った冒険者。私と違って勇敢にモンスターと戦い、何よりも第一に私とシャラクゼルさんの事を気に掛けてくれているそんな人だったはず……。
リザリアさんの言葉は続く。
「それにコワードくんは腕力もあまりないの……今は怪我をしているから仕方がないって部分もあるけれど、それでも冒険者にしては弱くないかな? それに特別に足が早いって訳でも、すごい技量がある訳でもないの」
「……え、と」
「それに、あ! そうそう、この前コワードくんと一緒に買い物に出た時、コワードくんが店の勘定を間違えちゃった事があって。品物を買う為にお金を出してるんだけど、それが足りない金額って気付かずにずーっと店員とにらめっこして……ふふ、面白いでしょう?」
「……」
……リザリアさんの話す言葉の端々、今は席にいないコワードさんを悪し様に言っているように聞こえるけれど、それが決して悪い印象であるようには私には見えなかった。悪く言っているようでもそれは、例えるなら年の離れた弟の失敗談を笑い話に変えて話す姉のように……先程までの整った綺麗な微笑から親しみの湧くような明るい笑顔で語っている事もその原因だった。
「……」
『だからこそ』、尚更私は彼女の言葉に快く頷けない。
楽しげに語る彼女の言葉に出てくるコワードさんは同じ人物であっても決して私の知らない彼で……それは『ちょっとクエストで会っただけ』の私よりも彼女の方が彼をよく知っているんじゃないかというそんな当たり前の懸念を胸の中に抱かせる……決してその事が悔しいとか負けたとかいう話しじゃないけれど……だけど、私は少しだけ強く掴んだ腕から何かを探すように指を伸ばし、触れた先にある布と、それに連なる思い出を心の中でつなぎ止めていた。
「ふふ……はぁ。私ね……本当に、おかしいって思うの」
「おかしい、ですか?」
今や聞き手に回っている私の目の前で突如リザリアさんは浮かべていた明るい笑みを引っ込めると少しだけ寂しそうな笑い顔を浮かべる。所在なさげにさまよった指の先は机の上の紙の冊子を束ねたようなメニュー表に触れて、その端っこを弄ぶように動かす。
「コワードくんは……冒険者に向かない」
パサリ。
「……」
まるで、事実を言い切るような迷いのない言葉。
一瞬周りが静かになった錯覚すら覚えた私の耳に聞こえたのはそんな彼女のか細い声と持ち上げたメニューの擦れる小さな音。
その言葉は私にとって正面から否定したいはずの言葉だったけれど反論する声が上げられず。……抱いていた懸念が確信に変わりつつあり、心の中で一時だけの思い出しかない私よりリザリアさんの言っている方が正しいんじゃないか、そう思い始めてしまっている自分があった。
「きっと能力だけじゃなくて性格的にも。ミリアちゃん。会ったばかりの私がこんな事話すのもあれなんだけど冒険者って他にたくさんいるでしょ?」
「えっ……あ、はい」
「なら……なにもコワード君がやる必要ないじゃない? だって、弱いの。まぁ私も今日ミリアちゃんに会ってちょっと驚いちゃったけどね、だってこんなに可愛い女の子が冒険者やってるんだもの」
「っ、いえ!」
「……だけどね、それでも思う。……コワード君はきっと冒険者でいちゃダメなの、他にもっとちゃんとした道があるはず……それに代わりの人がいくらでもいるならそっちの人に任せればいいじゃない」
「いやっ、そん……」
リザリアさんのその言葉に、咄嗟に上げてしまった声、私は椅子から立ち上がり掛け。
「……そんな」
……そして結局、小さく呟いただけで席に戻った。
それは、少しずつ確信が揺らぎ始めている自分と、そして覗き見てしまったリザリアさんの瞳の奥に、先程まで浮かんでいたはずの綺麗な微笑みも楽しそうな笑い顔も消えてしまっていたから。それはどこか悲しそうに伏せた瞳で、その目に滲み出す水滴が見えたような気がして私は押し黙ってしまう。
「……」
静かになった私に、リザリアさんは静かに居住まいを直し私をしっかりと見つめると口を開く。
「コワードくん、この前死に掛けたの」
「……っ」
小さな一言。……しかしその言葉の効果は劇的でバッと身じろいで見返す私に、リザリアさんの口元に形ばかりの笑が浮かんだ。
「やっぱり知ってたんだ。『関係者』って聞いただけで半信半疑だったけど」
フッと微笑んだ口から漏れた言葉に一体どれだけ気持ちがこもっているのか。
……恐らくリザリアさんが今思い描いているのと同じもの私が知ってたという『動かなくなった』コワードさんの姿が瞳の裏に思い浮かぶ。
『コワードさんっ』
「……」
……亀裂の底で必死に呼び掛けた声、壁に反響した間延びした音に、雫を越え流れとなった赤色の道は砂に溶け込むと消えていく。砕けた鎧の腕側、暗い影の内側から覗く赤黒い『中』は……今思い出しただけでも寒気が走る程だ。
「コワード君、よく覚えていないんだって」
一旦飲み込んだ心の内、目の前のリザリアさんは笑みを浮かべている。
「気を失っていたから仕方ないけれど。……だけど私は覚えてる。大きな声で叫ぶ父さんの声。抱えた腕からはぶらーんて、コワード君の腕が下がってた。『近付くなって』言われたけどね私見ちゃったんだ。血の気の失せた青い顔に……私その時思っちゃいけないのに思っちゃった。……きっとコワード君はもう動かない、このまま死んじゃうって」
「……リザリアさん」
「ふふっ、でも笑っちゃうよ。それで何とか持ちこたえたら本人はケロッとしちゃっててろくに覚えてないって言うし。そんなの聞いたって私は……私はね」
「――どうしたらいいか分からないよ」
「……」
まるで、長く溜め込んでいた息をまとめて吐き出したかのような重い言葉。そこで言葉を切るとリザリアさんは目を細め、言い過ぎた事を躊躇うように軽く頭を左右に振るう。
小さく首を振り何かを振り払うような彼女の姿に重なるようにして私の中でも動かなくなった彼の姿が思い浮かんだ。
『コワードさんっ』
「……」
止めようとするシャラクゼルさんの手を払い伸ばす指、いくら呼び掛けて揺り動かしても立ち上がらない体。
『コワード……さん』
血塗れのその姿に掛ける言葉は尻すぼみに消えて行き、最悪の想像だけで頭が一杯になって……それで……
「ミリアちゃん」
「ぁ」
……どこか遠くから聞こえてきたようなリザリアさんの言葉に意識を戻すと、まっすぐに見つめてくる彼女の目と正面から合う。
それは私の心の内側まで見通すような目で、勝手に震える体を抑えて私も見つめ返す。
「ミリアちゃんにお願いがあるの」
「……お願い、ですか?」
「同じ冒険者のミリアちゃんから、ううんそれだけじゃなくて。ミリアちゃんも関係者でしょ? そんなアナタだからコワード君に言って欲しいの」
小さく、息を飲む音。
それが自分のものなのかそれともリザリアさんのものなのか分からず、静かに彼女の口元だけを目で追うようにしているとやがて言葉が聞こえてきた。
「コワード君に冒険者なんてやめ――」
「はい、海鮮スープとパンのセット」
「え?」
……それも全然別の方から。
「あと海鮮スープとパンのセットその2」
続いて聞こえてきた声に驚いて顔を向けると、無表情な顔をした男性店員がすぐ傍に立っていた。彼の手に持つ大き目のトレーから机の上へと、深皿のスープと小さなバスケットとが2つずつ机の上に置かれていき、バスケットの中からは香ばしいパンの香りが鼻をくすぐる。
突然の事に驚いてしまっていたのはどうやら私だけでなく、目の前のリザリアさんも数瞬茫然とした様子をし、やがてハッとして気を取り戻すと笑みを浮かべて男性店員を見上げる。
「ぁ、ありがとう、ラッセルさん」
「いや、仕事だからな」
「……だけど、私達料理の注文なんてした?」
「……物忘れか? ん、んん……『メニュー決まったの? 私とミリアちゃんはこの海鮮スープと焼き立てパンのセットにするね』だろ?」
「随分物覚えいいんですね」
「仕事だからな」
リザリアさんは顔に笑みを浮かべ、対する男性店員は口を結ぶ、だというのにどこかしら「チッ」という舌打ちの音が聞こえた気がし、聞こえてきた方向に顔を向けるとリザリアさんが上品な微笑みのまま口元を手で隠していた。
「……まだ注文は確定してないと思ってましたから、コワードくんもいないですし」
「店長の言い付けでなるべく客を待たせるなってね、あとコワードは時間掛かりそうだった」
「……そうですか」
そこまで話し、ふと店員を見ていた私の視線と彼の視線とが合わさり私を見る。無表情ながらもどこか気遣わしげに私を見つめ口が開かれる。
「何か悩みか?」
「え」
「いや、難しい顔をしてるからな」
「……はい」
「何か知らないが、悩み過ぎない程度にな……あまりこじらせると勝手に相談に乗りたがる人間も現れるからな」
「はい?」
「あっちは悩んでもないのに来たけど……まぁこっちの話しだよ」
そこまで言い店員は空になったトレーを脇に抱えると何かを思い、小さくため息を吐くと腰掛けた私を静かに見下ろす。
「……店に入ってきた時は嬉しそうだった」
「えっ」
「なら、それでいいだろ?」
「ぁ」
少しだけ細めた目に無表情だった顔に少しだけ笑みが宿ったように見え……しかしそれも一瞬の事、店員はそれ以上言葉を続ける事はなく、静かな足音でそのまま席を離れ店奥の厨房へと戻っていく。
「……」
離れ行く黙って背中を見送り、しばらくすると細く息を吐き出す音がリザリアさんから零れる。
「はぁ、いいところで……まぁとにかく温かい間に食べちゃいましょう、さっきまでの話しはもう終わり、ね?」
片目をつぶるウインクにやけに明るい声のリザリアさんは笑みを浮かべている。そこについ先程まで見えていたような憂いるような表情はなく、最初に店に入ってきた時のような整った笑だった。
「……」
――よかった。私はそう思った。
やはり重苦しい空気よりも誰だって明るい方がいい。
「……」
……しかしそう思う反面、どこか胸の中には小さなしこりがあるようで、ポッカリとした空き部分を埋めるように机に並んだ料理からは温かな湯気と食欲を誘う匂いが漂う。
「いや、ダメ」
気分を切り替えて手に取ったスプーンをスープ皿へと落とす前に机に置く。
折角和んだ空気をわざわざ乱すような事をするつもりはなかった。
だけどそれでも伝えないといけない事があるように思う。……頭がよく回る方じゃないと自分で分かっているけれどそれでも精一杯整理して、吸い込んでしまった空気を戻すように、深く呼吸を繰り返すと意を決して再びリザリアさんに向き直る。
「リザリアさん」
「……うん?」
既にバスケットへと指を伸ばし掛けていた彼女は私の呼び掛けによってその動きを止める。
私にはない優雅な微笑に綺麗な格好……それに私よりずっと親しいであろうコワードさんの事。
「聞いて下さい……その……出来ればコワードさんには内緒で」
「え?」
自然と反らしたく自分の瞳を叱咤して無理矢理リザリアさんを見る。言い出す勇気が必要なら私は取り出し方をしっている。まだそれ程長い時間じゃないけれど自分の手首に巻き付けている布地の上で、小さく指を躍らせるとそれだけで頑張ろうって気持ちが沸いてきた。
コワードさんが、冒険者に向いていない。そう思っているリザリアさんに少しでも伝えられるように言葉にしよう。
「私、コワードさんの事――」
……例えそれが、私にとっての独りよがりなコワードさんの一部であったとしても。