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幕間 それぞれの一日 4

「う、んん……いい天気だ」


 空を巡る太陽も半ばを過ぎ、少し穏やかになった日差しを見つめて店主の男は小さく呟く。

 背中を壁へと預け寄り掛かるようにして立つ彼の目に映るのは店内の様子。深い色合いをした木目の床に規則正しく並んだたくさんの椅子や机達、そこに腰掛けるやや出遅れた昼食を取る職人や街の警備兵達を見つめ、彼らの取り留めのない談笑に耳を傾けながら店主自身も小さく笑った。


 『今日何があった』『午後はどうしようか』単純な所で言えば『メシがうまい』。そんな彼らの何の気なしの言葉に耳を傾ける店主だったが、昼飯時のピーク時の疲労が悪かったのか不意に感じる肩の痛みに僅かな溜め息がこぼれる。


「全く……やだね」

 遥か昔は幻想だと思っていたオッサンという領域に、店主の男も片足を突っ込み掛けている。どうしても時々感じてしまう体の重みや消えない疲労感も年を取ってしまったという証なのか。ニヒルに笑って痛みはごまかすが、ごまかし切れない時間という概念はさすがにどうしようもない。


「いいや、なに、これからこれから……まだまだ」


 店主の男は店の中の様子を見つめてそう口にする。


 男は『人好き』だった。頑張る人間に、努力を怠らない人物……例え特に深い考えがなくとも日々を一生懸命に生きている人々は店主にとって好意的であり、そんな自分以外の誰かが店へとやってきてうまそうな顔で食事をしてくれる。……そんな小さな事だけでも男にとっては喜びであり、そういう事を考えている間は時間がどんどん遅く流れていくような気がして「まだまだ頑張ってやるよ」と勇気が湧いてくる。

 片目を伏せて微笑む店主の顔は年相応の渋い笑みであり、言葉の後に続くカラリとした笑顔は喉の奥のぼやきをどこかへ放り投げる。

 二本の足でしっかりと立つ自分の店には誇りがあり、誰かの笑った顔を見ればおちおちと怠けてもいられない。……これで最近気になり始めている大きく出張った腹回りさえなければそれなりに引き締まる場面であったかも知れないが。それもまぁ『味』のひとつよと強引に締めくくると男は揚々と笑うのだった。



 チリンリン


「ん?」


 壁から離れ立ち上がる店主の耳に、涼やかなその鈴の音が聞こえて来たのはそんな時だった。

 甲高い音に混じって響くのは木擦れの重い音。音に視線を向ければ店の入り口扉が僅かに開いており、扉上部に取り付けられていた小さな鈴が来客を告げて揺れていた。

 昼食の時間に出遅れた客がまだ居るのかと、細く息吐いて見つめる店主の視線に目に入ってきた新しい客は予想外の人物で……開かれた扉の空白からそーっと覗き見るような小柄な影と目が合うと、自然と店主の口から笑みが零れた。


「おっ、コワードくんじゃないか、よく来たよく来た!」

「あ……ども」


 ニッカと笑った店主の男に対して、来客である少年は少し苦い笑みを浮かべて笑っている。

 ……この新しく現れた少年。実は店主にとっては最近馴染みとなり始めている客であり、元々は店の仕事の簡単な手伝いをしていた間柄だった。今は何かの怪我により少年の左腕には太い包帯が巻き付けられている為仕事は頼めないが、それでも互いの関係としては今でも良好である。

 特に最近になって自身のオッサン化を感じ始めている店主は先程も述べたように人好きの性格であり。とりわけ最も好む『よく頑張っている若者』である。

 そんな店主の嗜好のカテゴリーにバッチリと含まれている少年は、店主にとっても好意的な人物であり。何かと世話を焼きたくなってしまうのもあるいは年を取ってきた証拠なのかもしれない。


「なんだなんだ今日は昼飯を食い損ねたか? ハハハハ」

「え、ああ、まぁ……席空いてます?」

「おう! バリバリ空いてるぞ」

「…………ソウデスカ」


 気さくに対応を続ける店主と異なり、少年は余り嬉しそうな態度を示さない。

 『ソウデスカ』と口先の呟きで漏らした後は乾き切った半笑いで笑うだけで、まるで席が空いていなかったらよかったと言うように。

 やや肩を落としながら店の中へと入って来る少年に店主は最初怪訝なモノを感じていたが、そんな少年の後に入って来る、別の客を目にして抱いた疑問は霧散する。


「お? なんだ。リザリアちゃんも一緒か」

「ふふふ」


 時間外れの二人目の来客にこれまた底抜けの笑みで迎える店主。目の前で穏やかな笑みを浮かべているこの子も少年と同様に、普段は宿場の中で働いていて外へと出掛ける事はあまりないが甲斐甲斐しく勤労している姿は店主も知っている為、こちらも友好的だった。……しかし、今日はどういう事なのかやや余所行きらしい綺麗な格好で身を固めた姿を数瞬見つめ……やがて「ハッハーン」といやらしい笑みを浮かべながら合点が付くと先を行く少年の後ろ姿を見つめる。


「なんだなんだ? 今日はもしかして2人でお食事だったか? いやそりゃ悪い事をしたな、オレとしたことがつい邪魔をしちま――うっ」

「あっ、スイマセン」


 店入口を陣取るように立っていた店主の背中に走る軽い衝撃、続いて聞こえてくるやや舌足らずな謝罪の声に振り返ると、『三人目の』来客の姿があった。


「ごめんなさい、余り前を見てなくって」

「お、おう……いや別に」

「本当にスイマセン……あっ」

 活発そうな見た目の背の低い少女に店主が応えていると、小さく頭を下げた彼女は足早に走りだし店の中へと入る。少し先を歩いていたリザリアを軽く追い越し更に先へ、先頭を歩いている少年の横へとピタリと並ぶと明るい笑みを浮かべて彼を見つめた。


「コワードさん、このお店よく来るんです? あっ、どこ座る?」

「えっ……いや、どこでも」

「じゃあ、あそこ! あの席にしましょう! 外から見た時に通路に綺麗な花が咲いていて、きっとあの席に座れば風も気持ちがいいですよっ」

「あ……うん」



「なん……だと……」



 店主がそのまま固まって見送っていると少女は少年の包帯に固められた腕を支え、先導するようにして先に歩き出す。


「ふふふふ」


「……」

 そんな2人の後に続き、静かな笑みを浮かべたリザリアが付いて行く。



「バ、カな……」


「あ! 店長、いつまでもさぼってるんですか、ってか仕事」


「そんな……早すぎる」


「店長?」


 いつの間にか近付いて居た従業員の青年のたしなめる声が聞こえるが、店主の男はその言葉に応えずにしばらくの間その場で固まったままでいた。




―――――――――。





「……」

「私、こういうお店あまり来た事ないんです」

 そう言って朗らかな笑みを……まるで春の陽気を思わせる透き通った笑みを浮かべてアンナ・ミリアは椅子に腰掛けた。


「……」

「へー、そうなの、何か意外ね」

 そう言ってにこやかな笑みを……まるで蒸し暑い夏の日に冷えた包丁を背中に押し付けられた怖気を感じる微笑みを浮かべてリザリア・ベルツも椅子に腰掛けた。


「よかったらオススメとか教えてもらえます?」

「もちろん」


「……は、ははは」

 四人掛け用の四角い机、向い側で隣り合いながら座り談笑する2人を見つめ……やや迷いながらもミリアの前の席へと座ろうと腰を下ろし……。


「コワードくんッ!」

「ヒっ」

「……も、よくこの店に来るから詳しいんよ」

「え、そうなの? よかったー」


「……」

 ……腰を下ろそうとしていた恰好で空中で停止するとそのまま横へと向けて並行移動。隣の椅子へと改めて座り直すとチラリとリザリアの顔を盗み見る……何か知る度にどんどん色を失くしていくような薄い笑い微笑みに、慌ててミリアへと視線を移した。


「まっ、よく来ると言うかまだ3回くらい」

「3回? んー……まぁ3回ならよく来ると言えない事もない?」

「そう、すね」


 『ハハハ』と義務的に漏らした笑い声のなんとビターな事か。

 軋むような胃の痛みに耐えている自分に対し何が楽しいのか終始ニコニコ顔で笑み浮かべているミリアの姿……リザリアは……もう直視すら怖い為視線は向けられないが「ふふふふふ」と流れる微笑が聞こえてくる為きっと微笑んでいることだろう。


「……はぁ」

 席の反対側に座る2人の人物から意図的に目をそらし、机の上のメニュー表示へと視線を固定させると心の奥底で深く、自問する。


 ――なんでこんな事になったんだろう、と。





 始まりはそう、あの店の中での出来事だ。


『コワードさん?』

『え?』


 すぐ傍で聞こえて来た多分に疑問詞を含んだ短い言葉。

 聞こえた声に従って振り返るとそこにはアンナ・ミリア……という名前だった『はず』の冒険者の少女が立っていた。

 『はず』という微妙な言い回しも若干だが記憶がうろ覚えになり掛けている事が原因であり、時間的にはまだまだ最近だったと言えるクエストの途中で出くわした同じ冒険者だったが……だからといってその後には何にも接点はない。本当に単にでくわしたというだけの事であった上に何よりクエスト最後には自分が意識なく倒れてしまったせいもありどんな別れ方をしたのかも記憶にない。

 後で意識が戻った頃にディガーの言葉により二人の冒険者が無事だった事は聞かされ……がむしゃらに頑張った自分の行動がただの無駄な努力じゃなかった事がわかって嬉しかった。


 ……けれど、それで終わり、そもそもただ出くわしただけというその場限りの関係であり、一件落着と片付いた後には互いが違うギルドであるという深い溝しか残されていない……他にも特別に接点を持てない理由はあったが長くなるので今は割愛としておく。


『っ、コワードさん!』


 強い驚きに虚を突かれていたのは多分ミリアの方も同じだったのだろう。――なんだあの時の冒険者か、久しぶり――という簡単な感想しか持っていなかった自分とは異なり正面から向かい合った少女の瞳はその瞬間に上下へと大きく見開かれ、手にした何かの紙袋が彼女の手から零れ落ちる。……正確にはミリア自身が投げ出したのだろう。

 短く宙を舞いパサリと地面に接触する紙袋。驚きからの回復に冷静な色が戻り始めた少女の瞳はまっすぐに自分を見つめ、次の瞬間には強く床を蹴ると自分に向かって駆け出して来る。


『コワードさんっ』

 ……意外に早い。

 いや、よく動けなかった少女の記憶しかなかったので反応は遅れたが、驚きの足の早さで互いの距離が縮められると自分の肩と胸横へと両方に伸ばされる細い腕。

 深く包み込むように、回された少女の腕が自分の背中の後ろで重なり合うのを感じると、自分の口からは理解の追いつかない素っ頓狂な呟きだけが漏れる。


『へ?』

 余りの事だったから仕方ないとはいえやや間の抜けた呟き。

『は?』

 そしてほぼ同時に別の場所から、人込みから顔を出したリザリアからも異口同音である短い呟きが漏れた。


『は? はっ?』

『よかった……っ、よかった』

『……えー』

『コワードく――っ』


 口を開くリザリアが何かを言おうとした瞬間、店内で爆発したような黄色い声が溢れ返る。予想外の事で失念はしていたが『ここ』は女性客のやたらと多い店の中。近くに立っていた他の客から殺到する強い視線にキャーキャーと忙しなく漏れる甲高い声。阿鼻叫喚。

 元からこの場に似合わずやや浮ついていた感じのあった自分に、好奇心という名の目線が降り注ぎ、未だ胸の前に居る事態の原因に違いない少女へと向かって離すように腕を伸ばす。


『なんだっいきな――』

『無事、無事だったんで……よかった』

『……え?』


 伸ばした腕が掴むのは自分よりも若干小柄な少女の細い肩。捕まえた腕でそのまま剥ぎ取ろうかと思っていたが、その体が小さく震えている事を感じて気持ちが戸惑う。俯いて自分の胸に頭を押し付けているミリアの顔は見えないが、言葉の中に若干の湿り気が混じっているようで……強く突き放す事が出来なく、結局肩の上へと片手を置いただけに留まった。


 キャー

 キャー

 ウハー


『うっ』


 下手に手を出したのが災いしたのか周囲で響く黄色い声は一層勢いを増し……どうにかしたいのは間違いないが、どうしたらいいか分からない。何より周囲から殺到する視線という視線に、何だか胃が……。


『コワードくんっ!』


 ……人込みの中から一歩走り出たリザリアが自分とミリアとの肩とを両方掴む。瞬間的だがその瞬間に黄色い声が更に1オクターブ高くなり黄色い悲鳴へと変化して。やや強引ながらもリザリアに掴まれた肩が引っ張られる。自分もミリアも同様に引かれたようで、胸から離れる瞬間見つめたミリアの顔のと目が合い、瞳が潤んでいるその泣き顔に息が詰まるような思いがした。


 颯爽と走り出すリザリアに引き連れられ3人一丸となって店の出入口に向かい。


『コワードくん? ちゃんと説明をして』

『ハ、イ』


 店を出る瞬間、これ以上ない位に顔を寄せて微笑むリザリアに自分はただ従順に『ハイ』と頷く事しか出来なかった。




「……はぁ」

 そして、今に至る。


「どうかしたんですかコワードさん? ハッ、まだ具合が優れない!?」

「あ、いや、そん――」

「全然、大丈夫! ね?」

「……デス」

「ううん? それならいいんですけど」


 ……自分が尋ねられたはずなのに何故か代わりになって答えるリザリア……『貴方はいつからコワードになったんですか』と、そう聞いてやりたい気持ちは湧くが……これ以上に機嫌を損ねると後は恐ろしい未来しか見えてきそうにない為に黙って見過ごした。



『とりあえず落ち着いて食事しましょう』



 結晶石の店を出て、そううまく切り出してくれたリザリアには感謝もし切れない思いはあるが……その事が逆に逃げ場のない袋小路へと追い込まれたような、妙に寒い錯覚を抱かせる。

「……」

 ここまで来る道中で密かにリザリアには説明をした為に分かっていると思うのだが……このアンナ・ミリアという冒険者に再開した事は、必ずしも喜ばしい事にはならない。

 あくまで彼女はカヘルの『正式ギルド』所属であり、自分はディガー・ベルツの運営するなんちゃって私設ギルドの所属である。……登録時に入念にされた説明に、正式ギルドとのブッキングは避ける事と言われている。

 そもそもそういう妙な事態を避ける為にわざわざ偽名すら強要され……その内容がどこまで許されるのか、当の本人であるディガーにしか分からない。しかも本人不在で確かめようもない。


 ……それでもなんだかんだで別に関わってもいいわよそのくらい、と明るい顔で許してくれるならまだいいが……下手な事をして。


『え、冒険者にあった、しかもバラしちゃった? そう、それじゃあ残念だけどコワードちゃんともこれでお別れ。またギルドも追放ね』


「……」


 ……いや無いだろうとは思っているが……絶対に無いという自信が湧いてこない。それどころか実に容易に想像出来るディガーの姿に、この小さな脅威に対する正しい対処方は見つからず……このまま、とりあえず場繋ぎの会話だけでひたすら続けて言いくるめるか……それとも何かしら適当な言い訳を考えてこの場からの逃走するか、この二つくらいしか今は……



「――くん、コワードくん?」

「っ、へっ? あ、はい?」

「……話し、聞いてた? メニュー決まったの? 私とミリアちゃんはこの海鮮スープと焼き立てパンのセットにするね」

「……ああ」


 半眼で呆れたように見つめて来るリザリアに慌ててメニューを手に取ると中を開いて注文する料理を見繕う。……というかミリア『ちゃん』てなんだ。いつの間にそんなに仲良くなっていたのか。人の気持ちなんて知らずに涼しい顔で微笑んでいるリザリアに今は嫉妬めいた強い激情を感じている。

 そのあり余る社交性、出来れば分けてもらいたい。


「えっと、何かオススメは……」

「オススメ、そうだな。今日は野山羊のミルクのチーズリゾットなんてうまいと思う」

「は? ううわっ」


 突然聞こえた低い言葉に死角から突如として現れた高い影。

 影はガッシリとした体格でよく日に焼けた、この店の従業員である青年の姿。全く気配もなく一瞬で現れた姿にはギョッとしたが、目が合うと浮かべてくれる軽い笑みにビシリと立てた親指を深く頷いて見せた。


「よおコワード」

「はっ、ど、どうもっ……いや、心臓に悪」

「で、急で悪いんだが」


 ……いや、何が『で』なのか。突然現れた青年はマイペースに立てた親指をそのままスライドさせて店の奥を指し示すとクイクイッと誘うように小刻みに動かす。


「店長が、話しがあるって」

「店主が? いやあの、今それどころじゃ……」


 ……そう言い掛けた言葉の途中で、今日一番に違いない早さで頭が回転する、時間にして一秒にも満たない熟考思考の果てに……辿り着いた結論は案外と早く出た。


「行きましょう!」

「……え、コワードさん?」


 大きな声で宣言し、そのままの勢いで椅子から立ち上がる。

 見つめてくるミリアの口から何かの質問が飛び出そうとするのを感知したが、それよりも先に、その言葉を封殺する為に矢継早に言葉が出る。


「いやここの店主とは顔馴染みでよく仕事とかもらってるから親しいんだよいやホント、入り口でさっき会ったあの恰幅の良い人がそれでね! いやいやホント、なんだろうこんな時にでも仕方ないな」

「……ああいやコワード、別にそんなに急がなく」

「ようし今行きましょう!」


 ミリアどころか青年の言葉すら遮って店の奥の厨房へと向けて歩き出す。少しきょとんとして見てくるミリアに心の中だけで謝罪を繰り返し、リザリアは……特に反論の声がなかっただけでよしとする。



「ハハ、なんだろうなー」

 この時、零れた自身の笑みは、今日初めて浮かべた気がする心の底から笑みだった。





「……た、助かった」

 颯爽と店内を横切り、怪我も忘れる程に足早に進んだ店の奥。厨房と店の中とを分ける少しだけ高くなった段差をまたぐと口から張り詰めていたものが削ぎ落ちるように声は漏れた。

 木目であった店内が終わり厨房になると床は石造りに代わり、室内というよりは街の通路を思わせる整然とされた水はけのよい床だった。薄く差し込む外の光に浮かび上がるのは銀色に鋼色を主食とした調理器具の数々。よく研がれた光り輝くナイフが壁に掛けられて並んでおり、一般家庭では中々お目に掛かれないような巨大な鍋が鎮座している。


 火を掛けられた釜戸からは暖かな湯気と共に鼻孔をくすぐる香ばしい匂いが漂い、その前方には今の自分にとっては救世主に違いない店主の男が背中を向けた状態で立っていた。物も言わぬやけに広い背中が今日だけは偉大に輝いて見える。


「店長ー」

「ああ」

「っと……あの、何ですか?」

 

 少しだけ浮かれた気分で居てしまったが確か何か用があるといって呼び出されたはず。

 しかし頷いた声だけで何も語らない店主は、じっくりとゆっくりと目の前の火に掛けられた鍋をかき混ぜ続け。……その様子に何かおかしなものを感じて首を傾げる。


「ああ……何かな、用事があるって訳じゃない、コワードくん、困ってたんだろ?」

「え」


 厳かに流れる声は非常に威厳を孕んだ言葉。ただのその一言だけでまるで何もかもを見透かされているように感じて戦慄が走る。


「え、い、いやっ」

「いいんだ……若い内はな、仕方ないって言葉がある……この、スープのようにな。初めは海の幸の青臭い香りが残っているがひたすらひたすら、時間を掛けて煮込む続ける事によって段々と馴染んでくるんだ」

「…………は?」


 ……何かいいことを言っている雰囲気は感じるがうまく理解が出来なかった。やはり店主の様子もどこかおかしい。


「コワードくん、君も青い海の幸と同じだ。まだ、どうしていいか分からないんだろ?」

「え? はぁ」

「本当の、自分の気持ちに気付かず、まるで夢に夢を見ているようなものだ」

「ハ?」

「オレも……若い頃はそうだった」

「……あの、これどういう」


 店主を諦めて、横に立つ青年に振り向くが既にそこに彼の姿は無く、物静かに淡々と店の中へと戻って行くその後ろ姿だけが見えた。


「悩んでいるんだなっ! コワードくん!」


 強い言葉と共に振り返った店主を見つめ、救世主だと思っていたはずのその姿が、実は全然違うものだったと瞬時に悟ってしまう。


「そう、恋の悩みに!」

「……」


 ――これ、関わっちゃいけないヤツだ。




―――――――――――。




「逃げたわね」

「え?」

「ううん、何でも」


 やや小走り気味に店の奥へと向かって行ったコワードくんを見送り私は心の中だけで小さな溜息を吐く。……いやまさかあの場であってああも颯爽と立ち去れるとは思わなかったけど……多分あの様子なら当分は戻って来ないんだろう。


「ふふふ」

「うん?」


 ……好都合だった。


「ねえミリアちゃん、少し聞きたい事があるの」

「あ、はい、何ですか?」


 微笑みを浮かべて、冒険者……だという女の子を見つめると彼女は頭に疑問符を浮かべ首を傾げている。

 突如として現れた私の勧誘計画の障害に違いない『冒険者としての同僚』。そんな彼女に向かって私は取り繕った笑みを浮かべると口を開く。


「コワードくんて、冒険者には向かないと思わない?」



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