23 鍵の無い施錠
目の前で起こっている事にオルイアも、私自身もただ呆然と見送る事しか出来なかった。天を突くモンスターの巨体が音を立てて傾き黒い甲殻は岩肌をガリガリと削り崩れ落ちて行く。空に向かって一度高く飛び上がる青い血潮は自然の雨のように降り注ぎ、粘着性の高い溶液が頬に触れた感触で私は意識を取り戻す。
「ハ……ツっ!」
吐き出した吐息に座した砂の上から立ち上がると未だ空を見上げ固まっているオルイアの元へ、前へと差し出す腕でその長身を押すと地面へと向けて突き飛ばす。
「クっ!?」
オルイアの口から漏れた小さな息遣いに身の丈に比べて軽い感触で白色のコート姿は地面の上を転がる。……無防備なその姿に更に追い立てるよりも先に私は顔を上げ倒れ行くモンスターの姿を目で追った。
「コワード君!」
壁と地面の合間に残響を持って響く声。モンスターの巨体が地面に倒れる音とが重なり衝撃にめくれた砂塵は高い砂煙となって空に舞う。吹き出す青い血潮は砂と混じり合って黒く変色し円状に大きく広がって行く染みを視界の隅に収めながら私は砂煙の中心へと向かって走り出した。
「っ、ぐ」
……見開いた私の瞳に空気中に蔓延した砂は痛い。呼気に乗じて口の中に入り込もうとする煙のせいで口内はザラザラとし、今すぐに吐き出したい気持ちを抑えながら首を回して周囲を見渡す。砂のベールに奥から響いてくるのは立て続けのコポコポコポという低い水音に微かに動く摩擦音。
それが果たしてモンスターの『最後』の悲鳴か、ただの痙攣した動きなのかは、今の私には分からなかった。
「……」
駆ける足は止めず、静かに自身の胸の上へと手を押し当てる。
「ふ、ははっ」
胸の奥が熱を持ったかのように熱かった。
進行を阻む砂塵とは裏腹に私の顔には笑みが浮かんでいる。
――モンスターを倒したのはあの少年に違いがない。
――コワードと名乗ったあの少年に間違いがない!
……つい先程まで胸に巣食っていた不安と諦めはどこに行ったのか、一転して信じられない歓喜へと変わった胸の底に、何の確証が無くとも疑う事を知らない私は駆け続けた。きっとこの先で待つだろう堂々とした勝ち誇った笑み、異形の弓を抱えた少年の姿を想像し……そんな彼に掛けるべき讃辞の言葉を考える事で頭は一杯だった。
「ゥ」
ヒュウゥ
一瞬、強く風が吹いた。
亀裂の底を走る横風に晒され砂のベールは徐々に剥されて行く、空気中の浮遊物が取り除かれると目に写る景色も鮮明になる。
「……」
邪魔するものを無くした空気の中で小さく響く透き通る声が聞こえて来たのはそんな時だった。まるで羽虫を思わせるような小さな泣き声は風に乗って私の耳まで届いて来る。
――コワ――さん――
――ド――ん――
「ミリア?」
聞こえて来た耳慣れた擦れ声に反応して私は小さく呟いた。
――コワード、さんっ――
……遠くから聞こえて来た声は、確かにミリアのものだった。
何故?こんな所に?小さな疑問も少しだけ頭をもたげたが、そんな事よりもその強く胸を掻き乱すような泣き声に私は驚き目を向ける。低い、しゃっくり混じりの声の出元は少しだけ離れた地面の上で。そこに並んで横になっているミリアと『少年』との姿が見え、私はその場で凍り付いたように固まってしまった。
「コワード、君?」
ミリアは地面の上に両膝を付いている。上半身を砂の上に投げ出しまるで地面の上でうつ伏せに転がっているようだった。しかし、完全に倒れている訳でもない。少しだけ浮かせた身体は全身で寄り掛かってしまわないように気を配り、もどかしく動く手の平に先は砂の上を掻いている。ミリアの腕の先には盛り上がった土が見え、石片と細かい粒との堆積物の中から一本の『腕』が伸びている。
「ッ」
私の背筋を、冷たい悪寒が駆けた。
再び走り出した私は力を振り絞って地面を踏み、視線の先の姿に目を凝らす。ミリアの傍で半分以上が砂に埋もれているのは間違いなく『少年』だ。
勝ち誇ってなどいない。ピクリとも動かない姿は遠目でも砂まみれでひどく汚れていて……堂々と?笑って?そんなものは私の独りよがりな妄想だとあざ笑う様に。砂の中から立ち上がろうともしない少年の姿は私の思い描いていたものよりも圧倒的に悪質で、そして凄惨なものだった。
投げ出された少年の左腕にかつて彼の身に付けていただろう防具の面影は既に無く、辛うじて残っている砕けた鉄板の寄せ集めに、二の腕の部分には大きく穿たれた穴が開いている。肘から肩に掛けては蜘蛛の巣状に広がるヒビが隙間なく走り。肘から先の部分には指先までべったりと付いた青い粘液で濡れている。……青の中に混じり合った小さな赤は少年自身のものなのか、汚れた血の跡にどこの怪我から流れ出たものかは遠目で分からなかった。
土に埋もれた少年へと腕を伸ばすミリアの指先もまたいくつもの裂傷が走っている。細くて赤い線の様な傷に溢れ出た雫は彼女の爪を伝わり少年の胸へと向かって落ち、体に触れるとポツリと跳ねた。
「ミリアッ!」
大きく上げた響かせた声すら虚しく、感情のタガも限界へと達した。どれだけ必死に走ろうとしても進む足取りはもどかしく、ようやく手を伸ばせば届く位置まで辿り着けば、傷も構わずに砂を掻こうとしているミリアの腕を引き上げて顔を近付ける。
「……ぁ」
漏れ出る小さな呟きに少女の砂を掻く動作は止まる。少しずつ上がっていくミリアの顔が私の視線と正面から絡み合うと、まるで焦点の合っていなかったような彼女の瞳は数度瞬き、少しずつ輝きを取り戻していった。
戻る目の輝きに代わりとなって、今度は決壊を引き起こしたように溢れ出てくる大粒の涙。瞳の奥から溢れる滴も構わずに弱々しい指先が私の胸を上から叩く。
「シャラ……シャラさっ……コワっ、コワ、さんっ、死んじゃ、死んじゃ……っ」
「ツっ、ミリアはいいから、私が代わる!コワード君?ねえ、コワード君っ!?」
……ミリアの言葉を最後まで言わせはしなかった。
私は少年の肩へと腕を伸ばすと前後に向かって大きく揺らす。掛ける声も強く喉を張り上げたが少年から返って来る反応は全くといって言い程に無かった。焦燥に外へと出ようとする舌打ちを必死に飲み込み、座り込んだミリアと立ち位置を入れ替えるように地面の上へと座り込む。
「うッ」
近付いて改めて見下ろした少年の姿に口から小さな呻きは漏れたが、目を反らす事は出来ない。隣で窺うようにして見ているミリアの、これ以上のない悲痛に沈んだ表情に私は意識を強くすると少年の姿の全体を見渡す。
「……」
酷いものだ。モンスターの噴出する血を全身で浴びたのか彼の身体中は青い溶液に染まり粘着性の液体に張り付いた砂が全身に纏わり付く。頭と左腕、そして胸だけを地面から出した状態に、固く閉じられた両の瞼は再び動き出す気配すらも見せなかった。
細かい裂傷は全身にあるが特に傷が酷いのは左腕。砕けた装備に隠れて直視は防がれているが穿たれた鉄色の奥では真っ赤な血が揺れている。
すぐ傍でしゃくり上げるミリアの嗚咽。伸ばした指先に少年を乱暴に動かしてしまう事を恐れ自分自身を落ち着ける。……先ずはまだ少年に被っている残りの砂を横へとどかそうと思った。左腕の他にもどこか傷の深い所があるのかもしれない。
「……ん?」
左腕とは反対の少年の右側部分を慎重に掘り返して行けば手の先に当たる何か硬い感触、腕に引っ掛かった重さに違和感を感じて細心の注意で周囲を払っていく。横へと払われていった下から顔を出したのは少年の武器である異形の弓。少年と同じく青い血と砂で汚れ、既に力が入っているとは思えないのに固く閉じられた彼の指先はその持ち手部分を今でもしっかりと握り締めていた。
「……ありえない」
「ッ」
残った少年の下半身を砂から引き抜こうと腕を伸ばすとその直後、背後から響いて来た抑揚のない声によって私の動きは止まった。
「……く」
息を飲む。ゆっくりとした動きで振り返っていけば砂の上で揺れる汚れた白色のコートが見えた。地面へと向け俯いた顔は暗い影に覆われて表情は窺えず、上下に荒く動く肩に手の先で握った緑色の短剣が弱い陽光を吸い込んで鈍く輝いていた。
「オルイアッ」
声を上げ私は立ち上がると剣を取り構えた。膨れ上がる警戒心で少年とミリアの姿を背後に隠すように前へと踏み出し。
「――――」
この時、一瞬だけ。……地面の上の少年がピクリと動いて見えたような気がした。
―――――――――。
「くっ」
“有り得ない”
“有り得るはずがなかった”
「ハァ」
『嘘吐き』の男は荒い息を吐き、痛む横腹を上から抑える。治療を施す時間などなかった。ジクジクとする痛さに外へと流れ出した血は既に固まり指先が触れただけでパラパラとした固形の粉が地面に落ちる。明確で、それでいて気分のよくない痛みに……それでもまだ『理解』の及ぶ現実であり許せる範囲のものであった。
「ぐ……ク、フ」
鼓動が激しい。頭は混乱していり。……しかし、その事を『嘘吐き』である男は悟らせる訳には行かずに、ただ痛みに『だけ』顔をしかめている振りをして、『嘘』の笑みを頬に張り付ける。
「――ハ」
出来た。まだ笑えた。
その事に少しだけ自信を取り戻すと男は薄く目を細めた。頭は混乱し、信じられない事は目の前で起こった。理解は出来ない。偽ってもカバーはしきれない。その混乱は男にとっては『怯え』にも近い感情で、認め難い気持ちを胸の奥底へと強引にしまい込みただ実態の無い空虚な笑みだけを浮かべる。
「ハッ……いきなり、弾き飛ばすなんて、ひどいですね。それに、こんな……こんな事、ハ……おかし……おかしいっ!」
男が、本当に言いたい事はそんな事ではなかった。
おかしいと言っても有り得ないと言っても、在り得る事ではあるのだ。例えモンスターといっても完全無欠な存在ではない、命があれば壊れる可能性だってある。しかしそれを……それを行ったのが“アレ”であるというのが認めたくない程にいけない。
「くッ」
男は、顔を上げる。視線の先に立つのはこちらを睨んでいる女剣士。既に構えた剣に背の後ろに隠しているのは何故ここに居るのか分からない小さい方の女の冒険者……そして『死体』。
「ハハ……」
そう、死体だ。
荒れようとする心は次第に落ち着いていき、男は自身にとって有益な材料を必死で掻き集めて口端を更に吊り上げる。見せ付ける笑みに手の中で短剣に添えた指先は左右に揺れ、刃の切っ先を剣士へと向けて突き付けると口を開いた。
「一体、どんな手品を使いましたか。変ですね……冒険者だと思っていたのに呪い師でしたか。ふ、くくく……この、モンスターが、一体どれだけ貴重な存在か貴方に分かりますか?そこらのね、有象無象とは違うんです……それを……それを、こんなガキッ!……ハハ、おかしい!傑作です、こんな『割の合わない』」
男の肩は言葉と共に震えた。女剣士の睨み付ける顔は更に厳しく強くなり。瞳の奥から射抜くように燃え広がる強い怒りの炎を感じて『嘘吐き』は更に笑みを強める。……それはあるいは、オルイアにとっては幸運な事だったかも知れない。強く敵対心を向けられる事により考えたくない事から目を反らす事が出来た。
「ハッ、アハ、ハハハハハ!」
余裕を『真似た』『偽物の』笑みが『乾いた』笑い声を『作り上げる』。
「そう、怒らないでもらいたいですね。腹を立てるべきなのはむしろ私……そう、怒りたいのは私の方なんですよ!?貴方だってびっくりしたじゃないですか驚いたですよね、それはこれが有り得ない事だからです!……ええ、ええ、そうでしょう!だから、おかしいのは私でも貴方でもない、そのガキが……っ!?い、いや違う、そうじゃ……ソレがそんな特別であるはずっ……どんな、偶然に助けられました。どうしてソレがセンティスと相討ち?そんな出来損ないの死体一個では価値が合わない」
「っ」
「おかしい、おかしいっ、おかしい!頭がイカれてますよ貴方!釣り合わないですよ、そんなの変だ!そんな臆病者の雑魚の命程度で相応しい価値があるはずない、これはこちらの一方的な大損です!たかが死んだぐらいでなんなんですかっ!」
「オルイアッ」
甲高く叫んだ女剣士の声に突き出した剣を構えたままオルイアに向かって走り出す。
「フン」
シャラクゼルの向かってくる姿に男は小さくだけ息を吐き、風に唸る刃が迫るより先に手の中の短剣を宙へと放り『投擲』した。
「っ」
……短剣を投げはしたが元々飛び道具として考え出された武器でもない。両刃の長剣に比べれば重量そのものは軽かったがそれでも鈍く空気を引き裂く抵抗と緩やかな放物線は剣士の命を刈り取るには弱過ぎて見えた。軽く身を捻れば避けられそうなその刃に、しかしシャラクゼルは見開いた目に必死な様子で地面へと叩き付けて落とす。
サクリと鳴った小さな音をに砂へと没した緑刃の短剣。男は口から漏らす哄笑を強め、反対に女剣士は顔を歪ませ、近寄ろうとしていた足を止め後ろへと下がった。背後へと隠す1人と1つの姿に改めて剣の柄を強く握り、引き締まった音が男の耳にも小さく流れ着く。
「ふふ、どうしたんですか?来ないんですか?」
含み笑いにコートの下から新たな短剣の柄を握り引き抜くとオルイアは剣士を、そして背後の『荷物達』との距離を測るようにして横へと歩き出す。
「大変ですね、動けない人間を庇いますか……いや、実に恰好のいい」
「ッ」
「そして、都合のいい」
オルイアは笑う。
……予想外の事ばかりが起きていたが男にはまだ勝算が残っていた。都合よく一箇所に集まってくれた投擲の『的』のおかげでおかしな正義感を振りまく女剣士は動けない。……密かにコートの内側を探れば薬瓶と短剣の詰まっていたスペースにも大分空きが目立ち、威嚇に使える本数も既に限られている。
しかし、それでも残った相手はもうこれで1人なのだ。
自分を納得させるだけの力がある推論にオルイアは心の中でしきりに頷くと目を細める。
「ふふ……貴方もそんな『どうせ助かりはしない』荷物なんて捨てて掛かってくればいいのに。だから冒険者はダメなんです、都合のいい時に都合の良い言葉ばかり。後先考えない獣の戯言。ハハハ、背後の小さなお嬢さんの心の声がまるで聞こえて来るようです『私の事はいいんです、だからシャラクゼルは』ってね」
「黙れ」
「綺麗事じゃ行きませんよ、何事も犠牲はつきものです。さあ目を瞑って遠慮なさらず、我が身可愛さで私に襲い掛かりなさい。その後ろの人間達に私の短剣が突き刺されば、あるいは貴方は無事で済むかも……」
「黙れっ!」
「……愚か」
オルイアは笑う。
言えば言う程、目の前の女は襲い掛かっては来れない事を理解していた。心苦しそうに視線を落とした『荷物』の顔は非常に気に食わなかったが、女剣士の怒りに震える姿は見ていて実に滑稽だった。
だから、そうなのだ。1つの事だけをずっと信じ続けるというのは難しく、どれだけ信じた気になっていても綻びは必ず生まれる。信頼と信頼の合間に生まれるちょっとだけの疑惑に人は簡単に嘘を信じ込む。
「ふふ」
女剣士は、背後の冒険者を盾に狙われると思っている。しかし、嘘吐きの男にとって狙っているのは一番危険性の高い彼女だけだった。シャラクゼルさえ黙らせれば後は簡単に始末が付くと思っていたのだ。
「ふふ、分かりました、分かりましたよ。その姿に実に心打たれました……だから、どうですぁ?簡単な賭けをしましょう」
笑い、構えた短剣を見せ付ける様にしてオルイアは前へ出す。
「後三回。私の投擲を防ぎ切ったら貴方の勝ちです」
目に見えてナイフを警戒している剣士を引き付けて手の中の刃を指の中で回す。
「もし貴方がしっかりと防ぎ切れでもしたら」
半身を開いた状態で男は後ろ手に剣士から見えない位置からコートの裏側を探った。伸ばす彼の指先が滑り止めを施し隠した短剣の柄を握り締める……つい、強く笑い出してしまいそうになった顔を努めて神妙な顔で保つ事を意識した。
「そうしたらこの場で手打ちとして和睦をしましょう、私も疲れましたしね。……もし、防げたらですけど」
「……」
オルイアは笑った。
そんな事をする訳がないと笑った。
……後は『見せ』の軽い投擲に必死に食い下がろうとする女剣士の隙を付いて一近付き肌に刃を突き立てれば終わる、実に簡単な事だ。例えどんなに小さな傷であっても刃先の毒さえ入り込めば形勢が良くなる事を確信していた。
もし、それでも仕留めきれなければ『騙そう』。また何かしらして言い訳を並べて時間を稼げば毒も回る事だろう。その後にゆっくりとトドメを刺してもいい。今すぐ動きを止めて治療を始めようとするならその場で畳み掛けても構わない。
「でわ、そういう事で、まずは最初の一投です」
軽く、なるべくふざけた感じで言いながら剣士を煽る。……所詮は獣の類と見下し、現に見つめて来る真剣な瞳に吹き出してしまう事こそ堪えるのが大変だった。
二投目など無い。そう言ってしまいたいのを我慢し男は腕を振り上げる。
内側から沸々と沸き上がってくる思いに、向こうからは襲い掛か来ないという安心感。オルイアの心の中にはようやく終わらせられるという、そんな希望の光しか見えていなかった。
“嘘吐き”の男は気付かない。そしてシャラクゼルもまたその言葉の真意を聞き逃し気付かなかった。……男の言葉の合間合間に含まれていた甘い願望、本当は目を向けて考えたくない『まさか』という可能性を頭の隅へと追いやり、形だけの笑みは女の先の荷物を見る。
「な……」
見つめ……そして固まった。わざわざと考えずにいたはずなのに見えてしまったのだ。悔しげに歪んでいたはずの小さな方の女冒険者の瞳が大きく見開き、その下で『砂の塊』が動いた。
カシャリ
「っ!?」
『音』が、響いた。
“ソレ”とオルイアは既に三度対峙していた。
初めて対峙した時はなんて情けない奴だと笑いを誘われたのをよく覚えている。
二度目に対峙した時もやはり弱々しい印象しかなかった。聞いて来たような薄い正義感で身を隠し、その本当の姿は自分の事ばかりを考える臆病者に過ぎない。
三度目で、急に変わった。『嘘吐き』のオルイアを騙して不意打ちをしたのだ。その事で怒りに燃え、危険度の高い剣士よりもわざわざ先に冒険者の出来損ないをモンスターの相手させる事を優先し、成功した。
……成功した、はずだったのだ。
「ァ……」
だから、『四度目』なんてあるはずがなかった。
「は、アァ!?」
大きく声を響かせてオルイアは『射線』から逃れ後ろへと飛び退いた。
動くな、と脅す言葉は今度は無い。純粋に混乱する頭、信じられないものを見て視線は剣士の背ろで止まった。
土の上から上がる右腕、『クロスボウ』の先端がこちらを見ている。
矢の装填はされていない、危険はない……いや、そんなものは些細な問題だ。なんで『死人』が動くんだ。
「ア」
この瞬間。男の淡い信頼が完全に崩れ落ちた。相討ちですらない。まさか、アレがモンスターに、勝ったのだ。
信じられないと、そう思う心と同時に背筋を嫌なものが駆け抜ける。
「グっ!」
後ろへと回していたオルイアの指先は短剣の柄から離れ。下した判断は実に迅速なものだった。
コートの裏側へと指を伸ばし薬剤の詰まったガラス瓶を数本まとめて掴み取ると地面へと向け乱暴に叩き付ける。
混ざり合う緑の液体に濃い刺激臭が辺りへと漂うと反応する膨れた白煙が立ち込めて周囲を隠す。
「え?」
……やがて、風に払われ白煙が消えると呆然と佇む対峙していたはずのシャラクゼルだけがその場で残された。視線の先に白いコート姿の男は影も形も残さずに消えていたのだ。
―――――――。
「逃げた?」
白煙の晴れた先を見つめ私は呟く。……安堵はしたが、まだどこかに潜み機を狙っている可能性もないとは言い切れない。剣の柄を握る指先は離すことが出来ず周囲を警戒する瞳だけが忙しなく辺りを見渡していた。
「シャラ、さんっ、コワードさんが」
響くミリアの声に振り向けば地面の上に横になった少年に姿。体勢は大きく変わっていないが少しだけ変化があった、少年の握り締めていたはずの武器は手から離れ地面の上を転がり同様に少し横にずれた右腕も体の傍で砂に触れている。
「さっき、少しだけ動いてっ……それより!」
「あ、ええ」
何故オルイアが逃げ出して行ったかが分からなかったが、今は少年への治療を優先すべきだった。周囲へと向ける注意は怠らず少年の肩から下を掴むと砂の中からゆっくりと引き抜いて行き、砂の上で体を横たえる。
血糊の接着剤に張り付いていた砂は衝撃に少しだけ剥がれ、地面の上で改めて少年の全身を観察した。……大きな外傷は左腕以外には無いようだった。しかし大きくは無いというだけであり細かい裂傷が全身にあった。
しかし、見た目にしては頑丈であった防具の性能か、汚れた姿に比べれば思いの外少ないと思えた。何を見越して防具を支給したのか、与えたであろうギルドの判断こそを今は褒めるべきなのかも知れない。
「……なんだ?」
安堵に胸を撫で下ろし掛け、私は気付いた。少年の左腕は砕けてヒビが入った防具に覆われていて見えにくい。しかし、防具の影だと思い込んでいた蜘蛛の巣状の黒い跡が直接の皮膚の上にまで現れているように見え、伸ばした指先は固まった。
「まさか」
小さく息を飲み、最後の砦と残っていた左腕の防具を上から砕く。半壊以上であった鎧の腕は軽めの衝撃に難なく剥ぎ取られ、その下に守られていたはずの肌が露わとなる。
腕を貫いたであろう細く深い穴に中から覗く赤色の傷。ヒビ入りの防具と同様に思わせる青く浮き上がった血管が傷を中心に腕全体へと向けて広がっていた。
「ッ、コワード君!」
声を掛ける……やはり、反応は無い。
“モンスター”は異常個体だ。……それはモンスター化を果たしたとはいえ何かしら素体となった生物が存在する事を示している。それが全てであるとは研究者でもない私には分からなかったが。頭の中に連想される黒い姿があった。吐き出す青い血に、そして『ムカデ』という種の個体名が陰鬱な響きと共に目の前で浮かび上がる。
「毒」
漏らした小さな呟きは、流れる風に払われてその場で霧散した。
――――――――――。
「クソ」
男は毒づく。
「クソッ!」
“嘘吐き”の男は呻いた。
暗い岩だらけの洞窟を走りながら口から漏れる悪態を止める事は出来なかった。視界の悪い影の中で浮かび上がってくるのは剣を構えた女でも、巨大なモンスターの姿でもない、弱くて情けないと判断したはずの小さな冒険者の姿だ。
『実にいいですよ貴方!大変好感を持ちます。…その怯えを必死に隠そうとする目、自分を取り繕った姿、まるで自分に自信のない表情。…見ていて実に楽しいです』
蘇ってくる自身の言葉で男は血反吐を吐いた。
『ですが、貴方を見て少し安心しましたよ。本当にただの偶然だったようですね、貴方程度にね、そんな事狙って出来るはずがない。ふ、くくくく。滑稽ですよね?笑ってくださっていいんですよ?貴方なんかを警戒してしまった自分が実に……』
「クッ!」
滑稽だ。確かに滑稽だった。
『力もないくせに!変にでしゃばって……あまつさえ私を騙す?最大限の好意で見逃してやったこの私に対して、恩義すら感じてしかるべき立場だろうが!』
違う。
「ッ」
駆け出し、背を見せて逃げ出した今になって男は思った。
“嘘吐き”の男は実の所、他人を騙しはしても自身が騙される事は極端に嫌っていた。裏切られる事を恐れ、他人を見下す事で自分が信じられた気になれた。だからこそ、そんな男を欺き信頼を覆したあの冒険者を許せなかった。……心のどこかでは今でも小さく思っていたのだ、あの冒険者は実は本当にすごい力と才能を秘めた人物であり、弱腰も怯える仕草も全てそう思わせるフリだったのだと。
「グ」
……むしろ、そうであるならまだ良かった。それならば警戒に逃げ出した自分自身にも別の言い訳が付けられる。
しかし、男は確かにボロボロになった冒険者の姿を見ていた。他の誰かを捨て逃げ出せばいいと促した時の、あの一瞬信じ切った目も覚えている。
そこが、あの胸に悪い女剣士とも違う所だった。
「クソ」
冒険者が嫌いだった。薄気味が悪いと思っている。
まるで自分が世の主役でもあるかのような盛大な勘違いに、才能と力を振りかざして特別な装備まで許された存在を憎らしく思って何が悪いのか。
「クッ」
暗い通路の先で岩壁だらけの周囲とは明らかに不似合いな鉄製の扉が見えて来た。伸ばす指先で触れる冷たく感じるドアノブを一息で回し、身体ごと押し当てる様にして開けば『外』を流れる涼やかな空気を感じる。……亀裂の底の限られた空では分かりにくかったが外はもう夕焼けを迎えている。赤くやぼったい太陽は山の彼方へと落ちて行き、黒ずんだ夜の気配は反対側の空から忍び寄っていた。
「ッ」
怯える。
『大変好感を持ちます』
取り繕う。
『好感を持てます』
本当は自信も無い心。
『好感』
嫌だった。
一瞬だけとはいえ『自分』に似ているななどと老婆心を抱いてしまった自分自身が嫌だった。そんな甘い考えだけで彼は見逃してやろうなどと腐った思考まで生まれてしまったのが尚憎らしい。
だけど、そこまではいい。自分の自尊心を満たす行為であったと付け加えれば言い訳も付く……しかし、そこから先が最悪にして醜悪極まりなかった。
「クッ、ガ、あああ!」
男は振り返り、未だ手に持っていた短剣を握り直すと自身で出てきた扉へと向き直る。
ドクン、と一度だけ強く心臓が脈を打つ。
似ているはずがないのだ。
――嘘吐き
同じなはずがない。
――卑怯者
あれは、本当に才能と力を隠していたから出来た。……ただ、それだけなんだ。
――臆病
自分が。
「アアアアッ、クソッ!」
手にした短剣をドアノブへと向けて振り下ろす。
何度も何度も振り下ろし一振りする度に腕の中へと返って来る衝撃に鈍い痛み。金属を打つ甲高い音を繰り返し響かせるとガキンとやけに大きな音が響いてドアノブは根元から折れ、内部を剥き出しにして扉から垂れた。
「クッ」
壊れたノブを手に取り強引に引き抜けば内部の小さな部品をいくつも連れて外へと外れた。
それでも、まだ収まり切らない。振り上げる足で横から扉を蹴り付け。キーロックの傍を何度も蹴り続ければ次第に扉は大きくひしゃげていった。
「く、ははっ、ハハ」
足が痛くて、手が痛い、脇腹はもっと痛い、泣きそうだ。
今すぐにでも柔らかなシーツの上に倒れ込み甘い眠りを甘受したいと心の中が叫んでいる。自分はそう、自分なんてこんなにも脆いものなのに……なのに、どうして。
「ク……ふざけるな。そのまま、野垂れ死んでしまえばいいんですよ。偽りだらけの、冒険者なんて」
男の擦れた笑い声が山に響く。
日は落ち、辺りは暗くなった。