20 卑怯者は勇者になれない
――1つの事だけをずっと信じ続けるというのは難しい。例えどれだけ信じた気になっていても綻びは必ず生まれ、信頼と信頼の合間のちょっとした間隙に生まれるもしかしたらという疑惑。……あらゆる嘘偽りを鼻で笑いながら斬り捨てそれでもずっと信じ続けられる人間なんてこの世には存在しないのだろう。
だからこそ、人は騙されるのだから。
「くっ」
衝撃に痺れた片腕を下ろし『嘘吐き』の男は息を吐く。腕より伝わる痺れに感じる痛みも置き去りにして強く男の胸を抉ったのは怒りと憤り。騙す事は男の専売特許であり、偽り嘲る事こそが男の本分だった……そのはずだったはずなのに。
信じ切れない出来事に大きく口は開き荒れた言葉が外へと漏れる。
「貴方!何故戻ってきたのですか!」
……恐らく既にこの時から壊れ出していたのだろう。目の前に立つ臆病であるはずの少年に、密かに抱いていたある種の『信頼感』。形もなく温もりもないそれはゆっくりとして音も立てず、しかし確実に形を変えて行く。
その事に男自身も気付いてすらいなかった。
―――――――――。
「ハ」
……運が良かったと、そう思う。結果的には全部偶然だ。
たまたま砂煙の先が少し見えただけ、たまたま男の短剣が目立つ緑であり『目印』となっただけ、たまたま射撃が命中出来た。……考えれば考える程偶然に過ぎない僥倖に矢筒の奥から取り出した新しい矢を番えて引き絞る。
視線の先に立つ白いコートの男、睨み付ける向こう側でゆらゆらと幽鬼のように揺れ、照準越しからわざわざ見なくても分かる程震える口元が激しい感情に揺れている。
「貴方!何故戻ってきたのですか!」
未だ残った丁寧な言葉とは裏腹に明確な怒りと屈辱に燃えた瞳、見据える目線は真っ直ぐに自身を見て捉えていた。視界の片隅では砂煙の中に立ち上がったシャラクゼルに黒く蠢くモンスターが一声に吼え、地面を捲り上げながら迫って行く。
「シャラクゼルさん!」
離れた場所の点滅した緑の光点。言葉の終わりも待たずにシャラクゼルへと向かって降り注いだ黒の波はそのまま地面に深く埋没すると高い砂飛沫が宙へと向けて巻き上げる。流れる風に乗りここまで届いて来そうな細かい破片に女剣士の姿は見えなくなり砂煙の向こうへと身体を滑らせると消えて行った。
「ちッ」
間が悪い。
シャラクゼルに合流しようと駆け出したい衝動を抑えて短剣を構えた男を狙う。
今急いで向かった所で、どちらにしろ自分には『まだ』モンスターに対する有効な手段はなく、男の動きを牽制しながら無駄と思いつつも声を上げた。
「そのまま、動くな!……動くな!」
……恐らく、意味はないだろうと分かっていた。正直自分でももう何度言ったか分からない脅し文句にやはり男は浮かべた顔色すら変えず短剣の切っ先をこちらへと向けてジリジリと摺り足に迫ろうとする。……見慣れた余裕のある嘲りは今は顔になく噛み締めた歯に瞳から漏れる敵意も隠そうとはしていない。
発する言葉にも余裕のないように感情の起伏をそのまま現した荒々しい声音が口から漏れた。
「何故来たのかと、聞いたのです!……この私が、わざわざ見逃して『やった』というのに、それを身の程も知らずに。野の獣ですら受けた恩は忘れないというのに、何とも見下げ果てたものですね、貴方!」
「……」
小さく、唇を噛んだ。『アレ』が男にとってみれば見逃して『やった』なのか。……確かにマトモに正面から対抗出来るとも思えないが、だからといってそんなにっ……あくまで下に見る言い方に胸の中がざわついたが、ここで言い返しはいけない。……冷静に冷静を保って『予定』を思い出しながら頭を巡らせる。
「ハァ……はっ」
溜め込んだ胸の内を深い吐息に合わせて吐き出すと、固まった口元を上へと向けてねじ曲げる、萎縮に乾いた喉を飲み込んだ唾で滑りをよくし意識的に媚びた笑顔を浮かべて見せた。
「ち、違う、争いに来た訳じゃないだ。落ち着いて、話しをしよう。話し合えばきっと解り合える、だろ?」
……自分でも寒い笑顔響いたのは上擦る声。『演技』にしてもひどすぎるものに品評家を気取る気質を無理槍飲み込みと腰を曲げて身を屈めると地面の上へと腕を下ろす。手にしたクロスボウの引き金から順番に指を離して行き砂地の上へゆっくりと横たえる。
「……は?何のつもりですか」
思っていた行動と違ったのか男も一瞬毒を抜かれたように、半端に開いた口に強い敵意から疑い訝しがる視線を混ぜ合せると目を細めた。
「あ、はは」
まだ、弱い。
額を流れる汗を感じて愛想笑いに必死に卑屈さを振り撒いて敵意なんて全く無い事をアピールして腕を振る。
「ほら、同じ人間だし。話し合えば解るはずだ、こんな事やめよう……アンタだって何か訳があるんだ。危ない武器なんて置いて、オレは置いた」
「……」
……男の目には今の自分が一体どう写ってるのか。きっとさぞ情けない恰好に違いないけどそれでいい。急に日和って和解を申し付けようとする都合の良い人間に見えればそれでいい。……それに完全な嘘でもなかった。今でも心の隅でもしかしたら、本当に刃を引いてくれて丸く収まるという淡い期待もあった。
「く、ふふ、ふ」
静かだった男の口から笑い声が漏れる。「なあ?」と繰り返し続け媚を売る声に男の笑みは加速して強く睨んでいた瞳には敵対視の代わりに嘲り笑い下に見る目、肩の震えも隠す事なく弧を描く口元には蘇ってくる余裕の影が見えた。
「……」
勢いを殺した吐息に同時に理解する、本当にもう穏やかに解決する気はないんだと。
「ハハハ、クク、同じ人間……そう!そうですね間違いじゃない!なんて素晴らしい博愛の精神でしょうか、私もつい我を忘れて感銘を受けてしまいましたよ!ひ、くく、私だってそう、出来れば争いたくなどありません」
「は、はは……」
……何を嘘を!嘲り笑う言葉にそう叫びたくなるが我慢する。――上手く男は乗ってきたんだ。口元に浮かべた自身の愛想笑いが別の笑みに変わってしまわないように気を遣って、安堵の吐息も飲み込む。後はこちらが何も考えていない振りを続けて……しかし、次に流れた男の言葉に屈んだ身体が凍り付いた。
「分かりました、話し合いましょう……では先ず貴方から、武器を置いたままでそのままこちらに来て下さい」
「え」
「仲良く話し合いましょう」
地面に置いたクロスボウに触れた指先が言葉に揺れる。地面の上の相棒もカシャリと音を漏らし、一瞬躊躇した動作に男は浮かべた笑みを一層濃く変えた。
「どうしました?『武器を手離して話し合おう』でしたよね?ならば先ず貴方からそうしてください。そうじゃなきゃ私も怖くて動けません」
「……」
男の手に持つ緑の短剣がこれみよがしに空気を切って振るわれる。鋭い切っ先に宿る光に一度だけ息を飲み、手の先のクロスボウと男の短剣とを見比べて交互に視線は行き来する。
短い葛藤、頭の中では分かっていてもいざ動こうとすると怖さが先に立つ。今考えられる最悪の事は男がそのまま躊躇なく進み、揉み合いにもならずに斬り捨てられる事。毒々しい刃が身体に突き刺さる事を思うと躊躇わずにはいられない。
「わ」
……このまま大急ぎで逃げてしまおうなんて、そんな後ろ向きに考えてしまう頭を振るって怖気を退けると、ゆっくりと立ち上がりクロスボウから手を離す。
「分かった……話そう」
「ええ、ええ!」
実に愉快そうな男の笑顔、遠くでは争い合う音にモンスターの巨影が砂煙は上げて蠢く、シャラクゼルの姿は今ここからでは見えもしない。
やるしかない。意を決して素手のまま歩き出す自分を男は静かに見つめる。……きっと男にすれば願ったりな行動のはず、わざわざ遠くから攻撃する手段を持つ相手が自ら武器を置き近寄ろうとしているのだ。そう無下にするはずもない。
「ふふ」
クロスボウから十分に距離が離れた事を見計らったのか男も手にする短剣をコートの内側へと戻すと歩き出す。――自分はしっかりと土の上に置いてきたというにそれはずるい……くすぶる反感も必死に飲み込み冷静な態度を装うと歩み寄る。
「……」
数歩……まだ遠い。
「はは」
男の笑い声が聞こえる、だけどまだ遠い。
ごくりと飲む自分の唾がやけに大きく聞こえて、互いの距離は少しずつ狭まって行く。まさか本当に話し合う気もないだろう、だけどどこか一瞬でもいいから隙を突ける時間を。全力で駆ければ数歩で届くだろうという距離まで近寄った所で男は唐突に足を止め、笑みを掻き消す。
「何か企んでますね?」
「ッ!?いっ」
「く、ふふふふ」
流れる笑い声の余韻も待たず地面を蹴り上げる男の足に砂の塊が空を飛び目線の高さから襲い掛かる、突然の事に両腕をクロスさせて頭を庇うと目立つ白色の姿がブレ、次の瞬間目の前まで迫った。腰貯めに構えた男の腕が風を切り唸りを上げながら伸びると腹部の下から突き刺さり、衝撃と痛みに身体は浮く。見上げた視線の先で道端のゴミでも見る様な細く蔑む瞳が目に写った。
「バカですね」
打ち付けた拳を引き上から見て時計周りに回転する男の姿、長く伸ばす足が空を切って右側から頭に迫りギリギリで掲げた腕と接触する。装備の上から右腕に掛かる衝撃に勢いは殺せず横跳びに身体ごと跳ねると地面の上に投げ出される……身体を擦る砂の欠片に白黒とする視線の中で振り上げた男の足が見えた。
「愚か」
横腹に蹴り付けられた足が埋まる、多少の威力は軽減できても背負った土という名の壁に衝撃は行き場を失くし鈍い痛みへと変わる。
「間抜け」
……爪先で転がされた身体が仰向けになると胸の上に男の足が乗り、込められた体重に胸の底でミシミシと骨は鳴った。
「愚図が、身の程知らず!この雑魚!まさか私を謀ろうとでもしていたんですか!ハッはは!見抜けないとでも?甘いんです!何かを狙ってるなんてね、そんなの目を見れば分かるんですよ」
「が、はっ、グッ」
一語一句の終わりに踏み付けられた足が調子を踏み荷重が加算していく、骨の軋みに詰まった息が悲鳴を上げ……再び大きく振り上げた足に体重が消えたと思えば今度は頭。振り下ろした男の靴底が横から頭を踏み、笑い声は満ちる。
「ハ、ハハハハ!全く驚かせてくれました!さっさと逃げたと思ったのに今更戻って来て何を!何を勘違いしたんですか!弱いくせに!力もないくせに!変にでしゃばって……あまつさえ私を騙す?最大限の好意で見逃してやったこの私に対して、恩義すら感じてしかるべき立場だろうが!……よくも踏み躙ってくれました、裏切られた私の心の痛み!こんなもの程度じゃないんですよ」
「ぐッ」
横を向く頭に、頬から土と圧迫とに挟まれて、食いしばった歯に口内も切れたのか細く赤い一筋の液体が口から零れて地面を濡らした。
「……もう、いいです」
その言葉は言葉通りに悲しい被害者を真似て溜息に呆れすら混じった声音。男の足が頭から下がると代わりに伸ばした腕が首元の襟を締め上げて強引に掴むと引き上げる。
元々の身長の差から高く掲げ上げられた身体は宙を浮き地面まで届かない足はプラプラと揺れる。赤く腫れた視界の端でどこか芝居がかった男の仕草、空いた片腕がコートの内側を探り緑刃の短剣を抜き取ると手の中で構える。
「貴方もまた騙された1人なんですね、出来もしない幻想に踊らされヒーローになれるとでも思いましたか?そうですね、女性でした、助けるべき女の子を私を倒して救う?ハハハッ何て恰好のいい!……だけど貴方はもっと自分の分を弁えるべきでした、そんな事!貴方程度では出来るはずもない!」
「く」
首元を掴み締める腕に、ナイフを持った手は後ろへと引かれる。鋭い刃先が狙っているのは、寸分の誤差も含めずに頭で。尖った切っ先は真っ直ぐに目を狙い空中で揺れた。
「貴方は臆病者です、嘘吐きの卑怯者です。そんな貴方が無謀な夢を見る資格なんて、そんな価値あるはずがないじゃないですかっ!」
今や耳まで裂けたような真っ赤に笑った口から漏れ出る高らかな笑い声に命を刈り取りに走る鋭利な短剣が光る。
「そうだ」
「……はい?」
揺らぎない立場に男は余裕を見せて応える。
口の中が痛い、身体も痛い、怖さに……震える左手を伸ばし男の襟口を掴み上げる手を上から握る。カタカタ揺れる音は自分の震え、見開いた目で男を見る。
「そう、だから」
臆病?嘘吐き?卑怯?そうだとも、それが自分だ。『だから』戻ってきたんだ。
「絶対に」
『でももしも絶対に大丈夫って確信を得たなら、そうしたら頑張っていいわ』
「な……」
捕まえた。
首を絞めて持ち上げ捉えたのは男の方だ、だけどそれは反対に。自分にとっても男を捕まえた事には変わらずに……この、距離なら……!
「勝てると思ったから、戻ってきたんだよ!」
腰の矢筒に伸びた右腕に、固めた数本の矢を一度に引き抜く。顔を出した棒状の矢に、先端には本来あるべきない物が躍った。薄汚れた包帯が風に乗って過剰分を泳がせ先端に光る男の手に持つ短剣と同様の緑の輝き。
掴んで尾羽に即席で作り上げた『槍』が唸った。
「はっ」
「…………」
振り上げた切っ先は『外れた』。何も捉えず空を切った。咄嗟の事のはずなのにいち早い男の反応、刃の接近に上体を反らしたその分だけ切っ先は横へと僅かにずれる。
「あ」
――ダメだ。
襟を掴んでいた男の手は離れ、そのまま距離を取って下がろうと動き出す。ゆっくりと動き出す視線の中で解放された身体は地面の上へと落ち、足の下で細かい砂が揺れた。
「ツ」
ダメだ。
ここで外したら――ダメなんだ!
「ああああああああ!」
獣じみた咆哮に口から漏れる声、地に付いた足はそのまま砂地を蹴り上げて駆ける。腰まで腕を引き矢の先端は男へ向け、離れようと下がる距離をそのまま押し潰して距離を殺すと飛び掛かった。
「ガッ!」
……腕の中に衝撃が返った。ただの矢にボロイ包帯、金貨で受け止めた拾い物の短剣。即席の強度なんてたかが知れている飛び込んだ勢いと衝撃に矢は半ばから折れ、後ろ構えに手に持っていた男のナイフは転がり落ちる。括り付けた矢の先の短剣も同様に縛り付けが外れ空へと飛び上がると遠くに落ちた。
白色のコートを突き破って小さく咲かせた赤色の花の跡を引かせて。
「こ、の」
飛び付いた体勢のまま白いコートに張り付き腕を伸ばす。痛みも衝撃もあるはずだったが男の取った行動は素早く、伸ばす右腕で自分の頭を正面から掴み上げると力任せの膂力で振り回す。
「このガキがぁあああ!」
「っ!」
屈める身体に、地面へと強く叩き付けられ背中の後ろで踊った砂。荒い呼吸で体勢を立て直した男は一瞥もなく後ろへと跳び退り新しい凶器を取り出そうとコートの下を探るが……その動きの途中で睨む目が見開かれたものに変わる。
今頃気付いたのか揺れるコートの裾は大きく広がっており、その中にあったものの内数本が無くなっていることだろう。
「ハ」
……何とか背を丸められてよかった。おかげで『割れて』ない。
不用意に転がり出しそのまま壊してしまわないように気を付けて立ち上がり男を見る。わなわなと震える口と目。瞬間、駆け巡った身体の痛みが思い起こされて、そのままその顔に向けてぶつけてやろうかという邪な思いが頭を過り、すぐに首を振ると霧散させる。
手の中にある数本のガラス瓶、目にも痛い濃いピンク色の溶液をそのまま頭上へと振り上げる。
『これが何か分かりますか?これは『呼び餌』なんです。この薬を掛けるとあのモンスターに襲われますよ。対象が人だろうが物だろうが見境なく、誰であろうと』
「来いっ」
「やめ……!」
「ムカデェエエ!」
高く、声を上げた。見上げる視線は煙る砂の向こう、黒い影で揺れ我が物顔に暴れる巨体を睨み付け、掲げた腕を地面へと向かって振り下ろす。
パリン、と割れた軽やかな音。数本の液状が互いに混ざり合い溶け合い、地面の中へと吸い込まれて消えて行く。……そこからの反応はすぐだった。大きく蠢いていた黒の影は、突進の途中で身体をピタリと止めると身じろぎを繰り返す。
ギ キ
より強い方、より多い餌に、シャラクゼルを狙っていたであろうムカデの頭は錆付いたブリキを思わせる動きでギシギシと揺れ、こちらへと向かった所で動きを止めると開かれる口が頭を上下に分け隔て甲高い咆哮がこだまする。
ギギギギギ!
「……よしっ」
釣れた!
視界の先で突進の構えを見せ走り出そうとするモンスターの姿にその場から離れて駆け出すと地面の上に置いてきたクロスボウの場所まで戻り手に取る。相変わらず頼もしい相棒のカシャリと鳴る音に少しだけ頬を崩しシャラクゼルの姿を探して再び走り出す。シャラクゼルもミリアもこのまま全員合流したらここから早く逃げ出すんだ、頭の中はその事で一杯だった
「グっ!」
呻く、声が耳に聞こえた。
音に顔を向けると地面の上で体勢を崩し片膝を突く男の姿。白に滲んだ赤色を上から手で抑え。小さく見えたその姿を丸ごと飲み込む黒の影が迫る。
「は」
……何も、反応は出来なかった。
絶叫は聞こえない。突進に高く捲り上げられた砂に視界は隠されて衝突の瞬間も飲み込まれたのかさえ見えなかった……見えなくてよかったと思った。
漂う土汚れた空気に背筋を伝わる冷たさをごまかすと、無理矢理に視線を背けその場を離れて行った。
――――――――――。
「シャラクゼルさん!シャラクゼルッ!」
モンスターと剣士の争っていただろう場所に辿り着くともうもうと立ち込める砂煙に何も目に写らない。吸い込む喉と目に痛い空気の中で、戦闘の激しさを思ってシャラクゼルの姿を探すと地面に揺れる一箇所で僅かに動いた人影が見える。
「シャラクゼルさん!」
「コワード、くん」
大きく掛けた自分の言葉に反応する声があった。砂の壁を手で振り払って近付いて行くと目に見えたのはひどく薄汚れた格好。かなり苦戦を強いられていたのか全身の至る所は汚れていて何とか持っている程度にしか見えない細い剣も若干の刃こぼれに非常に頼りなく目に写った。他人の姿に驚いたのは自分だけでなくシャラクゼルも同様だったようで驚きに開いた目で自分の顔をじっと見つめ返した。
「コワード君!その顔!」
「え、あっ」
気が抜け自分でもすっかり見落としていたが今の自分の顔はきっと傍から見たら相当ひどいものだろう、鉄臭い血の味は今も口内に広がっていて赤く腫れた片頬はとても見栄えのいいものじゃない。……男はお前じゃヒーローなんかになれないと言っていた、それもその言葉通りだろう、こんなに格好のひどい英雄なんてとてもあったものじゃない。
「ッ、あの男は!」
驚きから戻り途端に引き締められた顔で漏れた言葉。……これもまた答え辛い事を聞かれ無言のまま地面を見つめると顔を反らす。……それだけの動作でなんとなく察しはついたのかシャラクゼルは肩を少しだけ落とし「そうか」とだけ呟くとそれ以上の言及はしてこない。
「……」
無用の気遣いに、むしろ事態を痛感させられているようで胸に痛い。
「……行きましょう、肩貸しますから。ミリアも、あの亀裂で待ってますよ」
「そうね」
無理矢理笑った顔にゆっくりとした動きで近付くとシャラクゼルも頷いた。必要はないかも知れないが余りに汚れた様子に力を貸そうと思ったのも嘘じゃない。
「……ん?」
その時、視界の端で何かが見えた気がして振り返る。
茶一色しか見えないはずの視界に飛び込んで来たのは緑色をした飛来物、避ける事も間に合わずにそのまま左肩口へとぶつかると……パリン、という高い音が響く。
「な」
割れた『薬瓶』。
飛び散る液体は先程のきついピンクではなく深い緑色。強く鼻に触れる刺激臭に一瞬上がった白い煙、匂いと液体が腕の中へと染み込んで行くと視界の先で『白の』人影が揺れる。
「く、くく!はははは」
白は嗤う。ボサボサとなった髪を振り乱し、土に汚れた頬の上でそこだけ爛々光る強い瞳、狂気すら漂わせる笑みで嗤い続ける。
「自分の武器の、ッ、対処すら用意していないと思いましたか!」
金切音にも似た男の声に砂の向こうから溢れて来る擦過音。金属と金属を擦り合わせる甲高い音は咆哮。邪魔する土のベールを食い破り黒の影は揺れる。地面を揺らす衝撃に視界の向こう側で鈍く点滅する緑の光。
「あ、ぁ」
「コワード君!」
咄嗟に動き出せなかった自分に横合いから飛び出してくる人影があった。彼女も十分に動けないはずだろう、なのに自分の前に壁にでもなるように立ち塞がり迫る圧迫感に比べれば何とも小さく見える後ろ姿が前に出る。
「ダ」
目に写った景色に記憶の中の光景が重なる。こことは違う濃い森で、何も出来ない自分に立ち上がった広い背中。
……考えるよりも先に身体は動いた。
「ダメだ!」
言葉と共に前に立ったシャラクゼルの肩を掴み横へと投げ出すように振り回す。……火事場のバカ力か、一瞬でバランスを崩した女剣士はそのまま地面の上を転がって。目の前で世界を閉ざす黒に鎧に覆われた左腕を突き出した。
「――ッ!」
音と、そして衝撃が鳴った。そもそもが柔らかな薬瓶などとは違う。壊れるはずのない物が砕かれた鈍い音に痛覚は爆発する。
痛みに叫び出す声も伝搬物となる空気のない地の底に、噛み付かれた腕が壊れ肌を破る牙に赤色が躍る。圧倒的な体格の違いに身体は成す術も無く。
砂地の底へと引きずり込まれた。