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18 発毒

「……あっ」

 一瞬呆けてしまっていた事に気付き一歩足を後ろへと下げる。岩肌の地面を自分の足が踏み締めるカツンという硬い音に、背負っていたクロスボウを引き抜き構えると矢筒へと伸ばした指先は短い尾羽を数本掴み取り弓に番えた。

 金属質の重いハンドルを手で回し矢を引き絞る鈍い動作音を響かせると白い影を睨んで声を上げた。


「動くな!」

「……ふふ」


 最速で装填を終えたクロスボウの狙いに睨み付ける先から漏れて聞こえてくるのは低い笑い声。洞窟内の薄暗い影の中でそこだけ白く浮かび上がる白のコントラスト。見つめる両肩は上下に震え得体の知れない張り付いた笑みを浮かべて男は突き付けられたクロスボウを見つめ笑っている。


「動くな、よ」


 絞り出した自分の言葉が、ろくに拘束力を持っていない事はすぐに分かった。半ば懇願にも近い響きに、微笑む男の口から漏れでた反応は小さな小さな溜息の一欠片のみ、口を開いた真っ赤な口内の上で見下ろす瞳はゆっくりと細まった。


「分かりました、落ちついて聞いてください。何も私は争おうというつもりじゃないんです。先程またお会いできてうれしいと言ったでしょう?ほら、武器も何も持ってないですしリラックスして話しを聞いてもらえれば」

「ハッ!話し!?ふざけるな、アンタ自分が何をしたか分かって!」

「だから、誤解を……」

「……っ!」


 返答に、ごく自然な動作に一歩踏み出される男の足。頭の中にフラッシュバックした危機感に狙う矢先を地面に下ろし、照準を修正するとトリガーを引いた。


「動くなって!」


 クロスボウの矢が解き放たれる短い駆動音。押し固めたバネの反動に鋭い矢は宙へと飛び立つとコートの男の前方へと向かって迫る。……静かに笑っていただけの男の笑みはその発射に一瞬目を見開いた驚く表情へと変わり、撃ち出された矢は踏み出した男の足の手前付近で地面の突き刺さって微動に揺れる。岩の起伏と起伏の継ぎ目部分に刺さって余力に震える尾羽の向こう側を注意して口を開いた。


「動くなって……そう言ったろっ!そこから寄るな」

「……」


 知らずに勝手に上擦ってしまう漏らした声に、胸の底の跳ねる鼓動は悟られないように新しい矢を手に取るとクロスボウに番えて弦を引く。ピンと張った白い糸にフック付きの鋼線が絡まり、押し回したハンドルも一息に射撃状態まで持っていくと男の胸元へと狙いを付けて止まる。


「ふ、ふふふ」

 ……小さく漏れた笑い声に男の見開いた視線は次第に驚愕を収めて、再び弛緩を始めると口は弧を描き下がるまなじりで笑みを繕った。

「ハァ、びっくりしました。本当に撃ってくるなんてひどいんじゃないですか?もし当たったらどうするんですか?ふふ、それにその顔も……何かありました?そんな怖い目で見ないでください」

「っ、うるさい!喋るな!静かにしろ!」


 威嚇に口は吼えるが添えた指はトリガーに手を掛けてそれでも僅かに震えてしまっていた。望むに関わらず射撃して見せた一矢も冷静に狙ったというよりも反射的に行った事に近くて頭の中はぐるぐると回る疑問で一杯一杯だった。

 ……そもそももうカヘルに帰るだけのつもりになっていた。街に戻って助けを呼べば後はそれで済んで、自分は助かったかもしれないなんて甘い考えに。突如現れた白コートの男の登場は鈍器で強く頭を叩いたように身体を痺れさせる。奥底から湧き上がってくる微かな震えに歯を無理矢理噛み締めると男を睨む。

「ふふ」

 クロスボウの矢の先に立つ男は一度撃たれたというはずなのにやはり余裕のある態度を崩さずに、長い袖の先に腕を小さく振るってみせると転がり出て来る金色の欠片が一粒。手の平の上で止まった切れ欠けを男は指で弄んで転がし、細めた瞳で手の中を見下ろすと小さな溜息を零す。


「いや、見事な仕掛けでした、すっかり騙されましたよ。まさか、こんな防御手段を準備していたなんて。……知っていますか?実は私ここに来て貴方に会うまでの間、余りの恐ろしさに戦々恐々として怯えていたんです」

「……怯え?」

 響く言葉には似合わない態度で男は手の平の中の砕けた金貨の一部を見つめ続ける。

「ええ、想像です。もしかして貴方は。実は本当はとても恐ろしい人物なんじゃないかってそう思っていたんですよ?」


 恐ろしいと、言葉にすれば弱々しい響きだが目の前の男に本当にそんな殊勝な気持ちがあるのかは信じられずにしかし見た目だけでは判別はつかなかった。手の平の上で転がしていた欠片を強く、力を込めながら握り締めていくとギチリと締まった音はここまで聞こえて来そうで、男の声音が少しだけ鈍く変化する。


「ふふ、恥ずかしいですよね。すっかり勝ったつもりでいたんです。……なのに勘違いかも知れない。……ひどいですね、あんまりでしょう、裏切りですよ。貴方の怯えた態度も、縮こまったフリも、全部嘘。そう思うとね、嫌なんです。この胸の底が捻じ曲がるような感じ。私は、騙されるのが大嫌いで……」

「ッ」

 握り締めた手の平の微かな震えに金貨から外れた男の視線がこっちを見た。張り付けた笑みは変わらずにしかし瞳の中のギラギラと輝く粘着いた視線は自分の目を真っ直ぐに捕まえて離さない。

 男が一体何を言ってるのか理解が追い付かなかった。被害者は自分のはずで強い恨みすら込めた目を浮かべる側が間違っている。だけどその事すら憚られ、男の笑みから逃れるように足を後ろへと下げると蹴り出した小さな石粒を床を跳ね回って転がった。

「ふふ、ふ」

 硬い床を石の転がる音に男は一度開いた瞳をゆっくりと閉じると深く深呼吸を繰り返し、もう一度目を開く。男の身長と自分の背の高さから男の見下ろす視線に変わりは無いが、再び交錯した微笑みの上の瞳の色に、先程まで見えていたはずの危うい光は鳴りを潜めて消えていた。


「ですが、貴方を見て少し安心しましたよ。本当にただの偶然だったようですね、貴方『程度』にね、そんな事狙って出来るはずがない。ふ、くくくく。滑稽ですよね?笑ってくださっていいんですよ?貴方なんかを警戒してしまった自分が実に、実に……ハハハハ」

「ッ!?お前」


 剣呑な光の変わりに現れた小馬鹿にする笑みと口調。何か心に引っ掛かる違和感は感じるが、それに強く反感の声を上げることも出来ずに中途半端な言葉が漏れる。

 下手な否定にもう一度あの睨み下ろす瞳が蘇る事を恐れて、それでも男の言葉に言い返してやりたい気持ちは消えずに、男の顔と地面の床とを行ったり来たりで見比べて。……そうする内に男の笑みは微妙に変化して下げた眉根に薄く開いた唇、何か困惑気な非常に中途半端な笑顔を浮かべて男は手を振った。


「変に警戒したのが徒労だと分かりました。ですが分かりませんね。薄い強がりに見えすいた本心も透けて見えるのに。なんで貴方は撃って来たんです?咄嗟にしてもおかしいじゃないですか。そんな酷い事貴方に似合いませんよ?」

 言葉に合わせてやれやれと首を振る仕草が重なり、思案気な男の顔は虚空を見上げて眉根を寄せ……やがて何かを閃いたように楽しげな顔を浮かべると両手を打った。


「ああ、分かりました。『そうしろ』と言い含められたんですね?全くひどい話しですよね、誰でしょうか貴方にそんな事を吹きこんだのは。全く無駄、絶対に出来ない事を無理矢理聞かせるなんて人道にも劣る行為です。きっと命令した人間は性根のひねくれた最低の人間でしょうね」

「な、違っ!」

「分かりますよ。綺麗な見た目で騙されたんですよね?それともあっちですか。小さい方が貴方のお好みで」

「勝手な事を言うな!」


 腕を振るって否定するが、1人悦に入った男は聞く耳を貸さずにハハハハとただ空虚な響く笑い声を響かせるだけ。……『そうしろ』なんて、ふざけるんじゃない。自分は……自分の考えでこうして……


『コワード君には逃げて欲しい』


「違うっ!」


 手にしたクロスボウを掴む指先に力がこもり握り締めた取っ手が軋みを上げて男を睨む。置いてきたモンスターの巨体に、シャラクゼルの言葉が、ミリアの姿が重なり。歯を噛み締めて睨んだ。


「ゴート!」


 低く漏れ出た呟きは感情の発露から……しかし男は響かせていた高い笑い声を、その一言にピタリと止めるとこちらを見る。


「今、なんと?」

「……ゴート。ゴート・メイスン。お前!」

「…………」


 頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。歪む視界に頬の熱さだけ感じ。引き金の内側でカタカタと音を立て指は震えていた。怖さからの震えではなく怒りに恥ずかしさに自分自身に向けたやるせなさを、全ての原因を男に押し付けて睨み付ける。

 響く笑い声が気に食わなかった、自分をバカにする態度も気に入らなかった。何より身動きも取れなくなったミリアに、自分も、シャラクゼルも全部が卑下に見られてる気がして叫び声にも近い声を上げた。


「ゴート・メイスン、そうなんだろう!何やってんだよアンタ!人をこんな穴に落としてそれで何してるんだ、モンスターが居るんだよ!誰か傷付いたらどうなる、最悪の場合だってあるだろうがふざけんじゃない!動けない人間だって、モンスターは怖くって、必死で、オレっ。なのに!……やりすぎなんだよ!コリノだってっ、アンタを心配して待ってるのに!自分が何してるのか分かってるのか!」

「……」


 喉から絞り出た声は。冷静なコントロールを失ってただ罵倒の捌け口へと成り下がる。コリノの名が何とか出たのはその中でもまだマシな部分が微かに残っていたからで。ミリア達だけじゃなく、ゴート・メイスンを探して欲しいと必死に頼み込んで来た青年の姿が浮かび上がり、悔しさに涙も出掛かった。


「……なるほど」


 声を上げるだけ上げ。喋っただけだというのに妙な息苦しさに、男は言葉を吟味するようにゆっくりと呟くと顔を伏せて俯いた。片手で隠した顔の半面にキラリと光る涙でもあれば……そう思って必死に目を向ければ目に入ったのは弧を描いた笑いに細い瞳。


「ふ、くく、ふ、道理で、道理で貴方、ハハ、分かりました」

「ッ、ゴート?」


 俯いた姿に次第に震え出していく男の肩にどうしていいか分からずに声を掛け名前を呼ぶ。次の瞬間に響き渡ったのは破裂する高い哄笑。壁に阻まれた閉鎖空間に洞窟の壁という壁で反響し合い甲高い笑い声は広がりながら周囲へと満ちて行く。


「ハハ、ハハハッ、そうだったんですか!貴方、コリノの、コリノの使いだったんですね!? 道理でっ。元々、こんな所に見知らぬ冒険者が来るなんておかしいと思っていたんです。それが、それがね、よりにもよってゴートって、あはははっ」

「っ!何がおかしいんだよ!だからアンタを心配して!」

「ふふ、あーもう、これ以上笑わせないで下さい。分かりました、分かりましたから」


 俯く顔が上がると張り付いた笑い声が自分を見下ろして停止した。


「1つ教えてあげましょう。私はゴート・メイスンではありません」

「え」


 男の何気なく言った一言に理解は追い付かずそのまま聞き返す。答える言葉は男からはなくて変わりに見えるニヤニヤとした笑い。冷静を偽って頭の中を整理して情報は逝き違う……だって確かにそうなはずで。探し人は背が高くて、第一坑区で、短剣を武器に……それで、それでそれでそれで。


「……そんな……じゃあゴートは!」


 パンク寸前の頭を押し留めると男を見つめ声を上げる。最早誰だか分からなくなったコートの男に、しかし口ぶりから全く知らない人間ではないと察して言い寄った。少なくとも知人の誰かであったりすれば男を説き伏せる口実も。……しかし無情に、むしろその言葉を待っていたかとでもいうように、浮かべた笑みを更に滑稽に歪ませると男の口は開かれる。


「ゴート・メイスンはもうこの世にいませんよ。私が、『  』ましたから」

「――え」


 先以上の信じられない単語に『  』という言葉は頭の中には入って来ずに開いた瞳で男を見つめる。左右に伸ばした男の両腕は何もない中空を仰ぐように揺れ、しかし熱のこもった緩んだ瞳が妖しく光りを灯した。


「いえ、本当はしたくなかったんです。本当ですよ?でもね、ついなんです、つい。……今でもハッキリ分かりますよ。ゴートの腹に向けて突き立てた刃の感触も、振り下ろす度に跳ねた血が私に降り掛かって汚してしまって、あの時は苦労しました」


 男の感極まったように態度は訳も分からずコートの端がばたつくと緑色の刃をした短剣を取り出される。手に持った短剣に男は目の前の空中で言葉と共に実演を始め鋭く光る切っ先を地面へと向けて何度も何度も振り下ろした。ひとつ下ろす度に男の声に姿は近付いて来て。狙いを付けようと上がるクロスボウをやんわりと伸びた指先が押し留める。


「力の限りに刃を振り下ろして、皮を裂いて肉を楽しむ感動!これが楽しいから短剣というものはやめられませんね。飛び跳ねた真っ赤な血は肌に触れて暖かくて、命の神秘というものは実に不思議です。身動きを取れなくしても微かに返ってくる反応もまた面白い、強く突き入れてぐるりと根元を回すと手足がピクッと反応して動くんです。じっと見つめ次第に色を失っていく瞳の……ああ、貴方にも見せてあげたかった」

「っ、あ……お」


 ガタガタと揺れるクロスボウの先を男に向けようとするが動かずに振り上げた男の腕はゆっくりと自分へと向かって落ちる。


「……ヒっ」


 ……自分を襲ったのはポンと肩を叩かれる軽い衝撃だった。男の手はナイフを持つ方ではなく反対側の、何も握っていない指先で優しくとすら言える触れ方で肩を叩く。反射的に見上げた男の顔に開かれた真っ赤な口内の色が目に写った。


「ねえ、冒険者君?1つ提案があるんです……貴方は、私に会わなかった」

「ハ」


 絶対的に主導権を握りながらも男の笑みは目は細く柔和な微笑み、開く唇から零れ落ちる一言一言が胸に楔となって打ち込まれる。


「貴方はここに1人で居る……逃げて来たんじゃないんですか?先程言ってましたよね、動けない人間が居るって。なのに貴方はここにいる……『アレ』とも会ったんでしょう、なのに貴方『だけ』がここに居る。そうですね、貴方は他の誰かも見捨てて1人で逃げ……」

「っ、違う」


 男の流れる言葉を遮って声を上げる。止めなくちゃいけないと思った、それをそのまま聞いていたらまるで自分が。


「違う!違う!オレは助けを呼びに行くために来たんだ!逃げ出した訳じゃない、それが必要だって、そう言われ……っ」

「なるほど」


 否定をしたはずの自分の言葉に男は笑みを強め、口元は曲げる。懐広くさも理解者然とした瞳に目を細めて見せた。


「分かっていますよ、なら尚の事そうしませんか。……貴方はここで私に会わなかった、私も貴方なんて知りませんよ。だからどうぞこのままカヘルへと向かって戻り助けを呼んで来てください。『もしかしたら』間に合うかもしれませんよ」


 柔和だと、そう思った自分の考えは間違いだった。それは正しく悪魔のような笑みでダメだと分かっていても自分にとって都合のいい言葉は並んで。……残された微かな正義感になけなしの勇気を込めて男を見上げた。


「……アンタはそれで、奥に行って……それでどうするっていうんだ。これ以上何を」

「どうでもいいでしょう?」


 ヒュッと風を切る音が鳴った。

「ッ」

 薄く輝く緑の刃は視界に迫り、寸前で停止する。少しだけの空間を開けて頬の上を踊る刃に瞳は動かせず。視界の端で男は自身の白いコートの端を開くと、中に並んだいくつものガラス瓶を見させて指でなぞる。

 確か治療薬とでもうそぶかれたはずの薬剤瓶に目に痛いピンク色や緑の液体が並んでいる。


「これが何か分かりますか?これは『呼び餌』なんです。この薬を掛けるとあのモンスターに襲われますよ。対象が人だろうが物だろうが見境なく、誰であろうと最後は捕食されて胃の中へと消えます……ね、一本。一本だけ、貴方に掛けて差し上げましょうか?」

「――!?」


 男の言葉に声もなく見返すしか出来なくて、今は万力のような力で肩を掴んだ男の手の平から逃げ出す事は出来ない。

「ハ」

 歪んだ笑みの中に漏れた一息の呼吸に男は頭を下げ、自分の耳の位置まで頭を下げると聞き取れるか聞き取れないか程度の小さな音量で言葉を紡いだ。


「嫌ですよね?出会ったばかりの誰かの為にそこまで貴方が頑張る必要なんてないでしょう?ここはお互いの為に私達は出会わなかった事にしましょう。そうすれば貴方は無事に帰り難を逃れる……何も貴方だけの為じゃありません。貴方だって誰か、街で帰りを待ってくれている誰かが居るんじゃないんですか?」

「……ぁ」


 男の耳打つ言葉に……思い出したくない、今思い出しちゃいけない野太くて優しい言葉が重なり胸に浮かんだ。


『もし何かあったとしても何があっても無事に帰る事を最優先にしなさい。他の事はいいわ』


「……ッ」

 ……なんで。


『仮にクエストの失敗でもなんでもいいわ、貴方だけはきっと無事に帰って来なさい』


 今。


『貴方の帰る場所がある。その事を忘れないで』


「ク……」



 ……浮かび上がってくるディガーの言葉を否定して、それで頭を振る事が出来なかった。言葉と共に思い浮かぶのは気持ち悪いと思った大男の笑顔に一緒に見送ってくれた小さな笑み。しつこいからと言葉に表す気持ちとあまり表に出せない別の煩わしさが……。


『それじゃ!がんばってらっしゃい、お夕飯までには帰ってきなさいよ』

『コワードくん気を付けてね!』


「ツ」

 小さなむず痒さに少しだけ嬉しいと思った気持ちが蘇る。



 男の顔は見返す事が出来なくなって自分は首を垂らして俯いた。


「分かってくれましたか、やはり貴方は『いい』ですね、ふふふ」

「ぐ」


 決して『いい』意味は含まないであろう言葉に唇を噛んで反応はしない。満足そうに響く男の笑い声に掴んで手の平から力は抜け指先だけ数度ポンポンと叩くと手は離した。


「では、私は進みます。またお会いしましょうね冒険者君」

「…………」

「ふ、ふふふ」

「……い」



 ……小さく漏らし掛けた言葉のそのは続く事がない。

 洞窟内に響いた哄笑に、甲高い笑い声が神経に障り。


 そのまま追う事も、言い返す事も出来ず、卑怯な安心感にその場で崩れ落ちた。




………………。




「最低だ」

 膝に当たる石の硬い感触、突いた手の平から伝わってくる冷たさが全身に染み渡って消えて行く。

 短く小さな内心の呟きさえ、白コートの男が完全に去り切ってしまうのを待って漏らされて。下手に声を上げた事に男が気が変わって戻ってくるのが怖かった。

「ソ、あ」

 自分の心の有様の隅まで情けなくて。手から離れて転がったクロスボウに震える手の先を空中に上る。


「クソォッ!」


 振り下ろす自分の手が硬い床を打った。衝突の音すら響かない軽い感触に振り下ろした腕の痛さだけはしっかりと伝わってくる。うずくまった姿勢からもう一度手を上げ、もう一度振り下ろす。

 変わらない痛みだけが腕の中に響いた。


「ガ、っああ、ああああ」


 ……こんなはずじゃなかったんだ。こんな惨めなのおかしい。自分で頑張りたいってなりたいって思った姿はこんな、悔しさで床を殴る姿じゃなくて。力のない不甲斐なさからひたすら床を乱打して腕は赤く腫れ上がる。


「ガッ、くそ!ア、くそ!あああああ!」


 ……どうすりゃよかったんだよ。


『ギ ギチギチ』


 あんな、モンスター相手どうしようもないだろう。それにあの男だって。ゴートを『  』た?そんな事言ってあんな愉快そうに。……どう『出来た』、どう頑張ればよかったっていうんだ、どうしようもできないじゃないか。あれで……。


「どうすりゃよかったんだよ、くそあああ!」


 腕が床を打った。

 当たり所が悪かった余計に響いた痛さに手を抑えてその場で転がり回る。


 逃げたい訳じゃないんだ、言い訳をしてもそれしかなくて。助けたいのに、出来ない。もっとうまくやっていればどうなったのか、ダメな自分へのイラつきが度を通り越して腹が立ってしょうがなく、ただ思いの丈の捌け口に当たる事しか出来なくって。でも、ディガーだって、あのディガーだって自分に!


『コワードちゃん』


「……ッ」

 それは毒だ。嬉しいけれど逃げる事を容認するようなディガーの言葉に……言われた直前を自分がクエストに宿屋を出る時を思い出して。




「……ぁ」


 そこで動きが止まった。


『でも』

「……」


 ……忘れ掛けてた。ディガーに言われた言葉の全てが何もそれだけだった訳じゃなくて、必死に頭を働かせて思い出す。


『でももしも絶対に』



「………………く!」



 身体を起こす。

 バカみたいに無駄に痛め付けてしまったせいで身体が痛い。でも反面伝わる痛覚に意識はしっかりとし。

「考えろ、思い出せよ」

 呟きを繰り返し。集中する。考えて、考えて考えて。間違っちゃいけない。通り過ぎてしまった事を思い出して頭を働かせる。


 ……よく、考える事が。


『でももしも絶対に大丈夫って確信を得たなら、そうしたら頑張っていいわ。よく考え、必死に考えて、また考える、そういう事が出来るっていうのはいい冒険者の証よ」

「……」


 思い出せ。


『応急処置はしたけどあくまで痛み止め程度よ』

『コワード君、貴方は毒を受けていないの?』

『すっかり騙されましたよ』

『これは『呼び餌』なんです』



 緑。


「ッ!」


 息を吸い、吐き出すと立ち上がった。頭を上げ周囲を見るが白いコートの姿は既に無く、赤く腫れる指先で装備と衣服を縫って腹部に指を伸ばすと触れる。


「ツ、痛っ」


 押し込む手に乾いた布の感触。まだ腹部の痛みは色濃く残っており、呻きにも近い小さな呟きを漏らすと、汚れた包帯を手に取ると巻き上げて行った。



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