15 逃走
甲高く響く接触音は一瞬の事で身体を通り過ぎた。
衝撃に目に写る世界は横倒しに回転し漂う砂塵を突き破ると手にしていたはずのクロスボウの持ち手は滑り身体を離れて宙を舞った。
一瞬の空白から突如背中を襲った衝撃に息が詰まり、細やかな砂の上を身体はバウンドして進む。
「カ、ハッ」
動きがようやく止まった後に胸を潰す圧迫感から吐き出された空気は嗚咽となって口から漏れ。風を切る鋭い音にぼやける視界を上げれば、ほぼ垂直に降下したクロスボウが地面の上に突き刺さり土に埋まった。
ギ ギギ キ
「くっ」
耳に響く擦れた音に霞の掛かる頭を振るい身体を起こす。意思とは関係のない所で勝手に震える視界の中で、強引に腕を突き立てるとふらつく足で立ち上がり砂地に生えたクロスボウに近付き腕を添える。取っ手部分だけを見せる状態に掴む指先に力を込めると地面の底から抜き出し手に取って構えた。
「ッ」
身体が痛む…ちょっと、ぶつけられただけのはずなのに。
「ク、ソ」
悪態に叫びだしたい気持ちを無理矢理飲み込んで空気中に混じる小さな砂塵を睨むと奥の方で黒い影が揺れている。…改めて目にすれば理解出来るその大きさに背筋を冷たい戦慄が走り抜け、ハッと頭が気付くと自分同様に吹き飛ばされたはずの少女の姿を探して視線は忙しなく左右を巡った。
ギ キ キ
煙る砂塵に響く金切音に震えた風から砂が降り払われ視界が正常に戻ってくると近くに横たわる少女の小柄な姿と、それと同時に上下に開かれた大きな口が目に写った。
「な…ッ!」
キキキキ
短く息を吐き出すと無我夢中で走り出す。開かれた牙が狙っていたのは倒れた少女、迫る口から弾かれた唾液が咆哮に乗り辺りに飛び、虫の叫びに自身の砂を蹴る音とが重なり合って倒れた少女へと近付くと腕を伸ばす。
「ッ」
身体を掴んだ瞬間にその身を抱き寄せて地面を転がると少し跡に通過する巨大な顎が地面を抉り取り、くり抜かれた砂が飛沫となって空を飛ぶ。
ギ キチキチキチ
獲物どころか砂に石まで容赦なく飲み込んだムカデの口は通り過ぎ様にまるで巨大な剣同士を打ち鳴らさせる甲高い音を響かせて牙と牙とは重ね合わされて口は閉まった。
「く!」
漂う砂塵に今度はむせるではなく少女の腕を取り立ち上がる。盛大に地面を転がり砂だらけになった身体は更に重くふらふらと揺れながらも駆け出した足は鈍い。…肩から掛かる少女の重さに全く生きた反応が無くて、言葉を喋らない死人を思わせる静かさに背後で狙いを外した甲虫が身振るいして土を落とし地面を跳ね除けながら大きく蠢く。
巨体に見合った実に鈍重な動きに天上高く掲げられたムカデの口から粘液混じりの黒く汚れた土が零れ、地面に落ちると周囲の砂と合わさり深く埋没していく。
「ハッ!ッ!」
…胸が痛い。
打ち所も悪かったかも知れないがそれ以上に荒れる心臓の鼓動に暴れる肺が耳にうるさかった。どこでも逃げたい、少しでも遠くに逃げ出したい。そう願い駆ける気持ちとは反対に歩み取りはとても遅く、無情に変わり映えのしない景色は苛立ちを掻きたてる。
「――」
肩の先から、担ぐ少女の口から小さな反応が漏れた。
声にも満たない囁きに言葉は聞き取れなかったが今まで感じられなかった生気に荒れる呼吸の中で安堵の溜息を零し。地面に視線を落とした視界に巨虫の影が揺れる。
「ッ!く」
踏み出す足を邪魔する強い振動が起こった。後ろを振り向けば巨大な影は進行上に左側の壁へと突進し、影に黒くそまった岩壁を強打すると削り取った岩肌が瓦礫となって地面に降り注ぐ。
「グ、ッ!」
もう無理だ限界だと泣き出す心臓に鞭を打って速度を速めれば背の後ろを滑空してきた大きな岩が落ち飛び出す土色の飛沫が空を隠した。細やかな土の欠片は横殴りの雨となって背中から被さり、煙る砂塵に後ろを見れば今度は右側の壁へと向かって突き進む虫の姿が見える。
ギ ギギギギ
耳障りに響く咆哮に、壁を揺らす衝撃。
「ツ!」
甲高い摩擦音から逃れ足を踏み下ろすと追い縋る複数の石片は空から、砂地の地面へと向かって次々と降り注ぎ、連鎖的に重なった衝撃は飛び出す砂塵を吹き飛ばし背後から追い立てる砂煙が身体を通り過ぎ視界を再び暗く閉ざす。
「ッ、イツアアア!いたッ」
目が痛い、瞼を開いていられない程に痛かった。
呼吸のたびに口に入り込もうとする砂利に乾く唇は震え声も出ない。水分を失った感触だけの冷や汗に一方的に増して行く恐怖感は胸を抉って焦りはどんどんと強くなっていく。
怯えに早めようとする足は重い呼吸を更に追い詰めて、息苦しく視界が霞んで来た頃に今度はアギトの開閉を知らせる擦過音が響いたのは遥か頭上。数えるのもバカらしい無数の爪が地面を引っ搔くと逃げ惑う距離を詰め上空からこちらを見下ろし狙いを付けて開かれる口から汚れた唾液が零れる。
「――っ!――っ!」
更に速度を上げようとした、しかしこれ以上は早く走れない。目に痛い視界であっても迫る圧迫感と恐怖に頭上を見上げたままに視線は離せず、空の青を塗り潰し襲い掛かる虫の口内。
「…ツっ!」
…上なんて見て走っていたのがいけなかったのだろう、強く踏み込んだ瞬間に靴底は砂に滑り身体のバランスを失うと前のめりに倒れ込む。同時に頭上から迫る開かれた顎が地面に喰らい付き迸る衝撃が視界を揺らす。
ギ ギ
「ハ、ハッ、ハッ!」
眼前で膨れ上がった爆風にも似た音に煽られた砂が粒となって頬を叩いた。
…事前にバランスを崩したのが幸いしたか進行方向の先で地面に突き刺さるムカデの頭はそのまま砂地の奥深くまで埋没し、牙と牙とが噛み合わせる音が響いたのは足元の下から。
狙いを反れた頭を突き入れ地面へと盛大に埋没させたムカデの姿にチャンスと目は見張るが、痙攣する身体は言う事を聞かずにすぐには立ち上がれなかった。
「ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!」
荒れる心臓、新鮮な空気を求めた肺に視線に写るのは砂混じりの汚れた空気の色。
仰向けに倒れた姿勢で両腕を強く硬く腕と抱えた少女との身体の間に空き空間を作ると砂塵が入り込まないように注意して荒い息を吐き出した。
「 」
「ハッ!ハッ!…ハ?」
…必死に呼吸を整えていたそんな時だった。
小さな呟きは耳に触れ。言葉となって頭に浸透する呟きに…初めは信じられずに見開いた目で少女を見上げると土汚れた顔を見る。
「 」
正面から見つめると、微かに曲がった口元が目に写り、それは同様の動きを繰り返し行い同じ音色の言葉が耳に届く。
「ッ…ク!」
…少しだけだが息は整った。
聞こえた言葉を無視して立ち上がると少女の腕を取り肩に担ぐ。今までは手に持っていた相棒ももうここまで来れば何の意味も成さず肩掛けに背中に回すと少女を担いで立ち上がる。…あくまでも呪うのは自分の足の遅さで暴れる心臓に歯噛みしたい程の情けなさだけを感じた。
「 !」
「行、く…っ」
砂に紛れ耳に入ってくる抗議の言葉に息を吐く。口内の砂利も地面に吐き出せば汚れた赤黒の唾が砂に落ちた。…漂う砂塵が耳の中にまで入ったか、聞き取る音もどことなく遠く感じる。
「ッ」
走る。…既に傍から見て走っていると見えるかも怪しい鈍足に、痛みと重さを噛み込んで堪え倒れる事無く前を見つめ続け足を振り下ろした。
ギ ギギキキ
通り過ぎた背後で擦過音が響く。
砂の中に埋没していたムカデの頭は左右に大きく揺れて巨体を起こし、まだいくらか昼を過ぎた程度の強い太陽の日差しを背で受けると逆光に浮かび上がる影が陰影の影響からかより一層目に焼き付いて大きく見えた。無駄に噛み込んでしまった口内の砂の味を嫌う様に、上下に開かれた牙と牙の間からダバダバと零れる滝のような黒い土に、逃れる為に少しでも足を。
キキキキキ
擦れ合う嫌な音、ムカデは細い針の並ぶ口を閉じ込むと今度は地面の上に身体を落とし全身を使って横に滑らせる。黒い甲殻同士の連なりは地面の上で踊る鞭となって、土の上を歩く者を容赦なく振り払った。砂を削る数百の爪の音、黒い身体は振り子のように目の前に迫り襲い掛かる。
「……ぁ」
今度は、避けられそうにもない。
鈍い衝撃音が鳴った。音の出元は自分であったか少女の方だったか、盾になるつもりで前へと進み出たのに相手の身体が大き過ぎてどちらもが衝撃に煽られて地面の上を跳ねた。
反転する視界に、短い滞空時間、砂煙を引き裂いて身体は地面に落ちる。
「ッ、がっ」
…無様だった。
受け身も何も出来ず地面を打った衝撃。振動でシェイクされる頭に込み上げてくる吐き気。胃の底の逆流する衝動に耐えて身体を折り曲げると懸命に抑え込む。恐らくの衝突箇所である腹の下に指を伸ばすと駆け抜ける鋭い痛みが全身を巡った。
「っ、ク、ゥッ」
砂の上で声にならない声に目に写る影の動き。
揺すり暴れるままに岩壁まで衝突した虫は震える頭を小刻みに揺らしゆっくりとした速度で鎌首をもたげていく。自分と同じく弾かれた少女の姿を目で追い探せばすぐ近くの砂山に投げ出された状態のままでうつぶせに転がってる姿が目に入る。
「く、そッ」
なけなしの義務感やら正義感。そういったものを掻き集めて痛む身体を引きずり地面の上を這って進む。近寄る少女の土塗れの装備に胸元だけは微かに上下している事だけが救いだったが…それもいつまで続くか分からない。
天頂部分まで伸びたムカデの頭から響く擦れ合う摩擦の音。甲殻の合わせ目はずれ、中身を覗かせる影の中から一点のぼやけた緑色の光が顔を出した。高い場所から地面を見下ろす光は影の中で自在に泳ぎ地面の上の自分達を視点に収めると微かに点滅を繰り返しぼやけた光を発する。
「っ!ま、だっ」
息を吐いた。
まだ、動ける。近寄りもう一度と伸ばす腕で少女の手を掴み肩に回すと今度は明確に、すぐ耳元で小さな囁き声が零れた。
「――いいから、にげて、くだ―」
「っ」
…途切れ途切れの短い言葉に胸の底がドクンと一瞬強く鳴った。
ギ ギギギ
漏れる咆哮にムカデは強く壁を打ち零れた石片が地に落ちて砂飛沫を上げる。
すぐ横側の少女の顔に目を向けるが目を瞑り歪んだその表情からどんな気持ちでその言葉を言っているかは分からない。しかし震える口は頑なに何度も同じ動きを続けて同じ言葉を繰り返し漏らした。
「――わたしは、いいから、にげ」
…一際大きな岩の塊がそばに落ち、立ち昇る砂煙が視界を隠す。
本心で言えば考えていない訳じゃなかった。痛さと重さを訴える身体に迫るモンスターの震える心が何度も囁いていた事だ。…早く少女を見捨てて自分だけで走った方がいい、そうすればまだ助かる見込みだってあるかも知れない。……所詮肩に担いで歩こうとした事だって言ってみれば白コートの男に対する当て付けのようなもので、自分は違うんだと胸を張る為に罪悪感から行った事だった。そこに真剣に少女を心配した自分がどれくらい居たのか…恰好のいい英雄どころか人として鼻で笑われる程のひどい考え方だ。
「ク…ッ」
立ち昇る砂煙が目に痛い。細かい破片に瞬きの回数は増え涙を誘った。土のベールの向こう側に響く擦過音に疲労した身体は同調する。1人で逃げ出す事が一番の解決策だとそう教えてくれているようだった。
「……チ」
僅かに歯噛みして、掴んでいた少女の腕を肩から外すと胸の上に置き、自分だけが立ち上がった。
無言に砂を蹴り駆け出す身体は視界を邪魔する砂塵を突き抜けて晴れやかな空間の中に出る、横に向けた視線の中に踊る巨体の影が映り、未だ地面を見下ろす緑の光点が頭頂部で輝きを漏らしている。
身体が軽かった。胸の底の罪悪感を塗り潰し懸命に走り、逃げ出しながら大きく息を吸い込む。
「…ハッ」
『二番目』の解決策だった。
「こっちだぁああああ!」
大きく、声を張り上げる。あらん限りの声量に震える叫びは口から漏れると駆け抜けながら背中の後ろのクロスボウを抜き取る。
「こっちに!」
…冗談じゃ、ない。胸の中を走る熱い衝動に暴れ痛む心臓を少しだけ凌駕して張り上げる声は通路に響く。
『やりなおしたかった』。
そう願ったのは自分自身で、怖くて震えて勝手に泣き出す中であってもまだ出来る事は残っている。手に取るクロスボウのカシャリと鳴る頼もしい音、取り出す矢を番えるとハンドルを回す、キリキリと引き絞られる矢に足は砂を蹴って、少女の倒れる場所から反対側へと駆け抜けると矢先を跳ね上げ狙いを定める。
「来い!」
押し込むトリガー。巻き取り器は鈍い声を上げ矢を解放する、風を切る射出物は砂塵を突き抜けてムカデの頭に迫る。衝突音に告げる軽やかな音色は首を掲げた頭の下に、硬い衝撃と反動によって半ばから折れ曲がると矢は力を無くして地面に落ちる。
「こっちに!」
次の矢を取り番える、ハンドルを回して引き絞る。
「来い!」
引き金を引き放った。飛び上がる矢は今度はムカデの脚の一部に、節目を掠めて触れると力無く弾かれる。
駆ける足は止めず腰後ろの矢筒に指を伸ばした。この際威力はどうでもいいんだ、せめてこっちを見ろ、こっちを向け、こっちを、追うんだ!
「ああああああ!」
無理矢理に抑え付けた怖さから叫び声で気持ちを紛らわせると通路の中央部分を駆けながら腕を振るった。手に取った矢は三本、番え、引き絞り、撃つ。通常の弓に比べて一手間多い動作に連続的に矢は番えて、狙いを合わせて引き金は引いた。
空中を走り突き進む一本はムカデの身体に当たって折れ、足の付け根に触ると跳ね返る、緑に輝く光を狙って迫る矢は黒の甲殻に吸い込まれ空しい音を立てて砕けた。
ギ ギギ ギ
…しかし。
「ッ、なんでだよ!」
大きく漏れた声に空を睨み見上げる。擦れ合う音を響かせ緑の光は再び甲殻の下に隠れるとムカデは全く何一つ変わらない動きで口を開き地面の上の獲物を見下ろした。…囮として走った自分ではなくあくまでも少女の方を。
「ッ、なんでだよ!なんで!こっちに来いよ!こっちに!」
擦れる声に先に見える少女の姿は遠く、離れすぎていた。
矢の装填を終えたクロスボウで口開くムカデの顎を狙い射出する。飛び上がる矢に駆ける身体を再び少女の方に走り寄ろうと反転するが両足がもつれあって地面の上に倒れ込む。
「ガっ」
…急な方向転換に疲れた足は付いて行けず砂の上に投げ出した身体で必死に見上げる。
頼みの綱に撃ち出した矢が鳴らすのはカツンと触れるだけの軽い音、甲殻に当たった矢の感触をまるで感じないように粘液に光る牙が少女へと向かい開かれてゆっくりとした動きで落ちて行く。…離れた位置から見た姿は蠢く黒の波に少女は飲み込まれた様に、鈍く噛み合わされる牙の閉じ込む瞬間を見ていられなくて目を瞑ると現実的な力の無い無力な叫び声が口から漏れ出た。
「ああああああ!!」
ギ
アギトが衝突する。
ズドンと響く鈍い音に通路は振動に揺れ。ムカデの頭は少女ごと砂中に埋没する。高く昇った砂埃に土色の濃い煙幕……声も失い見送ったまま両腕で砂を殴り視線を上げると吹き抜ける一陣の風が砂を払い惨状の跡を見せ付けようと視界を開かせた。
――「間に、あったか」
「え」
風に乗りよく通る軽やかな声、息を漏らす自分の目に写るなびく薄い金糸の髪に手に持った銀色の鋭い光が煌めいた。
ギ チチ
砂中に没したモンスターの鳴き声が地の底から響く中、刃を構えた女性剣士は砂を払い息を吐き。その腕の中で黒に飲み込まれたはずの少女の姿が慎重に抱きかかえられていた。