12 どれだけ高い、きっと12センチの空
―ア…シアッ―
…遠く聞こえるような音が響く。まるで耳の中まで泥がつまったような感覚。
飛び出して見えた白色の鎧は黒を引き連れて奥に走り入れ替わるように駆け寄って来た別の姿、差し出される細い腕が体を抑え支えてくれると全身から力が抜けていくような感じがして立ち眩む。
――…っ……酷い……丈夫!?――
「…」
…他にもたくさんの影がある。視界の端に写る姿は一様に鉛色の姿を光らせて鈍く輝く刃を背負い、白と同じく黒色に向かって走り出す。
颯爽と駆けて行く姿を見送ると…何か……心の中にいいようのない悔しさが浮かび上がり。
「……っ」
…いよいよ頭が痛い。
開かれた自身の口が、一体何を言おうとしてるのか自分でも分からなかった。
――――――――。
「ラ、ああああっ」
長大な獣に鍔迫り合いを挑み森の奥へと誘い込む。
漆黒の影に紛れるはずのその影は、しかし所々鱗が弾け血が滲む…彼は本当によくやったようだ、その事に驚嘆を感じながら更に踏み込み振るわれる爪を掻い潜ると走る。
両手に握り締めた剣を持ち直し、後方の脹脛の付け根まで…大きく鱗の剥がれた部分を目指し、振り下ろす。
咆哮。
ガアアアアア!
血。
黒の体はその身をよじり、痛みによって生み出された音は高く大きい。
「剥がれた鱗の下を狙え!無駄を振るうなっ、彼の頑張りを無駄にするんじゃない!」
発した言葉に応え怒号が上がった。
周囲から殺到する刃の群れ、それぞれが光を照り返し、血を求め。黒の身に迫り赤色の跡を飛ばす。
鳴る咆哮に駆ける怒号。
幾重も切り結ぶ中に赤色の瞳を見る。揺れる真紅は戦闘中にあって尚も少年を見、跳ねる。
「そうはっ」
唸る獣の言葉、その意味こそ理解できないが…これより先に行かせる訳にはいかない。
「ハァアア!」
振るわれた刃が刺さり、黒の身はまた赤く。
――――――――。
――…ちょ、ちょっと…――
「づっ」
支えてくれていた腕を払い震える足で地面に立つ。たったそれだけの事なのに全からは転げ回りたい痛みが漏れ顔は歪んだ。痛くて辛い、が…それでも、絶対に動けないという事はない。
「ツ」
なかなか機能しない体を強引に引きずり一歩を踏み出す。歪んだ片足はまるで言う事を聞かなかったがそれでも構わない…前に。
折角取り戻した武器を杖替わりに使わないとマトモに歩けなかったのが悔しいが…それでも自分の力だけを奮い立たせ進む。
「ぐッ」
一歩は歩けた…なら二歩…いけるだろ?三歩だって余裕だ。四歩?五歩?…バカにするんじゃない…。
――…ま、まちなさいっ…――
やや慌てたように声が響き傍らから腕が伸びる。細い腕だが…頼りがいがありそうで、その手を一瞬、掴み取りたい誘惑に駆られるが、迷いを振り切り前を向く。
…今、その支えを受けてしまえば。もう、立てない気がして。
情けなさに逃げ楽な甘みに、それ以上何かするのを怠けて……まだ…『騙されている』のが怖かった。
「…っ」
断続的な黒い咆哮、剣の音。
既にボロボロとなった地をならすように更に足で擦り前に進んだ。
――――――――。
「くッ」
幾多の血が跳ねた…そのはずだが、衰えが見えない。
全くふざけた生命力。幾多傷を受けながらも振り回される爪で仲間が数人飛び、叩き付けた尾で大地は揺れた。
木片と土片と。飛び跳ねる有象無象の中を駆ける黒に。内に秘めた俊敏さをそのままに鋭利な刃物へと変え夜の森を我が物顔で疾駆する。
口端から漏れる咆哮は右に、飛び抜けた鎧姿はそこで跳ね。左に聞こえれば、折れた樹木が地に伏せる。
「ッ」
ガアアア
駆け巡る音に振り返ると目視もままならぬまま剣を振る。
弾けた音、噛み合う爪と刃。飛ぶ火花。
衝撃に負けた体は大きく下がり、巨獣の爪もまた赤く血飛沫を跳ねる。
咆哮に咆哮、断絶する痛みに赤の瞳。剣を振り、地を蹴り、風を切り。
「ク!」
二度目と噛み合わさる爪と刃。吹き出た風はまた砂を噛み、土煙の先へと更に足を踏み入れる。
―――――――。
「…ツ」
屈むのにすら力がいる情けない体で腕を伸ばす。土色に混じって手にするのは一本の短い矢。矢羽は小さく一般的な弓矢と比べやや短い。
痛む体の節々はバカな主人を叱責してヤメロヤメロと叫んだ。…痛みという言葉に実に絶大で…おかげで、少しでも油断すればそのまま倒れ眠ってしまいそうな気さえする。
―「…何をっ…」―
…少しずつ…見える世界に正確に音が戻ると声を見る。
どうやら自分を支えようとしてくれた人は女性らしい、少し高めな言葉に気遣わしげな気配を乗せ大きく動く瞳が覗き込んだ。
「…」
視線の遠くでは繰り返されている激しい戦闘。
黒の姿を中心に6人もの冒険者が展開し、それぞれが立ち位置を変えながら叩かれ弾かれながらも切り結ぶ。…中でも白色の鎧を纏った人物は人一倍すごい。
闇に紛れる黒の一撃を完全に見切り、返す刃で確実に傷跡を刻んで行く。
「……」
…矢を番えた。
クロスボウの先端に取り付けられた弓に固定すると、巻き取り器から伸びたフックを引っ掛けハンドルを初期置へ戻す。震える指先で握れば自分のクロスボウも答えてくれるよう…カシャリと小さな音を立てる。
整備が必要だなどと言ったはずなのに一体どれだけ酷使するのか…もし武器に言葉でもあれば散々怒られても仕方ないかもしれない。
「ハ…」
擦り切れそうな弦の糸、大きく凹んだ巻き取り器、指でなぞる折れ掛けのハンドル。
力を込め奥へ回すとキュリキュリキュリと異音混じりの音が響き、断絶間際の千切れそうなワイヤーもしっかりと動いた。
余計に力を込めた指先が痛く、腕も痛い…。
「ハ…っ」
やがて絞り込みを続けて行くと、カチリと音が鳴りハンドルは止まった。
―――――――。
振るわれる爪が、遂に空回りをする。
決定的に生まれたその隙を見逃さず剣を突き入れると一際高くなる叫び声。
「よし…!」
確かな手応えに声を上げるとすかさずに走り続ける。
モンスターとはいえやはり疲労はある。…その生命力こそ強力、無尽蔵…そう思われても実際の無限なんてありはしない。剣を突き入れれば生まれる傷、与えた痛みに吼え、高ぶる感情に精彩さを失っていく動き。
奇襲襲撃を旨とする見た目からも分かる流線型の身体。…そこにスタミナという概念は一体どこまで考慮されるか…恐らくはここまで長く戦闘をした経験すらないのだろう?僅かに生まれた笑みが口に乗った。
ガアア ガアアアア
「甘い…っ」
弱々しく漏れた咆哮に、とりあえずの攻撃。息を整えながら難なく躱し数歩飛び退きながら様子を見る。
恐らくもう大分追い詰められてるはず…後は機を狙い、チャンスを確実に仕留めて…。
「…っ!?」
そう思ってしまったからだろうか、勝てると確信してしまったからだろうか、そこに油断が生まれた。生まれた甘さを笑う様に手負いの獣は大きく飛び剣の包囲網を抜け出すと高く跳ねる。土を蹴り木を蹴り…更に遠く…上に。
「…なっ」
一連のその動きから獣が何をしようとしているかを悟り、自らの失態に心の中で大きく舌打ちをつく。
―――――――――。
「…」
…任せればいい。
それで終わる。
『お前と違って極めて優秀な冒険者だ』
…そうだろうな。
元から分かっていた事、自分の役柄じゃない。努力はした、がんばったじゃないか。その言葉に隠れて力を抜く…。
「…っ」
唇を噛んだ。
嘘の言葉があった。
『キミは戦える』
悪人がいた。
『キミはがんばれるよ』
『キミなら、叶えられる』
『抗える』
『出来るさ』
「……」
それは全て騙されている。
戦えたか?そんな事無いだろう。
努力はした…目の前の『優秀』に比べて自分のザマはなんだよ。
…そうさ、叶えられない。
抗って…で?
…出来ないんだろ?
「…くっ」
手にしたハンドルを更に、強く握り込む。
カチリと鳴ったハンドルの、歯止めを効かされたその先を求め、強く。
指の中の僅かな抵抗、力を込め過ぎた指は更に痛くなるが、それでもこの相棒は応えてくれる。…情けない臆病者の自分には過ぎた物…張り詰めた弦は更に強く引かれ、残された糸は解れを生み跳ねる。
「…は…クっ」
―…ッ!上!!…―
…声が、響く。
――――――――――。
…襲撃者はもう『襲撃者』ではなくなっていた。
その姿は今や傷付いた獣。一方的だと感じていた力も自負も実際は獣の中のみの話しであり。殺到する刃に蝕まれ、いくつもの傷を抱える。
…まるで醜い道化のよう。美しかった鱗は、黒は、今やその多くが剥がれ落ち滲み出た血で汚れている。
ガ アアアアっ
金属の切っ先が囲む包囲を抜け出して獣は地を蹴る。
土を土台にして、木へと飛び、更に高く。
白色の月が浮かぶ空の中へ広げた翼を羽ばたかせて飛び跳ねる。…身の内に巣食う燃え上がる炎、眼下に広がる地面を見て、吠えた。
隠れた感情を理解し切れない獣にとってそれは灼熱にも似た怒り。
土の上を走るしか出来ないちっぽけな姿に。逃れ惑うしか能がないと決めつけた弱者に…恐ろしいまで食い下がられた挙句に飛び跳ねて、逃げる。
―――ガリ
噛み締めた口の中で牙と牙が折れそうな程に合わさるが…しかし、まだ生きている。流れる血は止まらず、痛む場所は多いが、それでも生きている。
今すぐにでもこの場を離れ、森の奥に。小さな者の来ない場所で存分に傷を癒して休み…そして万全の状態へ戻れば…そうすれば…。
グ グ
再び戻り掛けた自負に瞳に力が宿り、黒の獣は大地を見て。
ガ
…睨む。
…それはいい…それは、それで、いいだろう。…しかし…その前に。
ガアアアアアアあああ!
あの、小さな…アレだけは…!
内に潜む得体の知れない感情に。空舞う獣は理解せず。
大きく口を開くと流れる息を吸い込んだ。
――――――――。
逃げろ !!
…誰かの叫ぶ声が聞こえる。
空を見れば浮かんでいるのは黒。
聞こえたはずの咆哮も…一瞬の事だったはずのに、もう空に居る。
「……すごいよ、な」
いいな…。
キリキリと巻き取り器は鳴る…限界は来ていた。
歪んだ矢口を手で支えトリガーには指を。フレーム自体が歪み切っている為照準は何の役にも立たず目視だけで空を見る。
少し目を細めればまるで全てが見えるよう、風に飛ぶ葉も、跳ねる土煙も、空の粒子も…そのひとつひとつまで。
「……」
嘘は嘘に固められて。
誰かを責任にして自分を保った…原因はオレを騙した誰かにある。オレを貶めた何かのせいだ。…だからっ!………そうやって繰り返し…いつも何かを悪にした。
「…」
いずれ壊れると分かってて。
それでも離れる事は出来なくて…きっと誰かが倒してくれる…それをするのが自分じゃないかもしれない…。
「…だ」
…嫌だよ。
目に見える空。月に浮かぶのは自分勝手の黒、独りよがりの赤。…その先の空に見える綺麗な白はひたすらに遠い。
届かないか?
出来ないか?
また、無理だって言って…次は何のせいにすればいい。
「…け」
…そんな事は…無いだろ…。
「行け…」
それは、たかが…目に見える指の爪の、そこから見て数センチ…ちょっと上を行っただけで見える空。
…何だよ…なら、行けそうじゃないか…このくらいの距離…オレ、だって…。
「っ!」
息が漏れ、空は睨み、指は遠く、果ては近く。赤も、黒も、白も、星も、月も、その先のどこだって。
「届けけええええ!!」
騙されたのは……これで終わりだ。
バン ッ
解放のトリガーにより巻き取り器は放たれ…爆発する。限界は来ていた。大きな破砕音は耳に残り、それはきっと声の出せない物の咆哮。
高き音に合わせ軋みが鳴り断絶したワイヤーが弾け飛ぶ、暴れる切っ先が盛大に跳ね頬を削り血を飛ばし。弦が切れ、亀裂が走り、台座は壊れ…クロスボウは真っ二つに砕けた。
「ガッ」
反動に耐え切れず臆病者の体は転がる。生み出された風は1つ、疾風となり空を駆け貫く。砂、土、緑、空気、逆風、見えない圧力。それら全てをもってしてもその風を押し留めるには足りずただの一噛みで食い破ると何もかもを置き去りにして疾風は叫ぶ。
ガ
気付いたのは獣。
常識外れの性能を持つ赤色の瞳が迫り来る風を捉え、火を宿した身をよじる。
モンスター…異常個体。有り得ない進化を瞬時に遂げて生態系を裏返す魔物。その性能は他の追従を許さずに手に入れた力であらゆるものを上回る。
…しかしそれでも、この瞬間。飛来した風と刃は。
ア
強大なるモンスターの反則じみた反射行動を完全に凌駕した。
衝撃が鳴る。
よじる身よりも先、喰らい込んだ疾風はボロボロとなったクロスボウの筐体を越え限界まで引き絞られた一閃。堅牢な牙を擦り開かれた口内を蹂躙、更に内…荒れ狂う炎の渦すら明確に切り裂いて駆け抜ける。
ガ ア ア
それは暴力。何か、と理解する前に獣の口内で爆発する痛みと暴発する熱。今にも放たれようとしていた炎の渦は喉奥で形成を崩されて、焼ける衝撃と熱波は新しく穿たれた穴へと殺到し外を目指した。
ガアアアアアア
見の内側から有り得ぬ場所を抜けて外に出る炎、空飛ぶ獣は空の上に火の災禍を描きながら地に落ちる。緑の海へと落下し、追い打つのは新たな痛み。足は折れ翼は曲り空駆ける巨獣は地面を舐めて何度も何度も投げ飛ばされながら蹲った。
ア ガッ アガ ア
…それでも、獣は生きている。身に余る生命力は彼を生かし口奥から垂れ流す痛みと焼け爛れる熱さとを一度に味合わせのた打ち回る。
ガ
「……」
…見開かれた瞳の一瞬に、目に写る白の色。
空舞う月を、色濃く変えたかのような白色の姿。手にする凶刃は星光を吸い取って鈍く輝き。獣を睨んだ…。
ア ァアア
……この時、黒は初めて感情を理解する。
怒りと自負に押し隠した見えない感情。それはわざわざと誰かに教えてもらう物でもなく本来あるはずの…『奪われる側』ならば持って然るべき普通の気持ち。
…恐怖と。
「チェック」
獣が何かを重ねて吠える前に無慈悲な白は鋭く放ち。…次いで爆散する痛みは頭の中…初めて感じ…終わりを感じさせる痛み。
ガ ア ガ
…自身の壊れる音を聞きながら、獣の赤色の瞳は…ゆっくりとその色を失った。