11 キーンエッジ
土が爆ぜる。
黒色の森に輝く一筋の赤い光。血塗れの爪は月光に照らされ鈍く光り叩き付けられた地面が穴と弾ける。
散る破片、飛ぶ泥。周囲を漂う飛翔物の合間を抜けて…駆ける。
身体は回る、黒も回る。突き刺した爪を横薙ぎに跳ね、身を捻る横で鱗に覆われた黒の尾が揺れる。
風。
轟音を響かせ迫る尾はまるで鞭のように、長い樹木を喰らい付き横から叩き折ると跳ねる。
血風に衝撃。煽られた体は弾かれて破れた肌からは赤が舞う。
咆哮が、走る。
苦悶が、重い。
空に浮かぶ月を背に、黒の体は高く跳ねる。土は踏み台に、木は足場に。およそ生物としての動きを大きく外れた機動に長い爪の間から挟まった土が零れ、巨躯は回る。
高度からの急落下に穴だらけの土に新たな傷を刻み。溢れる衝撃に体は飛んだ。
声が漏れる。
強引に息が吐き出される。背中から樹木にぶち当たり。押し出された空気は口から漏れて。
更に響く咆哮は前方、眼前に広がる牙の群れ赤の舌。
押し込む。
手の中から生まれた風が放たれ、空気を切る。
衝撃に揺れたのは今度は黒の方、飛射物は頬の鱗を弾き方角を変えると明後日の方向へと消えて行く。湧き上がる痛みに黒は睨み…吼える。
――痛い。
…打ち所が悪かったのか左肘の先からうまく動かない。突き刺さった樹木の破片は振り回す体に負けて飛び。見据えた夜の先に赤色の残光がブレるように飛びまわる。
木を背、足は地。闇の中を飛び回る黒は離れていたはずの距離を簡単に縮め。追い付けば横薙ぎに払われる爪が視界の端に写った。
「ッ」
よじる身体は最大限に、土を蹴り投げ出すように避ければ背後からは背を打つ衝撃。斜め下方に振り下ろされた爪は再び大地を抉り、砕けた砂が空に舞う。
…間一髪どころじゃない完全に掠った。背中の上から下に、千切れような痛みが溢れごまかすように地面の上を転がると立つ。
痛い。
けど、動く。
痛い。
けど、走る。
立ち止まればすぐに見える終わり。
不規則に聞こえる風の収束音が耳を打ち、これでもかと開かれた口の奥で作り出された赤色の奔流が回っている。流れの先は自身を捉え、吐き出し、狙われ。
「ク」
衝撃と熱波。
地面に接触し同時に弾け飛んだ赤の塊は、土を草を…およそ邪魔する全てのものを吹き飛ばし眼前の景色を開かせた。
熱い…溶ける程熱い。
肌を焼き、皮を嬲る熱い波に身じろぎするように体を動かし、指を引く。
咆哮に、溢れる熱、飛ぶ土、鳴る風。
それら全てを切り裂き放たれた旋風は空を駆け…黒に比べてあまりにも小さく、まるで爪楊枝のような矢は、大きな翼の付け根を確実に捉え抉り…黒色の鱗を数枚吹き飛ばす。
「ハ」
痛い。
ガ アアアッ
痛いだろう?
黒の巨躯が跳ねた。
真紅に光る赤色の目は一層強く、一層赤く。その動きは先程に比べて数段跳ね上がり。駆け抜ける残像が赤の光のせいでまるで陽炎のように。
「グっ」
霞む視界に黒の爪が横切る。咄嗟に掲げたクロスボウ、避ける間もなくかわす余裕もなくそのまま受け入れると突き刺さる衝撃に動かされ体は飛んだ。
…毬のように転がる体は土を蹴り、草葉の破って、樹木の肌に背中から突き刺さるとようやく止まる。
…内側から響く重い音。ゴキリという耳障りに合わせて赤色の混じった吐息が漏れる。
ガ アア アアアア
ずるずると木を背に崩れ落ちる様を見て、赤色の目は落ち着きを取り戻したかのように細まる。
咆哮に混じる吐息、食らい吐き出す呼吸と共に巨躯は深く一歩を踏む。
…まるで車に見せたソレと同じく、足取りはあえて遅く、早さと鋭さを無くした代わりに風格でも纏ったか。
重い足取りに見下ろす赤が混じる。
「…ハ」
…息苦しい中、土を蹴る。
痛い、が…それと同時に笑わせる。
足を犠牲に瞬間的に駆け出して加速すると…目に写る黒の姿は大きくその内側に入り込むようにトリガーを引く。
射出の音、肩まで抜ける衝撃、反動で指も痛く、曲がってないかと心配だ。
それでも巻き取り器は元気に音を鳴らし、放たれた力は矢を放つ。黒色の下に跳ねる風。
極至近だったからか放つ矢は黒い鱗を破り、その内側から小さな小さな血の羽を開かせる。
…痛い、だろう…。
――――――
咆哮が…聞こえた気がした。意識が朦朧とし始め耳がひどく遠い。
振り上げた脚が腹部の下へと刺さり抜ける衝撃。
体は大きく浮かび上がり滞空する空の中で爛々と輝く赤がすぐ傍に見えた。耳うるさい音に振り抜かれる翼。衝撃が体を殴り何度目かも分からない響くゴキリと嫌な音。
衝撃、痛み、風。
力の抜けた指先からクロスボウが離れていくのが目に見えて、必死に腕を伸ばすと抱き締めた。
…そこから先、生まれた衝撃は上か下か……もう、よく分からない。
空中を滑り落下した身に刺さる草、それでも勢いは止まらず二転し、三転と繰り返し。
「…」
四転目に、ようやく止まった。
…痛みと共に足の下に感じる変な感触。
「…」
見れば片足から先が曲がり力がうまく入らない。
「…」
それでも何とか次の矢を番えようとし震える指先で矢筒を探すとあるべき場所にそれは無かった。
「…」
収束していく空気の音が響く。
―――――
暴虐なる咆哮。漏れ出るその音はまるで威厳も余裕も感じられず、闇雲に悪食に空を食らうと三条の火を吐き出す。
一筋が左後方に飛び着弾、炎上。右側遠くに1つ着弾、爆発。
頭の上彼方を擦り切りながら哀れな木を喰らうと燃え上がる。
「…」
僅かに見えた先で黒の下に矢筒が転がってるのが見えた。恐らくは蹴り上げられた時に落ちたのか、千切られたベルトから先はだらんと土に触れ、中身の矢は無造作に飛び散っている。
「……ハ」
…何…だろうな。
自分も黒も…ひどい有様だった。随分とボロボロで雑巾のように…いや、これは一方的に自分の方なのだが黒の方も総じて酷い鱗の多くが抜け落ち零れ。…可哀想に強そうだった姿も台無しだ。…そう思うと少なからず笑いが込み上げてくる。
「は…」
クロスボウを。矢は番えられていない。
「…バン」
―――――
咆哮が響いた……ような気がした。
それは絶対者の放つような圧倒的な叫びではなく怒りに任せたただの獣。赤き瞳は尚赤く充血し、闇の中にその光だけがやけに眩しかった。
「バン…」
トリガーを引く……何も出ない。
獣が大地を蹴った。猛然と、ただ一方に走るだけの何も考えない突進。地面を削り迫る疾走が目に写る。
「…」
…避けないと。
…そう思うが力が入らない。
まだ、これから…まだまだ…これから。
そう言い聞かせるているのに騙しているはずなのに今更身体は拒絶する。必死に動こうとすればする程きっと、その姿は哀れで、ふらふらと揺れる様はかなり、酷い。
「…」
…よくやったなんて言うな…まだ…何も出来てない。
「バン」
口だけだ、何も出ない。
「バン」
…勝てない。
「……クっ」
ガアアアアアアアアああああ!
疾走が、いよいよ近くに見えた。
結構…がんばったかもしれない。…どれだけ逃げられただろうか…車の中身は逃げられただろうか、それも分からない。
「…」
あの勢いでぶつけられたらどうなるだろうか。耐え切れない、か?まだ、頑張れる?
ひしゃげても、曲がっても…それでも…それでも動ければ。
…体全体が悲鳴を上げている。
「あ…っ、ああああ!」
…立つ、一歩踏み出した。無事だった方の足を地に立て無理矢理でたらめに構えたクロスボウで黒を捉える。トリガーは手に矢口は鷹のように睨む。
逃げない。怖さに負けて離してしまわないように…もう手放さないように指先に残る力を総動員に縋り付く。
来い。
こい、こい…来い。
「…ク」
…それでも、やっぱり怖くなって衝突を前に目を閉じてしまったのは…許してほしい。
やっぱり無理だったか。…努力はしたんだ……笑うかな。
「…は」
衝突に身構え、泣きそうな瞳で歯をくいしばる。見えていないから聞こえないという訳じゃない、地を蹴る足音はどんどん大きくどんどん近付いてきて。
…そして。
「ああああああっ」
大きな、衝撃音が漏れた。
指は、しっかりと武器を持っている。
「…う?」
…しかし、それは音だけ。溢れる痛みも、来るべき衝撃も来ない。…恐る恐ると開く目に見えたのは、跳ね上がる土に、高き埃。
そして、白。
―――――――――――。
…予感があった。
「グっ」
腕を伝う衝撃…骨に響く。
僅かな…期待があった。
「……」
痛覚が鳴く、痛いからと悲鳴を上げる。
「…は」
それでも、浮かぶのは笑み。
…初めて見たのは竜車の上だった。
周囲に溶け込まず、1人一心に武器の整備をしている姿は妙に気になり、自然に声を掛けた。
…二度目に見たのはその日の内。
血の跡を追い森の中を行くと、その『目』があった。…まるで暗い炎でも宿したような一対の物言わない瞳…その視線に一瞬射抜かれ…そしてその小さな背の後ろには守る様に死体があった。
グ ルルルル
低いうめき声。赤い瞳が自分を見ている事に気付き、負けじとその目を強く見返す。…怖さなど感じない
…三度目に出会った時…これは一番の衝撃的だった。
討伐隊として組織しそれでも自分達が後れを取ったモンスターに、彼は1人逃げていた。…逃走を弱虫というか、心無い仲間はその行為を情けないと大層に笑ったが、自分には…笑えない。…ならばお前は逃げられるか…自分は、逃げ、切れるか…。…答えは出ない。
…最後に見た時は自分から。彼を励ましに向かった。
森の中で見つけた矢筒、それを手土産の理由にし、そっと諭した。
『よく考えた方がいい』
…それは、ちょっとした老婆心のようなものだった。もう少し彼を知りたいという思いが湧き始めていたのかもしれない。…例え追放の処分を受けたとしてもあの酔狂なギルド長の事…真剣に頼めばもしかしたら許して貰えるかもしれない、許されないまでも何か恩赦があるか。…そんな浅い考えから生まれた一言だった。
…だったのに。
「く…」
全く、『こんな事』になる為に言ったわけがない。
それがどうだ、今の君と来たらどんな格好をしている。体を守る防具どころか格好はただの旅衣装…随分と怪我をしたな……それに、取り返したか。君の誇り。
「く…く」
真似出来るか?そう自問すれば余裕で首を振る…そんな無茶は当然出来るはずがない。
「くく…はははは」
込み上げる何かが笑いに変わった。何か…忘れていた胸の底は熱さとなって。そして込み上げてくるこの感触…非常に、気分がいい。
グ
「っ!」
だから…自分が感じる痛みなんて気にならない。
爪を受け傾いた剣も、勢いに負け押し出された土も、手の中にある重みも何もかも。
目に写る赤の瞳。黒の魔物、その瞳を正面から見返して…そして吼える。
「お前なんかに、くれてやるのは勿体ないっ!そうだろう!?」
剣を振り…反らされた爪は地に落ちた。