24 発狂の赤(1)
オ ァ ヲオオ
──雨夜の下に歪な咆哮がこだまする。
ヲヲアアアァ
咆哮の発生源たる『怪物』の傾いた口から、垂れ流され続ける声に定量は無く絶えず音程の波を行き来する。
高く聞こえれば低く変わり、低いかと思えば突然高くなり……。
生き物のようで生き物ではない叫び。終わりの見えない狂った咆哮は何事かを必死に訴え続けているようにも耳に聞こえるが……実際に当のモンスターには何か伝えたい事がある訳でも叫びたい言葉がある訳でもなく、突き詰めて言ってしまえば最早明確な『意思』と呼べるようなものは殆ど残ってはいなかった。
オァヲァァオオオ
繰り糸の切れた身体を突き動かすのは果てのない『繰り返し』。
村の人間から【手長】と呼ばれていたはずの一匹の獣は、眼底の奥深くまで抉るように突き刺さった短剣により既に『事切れていた』。
ァヲァアァ
……しかしそれでも怪物は動き続ける。存在そのものも異様ながらその身の原動力足るナニカはより一層底知れず、とうに掠れ果てた獣の思考では一瞬の抑制すらもままならない。
ガ ガガ ヲアアアアア
死した獣の叫び声が響く。
先の見えない頭の中に沸くのはくすんだ払う事も出来ない深い霧。白く白く黒く赤く赤く赤く黄色く……制御の手を離れガムシャラに突き出される長い腕が周囲の建造物を拭って壊す。
オァ ヲァヲ
鋭い爪を孕んだ凶悪な指の先。禍々しくとも見える叩き付けは獣らしい野性的な攻撃本能か、あるいは救いを求め伸ばされる開いた手か。
ヲァアアアアアアアアアア
──微かな疑問に明確な答えを返せる存在は誰もいなかった。
──────。
「消せ」
暴れるモンスターを下から見上げ決めておいた命令を周囲に送る。漏れ出た言葉に従った村人達は三々五々と散って行き、奇声とも取れる掠れた声を上げ合うと残された家々の灯りを自分達で『消していった』。
「──」
家の中へと投げ入れる水の音、手に取れる程度の端材に叩かれ次々と消されていく橙色の灯火。
……やがて周囲の灯りが全て消え自然な夜らしい暗闇が視界を支配してくると見上げるモンスターの中に明確な変化が訪れる。
ガ ヲアア
影の奥で黄色く輝く瞳が村一周をぐるりと見下ろし、全ての光が消えた事を目にすると物理的に歪んだ口端がニタリと一瞬笑った……ようにも見えた。
「……小さな山の形だけの大将か」
思う通りに暗がりを手にしたモンスターを見上げ──コイツは『単調』らしいと、心の底だけで俺はほくそ笑む。生き物らしい枠中にある思考力の低い単純さではなく、もっと無機質で機械的な単調さ。
明らかに目で見ていて分かる光を狙う行動はモンスター化する以前からの習性か、あるいは変化後に得た灯りが煩わしいという感情かは分からないが問題はない……どれだけ変化し、例え尋常ではないモンスターと言っても狙う先が任意で決まる存在など単なる欠陥品と言って間違いはなく。
過度に警戒する必要なんて何もない……。
「……灯せ」
手に持つハルバードを新たに握り直し、決めておいた二つ目の命令を口から漏らす。
背後から聞こえる慌ただしく人間の動き回る音、カチカチと硬質同士のぶつかり合い、小さくボッという空気の音の後に生まれ出でたオレンジの光が俺の全身を避けて周囲を前方照らし出す。
急拵えで用意させた焚き火の火。柔らかく変わった雨の下でも揺れる炎は欠け材の傘により守られ、左右に揺れる光の煌めきに合わせ地面に写る俺自身の人影もゆらゆらと微動を繰り返し雨に汚れた土の上で踊っている。
オァ
「……」
……モンスターの中に変化が訪れた。
黒く変わったと思ったと確信していた夜の世界。先の見えない暗い闇の中で一際目に留まるであろう小さな炎の彩りが『ヤツ』にとってどれだけ邪魔か知る由もない。
ガ
ジロリと見下ろす黄色の瞳がこちらをポイントする。不格好な口の中から覗く白い牙が口端の壁を通り抜けて外へと飛び出し。耳を騒がせる騒音は寄せては引く波の中でも次第に強く変わって行き。
ガ アォァ
「……目障りか?」
ヲ ォ
「なら、消せばいい」
ヲア オアア
「来い」
揺れる咆哮は強く、強く、強く。
一点の境界を越えると炸裂した。
「狩ってやる」
ガヲオアアアアアアァ
……知性のない化け物が人語を解したはずはない。しかし奇跡的なまでに合ったタイミングの中で吐き出される咆哮は空気中をこだまし白色の霞む影を残す爪先がこちらに向かって『伸びてくる』。
「──ッ」
歪んだ硬質の螺旋、曲がりくねった爪の集合。
暗い森の中で見た時と変わらないかもしくはより増したと見える速度の攻撃も、背後に背負った小さな炎により方向は限定され。来るタイミングもやり方も分かっている──ならばそんなものは……
「欠陥品がッ!」
炎の煌めきを照り返し風を裂く刃と光。
長い手先の特攻と上へと振り抜かれて行く黒の刃との接触は身体の手前で喰らい合い、視界を焼く火花と共に対象を空へと打ち上げる。
宙を駆る黒いハルバード、反らされる爪。
「シッ」
振り抜いた速度を殺す事無く一歩を踏み、二歩で地面を砕く。
接近する風の音、一際闇の中に残る白色の軌跡。
受けて立ち……噛み砕く。
振り上げた凶刃は頭上で回転し、漆黒の斧刃が飛び掛かるのは『二本目』の腕。正面からの拮抗は短い時間の間、肥大化した手先は自重の影響により素早く下降し狙った人間の皮膚すら削る事はなく、爆ぜる泥を浴びて土を滑った。
俄かに起こる人の声による賞賛。耳障りな虫の羽音。
弱く風を切る音を耳が拾う。
初撃で反らされた爪が遠くで地に触れ、そのまま逃げ帰る巨大な蛇のように大地を擦って行く。
「1」
──体勢を直し、ハルバードの長い柄を脇に。
「2」
半分腰を落とした状態で土を蹴る。踏み砕いた泥の欠片に混ざり跳ねる雫。黒闇の中を駆け、視界の端で蠢いて揺れる皮の無い剥き出しの肌を見る。
血管すら浮き上がり血肉を晒した化け物の腕を見下ろし、血を吸う歓びを悟った対モンスターの凶器、風裂く音が愉悦に染まった喝采のように耳奥を騒がせる。
「3ッ!」
ガ
叫び続ける化け物の声すら寸断する確かな手応え、刻まれた肉の奥から迸る血の赤が降り続ける雨に逆らうように上へと飛ぶ。
「──浅い」
……しかし、それでもまだだ。肉を裂き、血管を飛ばしても未だに膨張した肉に阻まれ奥深くまでは達する事が出来ない。
刃に抉りを入れ、傷口を開こうとするよりも先に暴れる腕が地面で跳ね乱暴に刃を退けるとモンスター本体の元へと帰って行く。
「チ」
遠く、未だに屋根の上から見下ろす化け物の身体までは長柄武器のハルバードの刃を以てしても届きはしない……何か遠くから攻撃出来る物でもあれば話しは違うが、それはない。……数歩分を踏み出してしまった足を地を蹴って戻し。焚き火の炎の前へと戻ると俺は声を振り上げる。
「よし行け、走れ!」
待機していた村の人間達の声、三つ目の命令。背後で肩を寄せ合い固まっていた人間が俺の言葉に背筋を伸ばし前を向いて歩き、走り出して行く。
ガオアアアアアア
──駆ける人をわざわざ待つ程、怪物の咆哮に理性はない。一度巻き戻され再び差し向けられる二本の手。ほぼ同時に宙から迫るそれを何度も目で見て慣らした身体を合わせ反応して行く。
「シッッ!」
暗闇の空に穴を開けるように回転し迫り来る爪。
両足を前後に長く広げ、直線的に飛んで来る攻撃に向かってこちらも直線的に槍を返す。
短いステップから繰り出される線と点。下から突き上げられる突きと接触し空へと反転する爪。
……視界の端に映った村人達の行動、その殆どが村入り口へと向かって走って行く。頼りになるかは分からないが今尚村の入り口には女商人の乗って来た大型の馬車があるはずだった、その中に足の遅い人間達を詰め込み……残った数人、比較的若い男達が入り口へと駆ける集団とは逆に暗く開いた森の口へと走って行く。
ヲアオオ
「ッ」
風を切る音。
圧迫感。
二本目の腕を前に身体は自然と動き、対応する俺の胸中に渦巻いたのは眼前のモンスターでもなく逃げ惑う村人達の事でもなく俺にとっての『仲間』の事だった。
──【コワード】と呼ばれる弱い冒険者の事じゃない。
俺にとっての必要な仲間。『誰でもいい』。俺が戦い、帰り、その間に死にさえしない仲間なら……しっかりと生き残ってくれているという実感を俺に与えてくれさえすれば本当に、誰でも。
「クッ」
ヲアアアアアアアアア
「絶対に、コワードを見付けて来いよ貴様ら! 出ないと殺すぞッ!」
振り抜いたハルバードに返る重い感触。
爪を擦る鈍い音、吐き出したくなる異臭。火花散る奥に見える肌を見据え黒い柄を更に繰り、鋭利な刃を以て肉を裂く。
小さく刻まれた傷、跳ねる血、耳障りな咆哮。
風の音、雨、背負う火と自分自身の黒い影。
「が、あああああ!」
巻き戻される腕が天頂へと帰り、黄色の瞳の元で輝きを増す。
握り締めたハルバードを伝わり刃と矛先の歓喜する軋みの音。
身体の軋む音。
追い付き、殺せはしない。
なら、何度でもやってやろう。何度でも繰り返し、肉を削いで、その鬱陶しいしい腕を落としてやる。それは冒険者の矜持や村人を守る正義感などではなく単なる個人的な意地。
「二度とは、渡さない」
ガオヲアアアア
「この、モンスターがあッ」
白が迫り走る。黒が向かい走る。
鈍い音、揺れる肩、追撃に跳ねる血潮。
延々と繰り返し繰り返し、村人が仲間を見付けてくるまで続けると心に誓った俺の行動は、唐突過ぎる赤と爆音によって遮られる。
「ッ」
吹き付ける熱のこもった風。土埃では済まされない、黒色の煙が地を這うように迫り身体を叩き付ける。
「なんだ」
見上げた視界の果て、黒煙に邪魔をされる向こうで赤色の炎がとぐろを巻いて空へと伸び上がり。
空中から落ちてくる雨粒に混じり無数の光の煌めきが視界を満たした。夜空など見えない黒雲の下で瞬く光は星のようで、しかし非常に見覚えがある……そう、俺の今手にしている『凶器』のような冷たい光。
「ッ!?」
僅かな滞空時間を終えた後に炎によって巻き上げられ雨粒を吸った鈍い刃が幾重にも重なり合って。
落ちてきた。
やっと書く時間が取れました。非常に遅れてしまいまして平に平に。