21 願い求めし怪物(4)
「――」
老いた私の、衰えた目と耳では何が起こったのかを全ては理解する事が出来なかった。
白い瞬きが見えた。赤黒い線が走る。
暗い森の入口と開けた村中とを結ぶように一本の太い線がうねりを以て貫いて行き、視界の端を掠め視野の限界のその先へと消えて行った。
……カ、ハッ
「──」
変わらない雨の音。
地面へと落ち、跳ね返る水音に混じってくぐもった人の吐息が空気を揺らした。……前へと固定されていた私の目にも明確で分かりやすい変化である『光』の推移が見えた。見やすいようにと森へと向けられたはずの灯火の炎が傾き、持ち主の手を離れ地面に落ちると橙の華を散らす。
「──」
ドクン、と。私の中で心臓が嫌な鼓動を漏らす。
凝り固まった首の筋肉を動かし、音の聞こえた方へと目を向ける。
『異常』を追う事は実に簡単でありありと走って行き今尚残る線の先……グリッジに言われるままに手製の光を掲げていたはずの一人の村人の姿に、白色をした針が肩口の辺りに生えている。
ガ
次々と彼から零れ落ちる赤色の液体。溢れ出た飛沫は彼自身さえも鮮やかに染め上げ。汚れた肌色の奥へと向かってその身の半分以上を没した白い針は貫き終えた姿のままにまるで『生き物』のように怪しくのたうち回っていた。
「な」
――間抜けにも私の口を突いて出た言葉は何の会話にもならないその一音のみ。
私だけではなかった、辺りに立っていた他の村人達も尋常ではないその事態にただ呆然と見送るだけで固まってしまっている。
動かないといけない、助けないといけない。頭では分かる人としての理性的な部分を引き戻してくれたのは、皮肉な事に亡失とする私達を生んだ正体であろう歪んだ叫び声。
折れた木々の合間をすり抜けて空気中をビリビリと震わせる咆哮に合わせて白の針は一段とその挙動を激しく増し、たわんだ道中の線を鞭のようにしならせると貫いた村人の身体をその場で投げ捨て、空中を好き勝手に泳いで暴れだす。
「……あ。大丈夫か!」
「ッ!? くっ」
倒れた村人へと向かい今度こそ声を張り上げたのは私が最初であったが、考えるより先に行動を。いち早く地面を蹴って走り出したのは息子であるグリッジの方が先だった。
人よりも一回り大きい恵まれた体格で迫る影に、縦横無尽にその場で踊っていた線と針は暗い森の中へと引き戻されて行き、風を切る音が収まると同時に咆哮が移動を開始する。
――ァ
地面へと投げ出され、倒れた彼に今も意識があるのかどうかは離れている私には分からない。
必死に迫ったグリッジの太い腕がその身体を抱き起こしても力なくぐったりするばかりで赤黒く口を開いた大型の傷からは絶えず血の河が流れ続けている。
唐突に辺りの人間達の声が戻った。事態の察しと目に見えた異常に自身の中で折り合いが付けられたのだろう、一瞬にして騒然と騒ぎ上げる人の声と声。意味を為さない暴言に近いその言葉のやり取りを嘲笑うように。再び森の中から風が走り出し。鈍い咆哮がこだまする。
「──ッ!」
森へと戻した私の目に、今度は映ったのは影程度にしか見えない『二本』の白だった。高速の飛来物は地を擦り、村を守る柵を壊し。森入り口近くにあった一軒の家へと狙いを付けるとその戸口へと吸い込まれていく。
「ぐ」
殺到して迫るその白の姿は、投下された餌へと群がる飢えた魚の群れのようにも見え。ビチャビチャと雨の中を不規則に踊り回る動きがより一層に私の中の嫌悪感に爪を立てた。
「コワード君達を、呼んで来るんだ」
「え」
「早くッ!」
一番近くに居た村人へと恫喝にも近い声を発すると私は走り出した。
声を掛けた彼が、私の言う事を聞いてくれるかどうかは二の次だ。今は異常に晒されている一軒の『人の住む』家へと向かって足を漕いだ。
グリッジの言伝の成果か過度ともいえる程に辺りの家には灯りが灯されている。
周囲を照らすオレンジの光に浮かび上がり、正式に見えた白の何かが針などという生易しいものではない事が次第に私にも分かってくる。
「ク、こんな」
それは……例えるならばそれは捻じ曲げられて伸ばされた太い杭。
鋭い切っ先を備える牙は空気中をひどく暴れ、本来であれば頑丈である家の戸口を構う事なく上から傷付け続ける。
一度の接触で木の表面が剥がれた。
二度の接触で細かい破片がバラバラと降って落ちる。
三度、四度、立て続けに迫る連鎖によって単なる木材に過ぎない扉は軋み混じりの悲鳴の声を上げ。
「ニゲッ」
そして……砕け散った。
ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲッ
破壊によって開かれた扉の穴を縫い中へと侵入する白と線。
老いて、くたびれた私の足は今尚駆け続け……思う通りには動かないこの身体が憎くて堪らない。
掠れる私の弱々しい声に変わって伸ばされた手の平が家へと向かって大きく開き。
皺の寄る、無力で細い腕の先で人の声が漏れた。
『う、わあああああ』
悲鳴。
年を経た男のしわがれた声と衰えた女性のか細い言葉。足下に絡み付く土の粘性が一際高まったように感じた。吐き出した大量の息の反射に吸い込まれた湿った夜気に混じって雨特有の滲んだ匂いが鼻先を擦り上げる。
「ま」
オ オヲヲヲヲヲ
「まて……やめッ」
続く、『破壊』の音。
次第に間隔の狭まっていく人の声。
枠組みだけの木製の窓が内部の暴力によって砕け散り。煌々と漏らしていた炎の灯りが最後の役目として発した強い光に
「――ッ!」
明確に映し出された、赤い、雫が見えた。
「く、あァァ!」
追い付けはしなかった。
ようやく辿り着いた家の軒先から内部を荒らし回った線と白が小躍りを繰り返しながら抜き放たれ。宙を舞う生物の鼓動に合わせ黒い森の中から尚一層に黒い大きな影の塊が飛来する。
「な」
見上げる私の目に黄色の小さな光点が雨粒を裂いて飛び上がるのが見えた。
本来の皮があるだろう部分は軒並み裂け、赤黒い、血肉そのままの色が主となって顔を出している。均一感のない膨れた身体で後ろ脚だけの鋭い爪を叩き付けて影は到来し。自らが荒らした家の屋根上へと接触するとその身をジタバタと震わせて固定する。
過度の圧力によって削ぎ落とされた屋根材の一部が視界を縦へと切って落ちてきた。不格好な身体の攻め立てる脚が触れる度に家全体は大きく揺すられ。周囲の光も届かない影に塗れた場所の中心から、ぼんやりと灯される黄色の光が辺りをねめつける。
「……」
寝物語だと……自分で勝手に決め込んでいた事を私は後悔した。
あるはずないと、あったとして私達には直接関係ないとたかを括っていた存在。
膨らんだ肢体。
止まる事を知らぬ叫び。
僅かな特徴を残したこびり付く程度の毛皮の残滓。
「オ、まえ……は」
確かに、それは『生物』だった。
生き物には違いないがこの場に存在する事すらそぐわない、常識外へと逸脱した成れの果て。
ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲ!
信じられないそれは私達の目の前で確かに存在すると訴え掛けるように声を上げ。村の者達を震わせる。
私達が嘘として願った望外の怪物が。その身を現実のものとして存在し。
照らされる家々の強い灯りを嫌うように長いその『手』は次なる獲物へと向け爪を伸ばした。