19 願い求めし怪物(2)
「何だ、この音」
ボソリと、村人の誰かによって呟かれた言葉に明確な答えを返せる者は居なかった。
「……」
──居るはずがないのだ。
木の壁など役にも立たず部屋へとなだれ込む異質な『音』。
遠い吠え声にも似たその音は熱を持ち始めた議論の場を止めさせるだけの力があり。突然の事に言葉を無くした村の面々が互いに顔を見合わすだけの重い沈黙が訪れる。
静かとなった室内で引き立てられる外を吹く風の音。
打ち付ける雨。
些細な自然音に紛れ食い潰す、著しく自然からかけ離れた音に聞き覚えのようなものは全くない。
重く、高く、低く、冷たく。
高低に非常に幅のある震える音は獣の鳴き声にも似て耳に残るが……このような声を上げる生き物が果たして森に中に居ただろうか。
何年を、いや下手をしたら何十年をこの村で過ごしてきた『私』でさえ全く聞いた事のない声に、村人達が騒ぎ出すのも仕方ないというものだ。
「何か、変じゃないかコレは」
再び誰かが声を漏らした。響く音に、止む気配は一向にない。
ざわめく数名が床から腰を上げて立ち上がり、一様に強張る顔に浮かべたのはありありとした不安の色。
騒ぎは他人に伝搬し、不安というものは非常に人に感染しやすいものだ。
『おかしい』と声を上げる者が増え、『変だコレは』と同調する者が狼狽える。『何なんだ』と得体の知れないモノに対する悪態は騒ぎを増長させ……
騒然となり掛けた場を見渡し、慌てる他の村人達を不愉快そうな目で睨んだのは他ならない私の『息子』だった。
口から漏れる溜め息混じりの息、人より頭一つ分飛び抜けて高いグリッジは騒ぐ皆の注目を集めるように床を数度強く叩くと鋭い声を上げる。
「黙れッ、静かにしないか! 情けない」
「っ、いやだがコレは──」
「『だが』じゃない、落ち着け! ……どうせ大した事はない単なる獣だろう」
「ぇ……獣?」
「そうだ、他に何がある。全く、耳慣れない遠吠えを聞いたからといってここまで狼狽えるなんてお前らは震えた子供か! みっともなくて見てられんぞ」
「あ、いや、そうか……獣。なんだ」
「……」
──そんなはずがない。
グリッジの言葉にそう反論したかったが根拠のない言い切りと『震えた子供』という言葉に反応し、周囲の人間はバツの悪そうな笑みを浮かべるばかり。
何も言わず、疑いもしない。
少し考えれば分かるだろう。
森の木々を突き抜けここまで聞こえるこの『声』がただの獣であるはずがない。
歳月や経験、その他小さな差はあったとしてもこの村で生まれ育った者なら誰もがおかしいと思えるはずが……それが自分達のリーダー自らよって否定されたのだ。
浮かべた不安は鳴りを潜め、ただ動揺した自らに対するおかしな気恥ずかしさと愛想笑みが残る。
「待て、グリッジ」
私は黙っている事を止めて声を上げた。
何か重大な見落としをしているような、そんな漠然とした虫の知らせが胸に騒いだからだ。
「……」
「グリッジ……」
しかし、向けた私の視線に合わせられる目は無かった。
何も聞こえなかったように、何もなかった息子は続ける。
「今はそんな小事に関わっている時じゃない。俺達が本当に考えるべき事は、あの冒険者達をどうにかしてやるその方法だろう」
「まあ、それは……そうなんだが」
「……分かっている。一応、注意は促そう、どうやらおかしな獣がうろついているらしいからな。些細な事だ、普段より多目に火を灯しておけば問題はないだろう……リュッセ」
「あ、はい」
「一走り家々を巡ってその旨を伝えてきてくれ」
「……ハイ」
「……」
グリッジは傍に座っていた比較的若い村の人間に声を掛けると使いに走らせようとする。
言われた彼も、先程は動揺していた一人だ。響く物音に何か思う部分はあったのだろう、特に大きく反論する事もなく素早く頷くとそのまま部屋を後にしていった。
「さて話しを続けよう。先ずどう寝首を掻くかだが、奴らが寝静まった後人数に物を言わせて襲撃を掛けるのが一番手っ取り早いだろう。どうせ手長一匹満足に倒せない口だけの奴らだ、不安なものは何もない」
「グリッジ……聞きなさい」
「……そしてうまいこと武器と装備を取り上げたら次は俺達の仕事だ。あれだけの物があれば俺達でもきっと簡単に手長を倒せる。それだけの代物なんだ」
「グリッジ……お前は」
「目に物を、見せてやろうじゃないか。あんな格好だけ、実際に力なんて大して持たない道具に頼りきった奴らに身の程というものを分からせてや──」
「グリッジッ!!」
「…………」
荒れた声で、強く睨む。
そこまでして初めて息子の顔は私を見た。しかしそれもただ目を合わせただけという単純なもの、表情や動作な明らかに浮かぶのは面白くなさと呆れた様子。
真剣に、言葉を聞こうという態度は微塵も感じられない。
「……っ」
所詮は年寄りのうわごと程度にしか捉えないか。冷め切った態度に心にささくれ立つものを感じるがそれでも言わなければいけない。
最低限の『止めるべき所で止める役』、それが老いたる者の仕事だと私は信じている。
「こんな下らない話し合いはすぐにやめなさい」
あえて強い口調で、決して目を反らす事なくグリッジを見る。
「まだ遅くはないんだ。今からでも考え直し彼らに謝ろう……自分達で勝手に呼び、騙し、利用して。そんな相手をうまくいかなかったから今度は襲うなどと。そんな事を考えるべきじゃない」
「……奴らが役に立たなかったから、仕方なく」
「役に? 何のだ。元々モンスターなど居ない架空の依頼だったろう。体よく手長を倒して貰えたら運が良かったと、そんな程度のものだったはずだ」
「……」
「お前が……いやお前達はこの村の事を考えて、そして行動してくれたのは喜ばしい。それが分かっていたからこそ何も言わなかった。彼らにもだ。しかしこれ以上の事は筋違いとなる」
「そんな事はない、俺達は」
「違う! 今私達がすべき事は嘘の依頼だった事を彼らに謝罪し、そして然るべきギルドの処断を待つ……それだけだ」
「……」
──余り、大声で怒鳴るのは得意ではない。
私は浮かべていた厳しい表情を一旦和らげると薄い笑みを浮かべると息子を見つめる。
私の子だ。
今は村長という責任のある立場にいる者。
すべき事を伝え、心を込めればきっと聞き届けてくれる。
そうに違いないと思っていた。
「安心していいコワードくんはいい子だったよ。シルドくんも、語り合う事は難しいかも知れないが一本の筋は通っているように私には見えた」
「……いい子、だと」
「ああ、レックスが懐いたくらいだからね」
「……」
「だから、こちらが誠心誠意謝ればきっと分かってくれる、だからまだ遅くはないんだ。いがみ合う事を止めて私達の方から頭を下げよう、そうすれば……」
「…………」
「ん? グリッジ?」
息子は無言で立ち上がった。
向かい合い顔を合わせた姿はいつの間にここまで大きくなっていたのか、私よりずっと高く大きい。
見上げる父と見下げる子の構図に……何か違和感の感じる部分があるとすれば見下ろすグリッジのその顔に一本の浮き出た青筋が色を為している事だろう。
「謝る、だと……何を」
「グリッジ、お前」
「一体……奴らが何をしてくれたと言うんだ!」
「っ」
声と共に太く長い腕が伸びて来た。
「ぐ」
衣服の胸元を掴んだ五本の指はそのまま引きずるように私の顔を近寄らせる。間近に迫った息子の表情には暗い影が落ち、大きくねじ曲がった口元は下へと向けて弧を描く。
それは、言葉にすれば憤怒という表情だった。溢れる怒りに眉根は曲がり、吐き出す息が熱く煙る。
「騙した、利用した? それの何が悪い。俺達はこの辺鄙な地で必死に生きているんだ、それを! ……いやそんなことより奴らだ、冒険者様がここに来て何を為した!」
「グリッ──」
「アイツらの為にこっちはわざわざ必死で取り繕ってやったというのに何も! 無力なガキと口だけの冒険者じゃないか、こんなもの……こんな相手を、俺達は期待していたんじゃない」
「……それは、お前の勝手な」
「勝手ではないッ! 自分達の力が足りなかったからだというのに村人に八つ当たるそんな奴らだぞ、何の役にも立たなかった子供にも、アイツにも、下げるような安い頭は俺にはない」
「……お前」
「いいや、下げるべきはむしろ奴らだ、そうだ」
「……」
──身勝手な。
そんな感想しか出て来ない自分本位の言い分、これが村の未来を任された自分の息子かと思うと悲しみのようなものが沸き上がる。
「クッ」
次の瞬間、不意に激情を漏らしていたグリッジの顔が下を向いた。
怒りと同等、同じ程に顔から覗くのは強い後悔の色だった。
掴む手を通し震えが伝わり、歯の根が噛み合うカチカチと小刻みな音が響く。
「レックスは……アイツはそんな事の為に襲われたのか」
「……」
暗い瞳、低い声。
震える肩口がそのまま振動を伝えたように飛び出す声は大きく揺れ続ける。
「仮に、ここで俺達が一方的に悪かったと謝りでもすればそれこそいい笑い物だ。村は終わり、レックスは、傷付き損か」
「……」
「何か『得るもの』がないと引き返せないんだよ。何もかも俺達が悪かった、それだけで終わる訳にいくかって……」
「グリッジ」
レックスは……孫はまだ目を覚ましていない。
怪我の様子から見て手長に襲われた事は間違いないだろう。発見され手当ても終わったが一日近く経った今もその瞼が開かれる事はない。
恐らく、今のグリッジを突き動かしているのは自責と後悔だろう。何かをしないといられない、思えばコワード君に対して掴み掛かって行ったのも普段の息子から考えても度が過ぎた事だった。
「手長さえなんとかしてくれていればレックスがあんな……アイツが傷付いた時、奴らは何をしてた? 家で寝ていただけだろう。偽の依頼がどうなんて関係ない、奴らは倒すべき相手をどうにも出来ずにこの結果だ。役立たずがッ、役立たず共が!」
「お前、それは……」
沸き立つグリッジの様子は昼に見たコワード君の姿とどこか重なるものがあった。
あの子は口に出さなかった、理解が及ばずに何も分かっていなかったかも知れない。
しかし漠然とだが何か責任のようなものを背負って見えたが……彼と息子では大きく異なる所があった。
「それは……責任転嫁だグリッジ」
「ッ!」
「何もかも、悪かった事を彼らに押し付けてどうする。全ての引き金は元々私達の──」
「ぐッ、く!」
グリッジの腕が乱暴に振り払われた。
「うッ」
私は床に落ち、腰を強かに打ち付ける。片や腕を振るった本人はワナワナと震え私を見下ろし続けた。
顔に怯えのようなものを貼り付けたままで。
「俺はッ……ん!?」
きっと、その後に続けようとしたのは悪態であろう。
激昂したグリッジが一体どんな言葉を口にするか私には分からなかったが、その続きが漏れる事は結局なかった。
「まさか」
言葉が中断されたのはすぐ隣の広間から、今はレックスが寝ているはずの部屋から何かの物音が聞こえたからだ。
「レックス!?」
駆け出すグリッジは倒れた私に目もくれずに走り出して行く。数人の村人が息子の後に続き、残った何人かの内の一人が倒れた私へと手を差し伸べてくれた。
「あの、大丈夫ですか?」
「うん? ああ、平気だよ大した事はないからね」
親切な彼にお礼を言い、立ち上がった私はそこでふと気付いた。
「ん?」
響く異質な声が先程よりも近付いて来た気がした。