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真・仙極無双 戦国破壊伝  作者: 悠樹 久遠
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三の段其の幕間 下捨上と聖職否定






 法度。戒律。倫理に道徳。正直。正義に理想論。

 そんなものなどありゃしない。それが浮世の常識だ。


 情報社会の発展や欲望の進歩と共に、かつては信じられていた正しさやルールは本音と建前を使い分ける権力亡者により当然のごとく否定されていった。

 今では子供まで、そんなものを信じる人間を馬鹿よばわりする始末だ。


 だが、かつては幼い子供だけでなく、少年や青年、そしてほとんどの大人達が、それらを必要なものと考えるのではなく、本当に信じ、その在り方を愛し、小賢しい理屈でその在り方を誤魔化し捻じ曲げようとする者達を否定していた時代が確かにあったのだ。


 その事実を象徴する言葉に、‘先生’という呼称がある。

 教師や医師や政治家、そして小説家などという職業につくものへの尊称であった言葉だ。

 

 これらの職業に共通するのは、‘人の在り方’というものに深くかかわり、人の心を(おもんばか)る事ができてこそ、尊敬に値する職業だということだ。


 人の倫理と感情というものを正しく理解している者に対する尊称であった‘先生’という言葉が正しく使われていた時代。


 それは、損得という目に見えるものよりも、理想や正義といった目に見えないものを尊重していた時代であった。



 “ 権力の為に捻じ曲げられた信仰 ”を騙る宗教者や権力者の保身ために語られる偽りの理想や正義などではなく、人々が生きるために護っていかなければならない本物の理想と、権力や体制の維持のためにではない大切な想いを護るための正義。


 人類を、万民を、生きとし生ける全ての人々を、自滅本能から遠ざけ、“共食いの毛無猿 ”にしないための理想と、その想いを護るためにある正義。


 豊かさの中にあって滅びから遠ざかるほどに人が胸に刻まなければならない想いを、“ 自らの欲望のために捻じ曲げ誤魔化そうとする人間 ”こそが蔑まれる時代と場所が確かにあった。


 歴史とはそういった心ある者と心ない者の狭間で人が揺らぎ続ける事で綴られていく。

 その事を忘れれば、その事を軽んじる者が世を動かせば、待ち受けるのは人間という動物のもつ自滅本能に従った終焉であろう。


 

 農協が世に認める理想と正義を体現する人を、‘聖職’などという言葉で飾って特別視するのではなく、ごく普通の人として扱い、

 そういった人々を疎み自らを僻む精神的に未成熟な人間を、責任ある立場につけないための社会形態。


 決して、生命の営みの根源である性欲を‘ 下衆の欲望など ’と切り捨て、死と破壊を撒き散らす自滅本能を美化してしまうような武家の規律を基にした秩序ではない規範。


 “ 無限に広がる夢や未来 ”を得られるという虚栄の権利とニセモノの自由で、人の在り方を縛るのではなく、有限な生命の在り方を恐れずに生きるための情や希望を損なわず、実直に生を謳歌していけるようにする自由。



 久遠達が創ろうとしている農協とは、そういうモノのためのシステムであった。




 だから、当然、形だけの聖職者や偽善者は、成人としての資格を持てず、嘘や誤魔化しで仕事をする事ができないようにされ、聖職自体が否定されていた。


 嘘発見器の装着が仕事中も義務付けられ、嘘や誤魔化しは、成人資格の口頭試問のみならず、農協という公的な場で通じない。


 ならばこそ、戦いというものを社会の根幹として、騙しあいで相手に損を押し付け、駆け引きで自分に得なように動く生き方をする者が上に立ち、下の者を服従させる武家や商家社会の人間が農協で成人と認められる事は難しい。


 しかし、武家や商家の中にその生き方を嫌う人間が、まったくいなかったわけではなく、武家の生き方を捨て、農協に共感したものもいる。


 また、そうでなくても共感した武家を頼り、農協内で小人として農業を営む者もいた。


 そういった武家と農家のありかたは、いつの間にか下剋上ならぬ下捨上と呼ばれるようになる。


「下捨上とは、よくいったもんですな。武家より遥かに多い農家に知恵を与えても碌な事にはならんと子供の頃は教わったものですが。この光景を見たら、ソレがどんなにつまらない事だったかが、解ります」


 元武家の子供達と農家の子供達が、ともに戯れ遊ぶ光景を見ながら、感慨深げにつぶやいたのは、短く刈り込まれた胡麻塩頭の男だ。


 元武家の子も農家の子も見分けのつかない子供達とは違い、男の所作には僧籍にあった時の名残が色濃く残っている。


 そう、考えると刈り込まれている髪も、元は剃りあげられていたのだろう。


「人の上に立つ者とは、貴く尊ばれる者というのが、今までの世の常識(ならわし)でしたが、農協では力をもって人の上に立つ者こそが、獣の性を利用して人を貶めようとする蔑まれるべき存在ですからな」


 そう、男に応えたのは僧形の老人であった。

 ぼろぼろだが綺麗に洗われた墨染めの衣は、年月を経て薄い灰色になっている。


「天上天下唯我独尊の意を、本当の意味で理解すれば、当然の考え。 力や権威で人を抑えつけることでしか、世を治める事はできぬ。 所詮、人とはその程度のものと軽んじるなかれと、そう仏は語っておられたのよな」


「ふむ、さよう。 自らを、誰かを、(とうと)いだのと認めさせようとする者達こそが、己たちのみを唯我独尊と考えることで、他を貶め蔑み、天上天下に唯我独尊を広げる邪魔をしておる。 そんなあたりまえのことに、寺や武家の中では気づけぬ。 それ故の下捨上」


「うむ。全ての者は、(とうと)あろうとせねばならず。 (たっと)くあろうと志す者は、皆、敬わねばならぬ」


「御意。 故に天上天下唯我独尊(すべてはとうとくあれ)


「じいちゃんら、何むつかしいこと、いってるのん?」


 打てば響くというように、問答を繰り広げる二人を見上げるようにして、童女が問う。

 六つか、七つくらいの子で、髪を両脇で髪留めで留めた両お下げにしている。


 どうやら、老爺のやり取りに興味をそそられているらしく、キラキラと好奇心に目を輝かせていた。


「おう、蓮華か。 また散策か?」


 胡麻塩頭のほうが、そう童女を呼び、頭を撫ぜる。


「そうなのん。 今日は……って、違うのん! 何、はなしてたん?」


 機嫌の良い猫のように、ほわりとした顔になり、問いかけを有耶無耶(うやむや)にされかけた童女が、ハッと息を呑み、再度、問いを重ねる。


「ふ……む」


 説明に困ったのか、胡麻塩頭の老爺が、老僧に助けを求めるような視線を向けた。


「儂らの話しとったのか。そうよな。 ちゃんと仕事を頑張ってるみんなは偉くて、威張って人より得をしようという(やから)は、駄目ゝじゃということよ」


 少し考えて、子供に解りやすいようにと説明する老僧に、童女は少し落胆したような顔をして言う。


「何なん? あたりまえの事なん。 難しいこと、言ってるから、スゴイことかと想ったん。 まぎらわしいのんな」


「すまん、すまん。 外の世界は勿体(もったい)をつけないと、あたりまえの事も聞いて貰えんし、凄いと思わない者の言う事など、正しいかを考える前に聞こうとしない者が多くてな。 こういう回りくどいハッタリばかりを使うようになっとるんじゃよ」


「はー。 偉そうぶって、()められたいのんな」


 虚栄心に溺れた者達の有様を言い当てた童女に、老僧は目を細めて褒めた。


「おう。 そうじゃ、そうじゃ。 蓮華は賢いのう」


 栄誉などを必要としない童女の在り様をこそ褒めているのを、理解した老爺も、また誇らしげに笑う。


「これくらい、みんな、知ってるん。でもまだ、よく()ってるうちには、入ってないんな」

 

 えへん、と胸を張って、無知の知と知る事と理解して身につける事の違いを、語る童女の頭を老僧はなぜて、もう一度、褒める。


 むふー、と得意満面になる童女に老爺達は、頬を綻ばせ、あくびをしながら猫の‘式揮’がそれを見守り。


 農協は、外の争乱を知りながらも、穏々と日々を送る場として、争いに疲れ(けんい)を捨てた人々が新たに訪れる日を、今日も待っていた。






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