一の段其の幕間 親心と家族の絆と仙人と
小春日和というには少し遅い、天文五年もあと僅かとなった日。
柔らかな日差しに照らされた郷長の屋敷では、二人の娘が穏やかな時を過ごしていた。
「久遠は何しているんでしょうね~」
美亜が来て以来、急速に成長して自分達のもとから離れていった息子を想って、その息子がつくったという緑茶を飲みながら、さやは縁側で寝ていた猫をなぜながら、ぽつりとつぶやいた。
「久遠さまは、神子さま。天に授かった使命をお持ちなのです。女子が邪魔をしてはいけませんよ」
どんなに寂しくてもとは口に出さず、久遠のもう一人の母りつが、娘に乳を飲ませながら、息子愛しさにひたる妹分を窘める。
「姉さまは、かえでがいていいよね~」
さやは、さみしげというには、どこか明るいやわらかさを失わない風情だが、長年共に暮らしてきたりつには、さやが本気で寂しがっているのがよく判った。
二人きりのときに、さやが自分のことを姉と呼ぶのはいつものことだが、その声がいつもより明るいのだ。
普段、さやが姉さまと呼ぶ響きにはもっと甘えた雰囲気がある。
「もうすぐ、帰って来るでしょうに」
さやの寂しさが息子がそばにいないことから来たものでないと知りながらも、りつは、いつも明るく自分を支えてきた従姉妹に、いつもの調子で笑いかける。
「あなたが、そんな調子だと主さまが気にしますよ」
大恩のある夫、国光のことを持ち出され、さやは、ようやくこうしてもいられないというように大きく息をついて立ち上がり、縁側から部屋へと戻ってくる。
国光は年老いた熊のような外見とは裏腹に細かく気を遣う人間であった。
特に歳の離れた妻二人が、自分のせいで不仲にならぬかと、いつも気にかけている。
両子山の祭神を奉じる家系の武家に生まれた二人であったが、天文元年の大内氏との戦いで親族を失い、路頭に迷うところを、神社に詣でていた国光に見初められ、ふたり揃ってこの郷に嫁いできた。
それは、離れ離れになりたくないと二人が願ったためだというのに、国光は自分たちを気遣い続けている。
そんな国光に心配をかけるわけにはいかない。
りつも、さやもそれだけは肝に銘じていた。
戦国の世にあっても、いや戦国の世だからこそ、命の軽さゆえに命を愛おしむことを知る娘達は、この平和な郷の在り様を誇り、それを護る国光を慕っていたのだ。
それは夫婦の情愛ではないかもしれないが、確かな絆であり、ないがしろにしてはいけないものだと彼女達は知っていた。
「久遠様。さや様とりつ様が寂しがっておられるようです」
縁側の猫の目と耳を通じて二人の様子を見ていた美亜は、同時に幾つもの作業を並列して行いながら、傍らで作業をしていた久遠に話しかけた。
「そうか。あの娘達には、あまり母らしいことをさせてやれなかったからな」
郷から離れた作業室で美亜の分身となる‘使貴’を作成していた久遠は作業を中断して顔を上げた。
美亜ほどではないが並列して作業を行える久遠だったが、さすがにミクロン単位の加工が必要な精密作業を複数こなしながら話はできず、簡単な紙の作成を行いながら話をすることにした。
「できれば、今日はこれくらいにして早めに御帰りになっては?」
自分のような生体アンドロイドとは違い、精巧な人間型ロボットにすぎない‘使貴’ならば、中枢部分を除けば作業を代行できるからと、美亜はそう勧めた。
「そうだな。帰って二人には甘えてやるとしようか」
その美亜の気遣いに、久遠は穏やかな笑みを浮かべて、応じた。
既に成長を加速された肉体は七歳近い年齢になっているとはいえ、その声は声変わり前の子供のものだ。
しかし声に含まれる落ち着いた響きは、決して子供に出せるものではなかった。
幼子が母に甘えてやる事で母の想いに報いてやる。
何も知らぬ人間からすれば奇妙な会話だったが、久遠が何者かを知るものにとっては、如何にも久遠らしいと感じさせる台詞だ。
仙人とて感情に溺れぬだけで人としての感情を捨てているわけではない。
例えどれほど愛する者であっても道を違えれば容赦をしない久遠ではあるが、それは非情ゆえではなく、そのことで心を痛めないわけではないことを美亜は知っていた。
現に久遠は金兵衛を初めとする盗賊達の墓を村の外れに作らせている。
そして己が手にかけた彼らの名を知らずとも、久遠がその事を忘れないだろうという事も美亜は胸に刻んでいた。
三百年を生き、転生した久遠にとって現世の母は頼り甘える存在ではなく、庇護し愛おしむべき存在だ。
彼女達が久遠を愛おしんでいるように久遠も彼女達を愛おしんでいる。
これは、ただそれだけのことでしかない。
奇妙ではあるが優しい言葉だった。
豊前では彼女達の親族を討った大内氏が龍造寺氏とともに少弐氏を滅亡に追い込み、北九州地方をほぼ平定し、龍造寺は現在の長崎県、肥前を手にして久遠の知る歴史とほぼ同じ道を歩んでいる。
それも武家の常と悲しみはすれど恨みを抱かぬ彼女達の心根を愛し、久遠は彼女達が少しでも幸福にすごせるように、幼子の笑みを浮かべふたりの母の元へと帰っていった。




