初体験……って言うと、なんかエロいな。
2話目投稿。不幸は続く。
俺は今、とてつもなく緊張している。これほどの緊張は小学校の学芸会で主役ではないが、それなりの活躍をする村人その一という、微妙な役を演じた時以来だ。
深夜、公園で全裸になって身体を洗った時よりも鼓動が激しい。恥ずかしさに耐え、人前でゴミ漁りをした時よりも胸が苦しい。でも早く解放されたいと思いつつも、心地よく思えてずっとこうしていたくなる。
なにせ初めての体験だ。これぐらい緊張してもおかしくはないよな。
「ねえ……まだ?」
俺の背中に身体を預けたセツナが、耳元に吐息がかかるくらいの近い距離で、誘うように声を掛ける。胸、胸当たってますよセツナさん。……わかっているとも。でも、初心者だからそこから先に踏み出すのは勇気がいるんですよ。
「あと少しだけ待ってくれ……。もうすぐイクから」
ふふ、っと彼女の笑い声の吐息が、俺の性感を鋭く刺激する。ぞくりと心地のよい冷たいものが、背筋を這いずり回る。
「ダメな男ね……いつまでうじうじしてるの」
そういってセツナは俺の背中をトンと押し――
「いいから行けっていってるでしょう、このグズが!」
ではなく蹴り倒した。腰が折れるくらい力一杯蹴られた俺は、前のめりに自動ドアを抜け、地面に激突する。店内の客が一斉に注目し、どよめいた。
散々焦らしたが、今までの意味ありげな雰囲気はラブシーンではなく、ここは人気のない路地裏でもホテルでもない。マックへ入るのをためらう俺を、ピラピラ舞う赤い布に激怒する闘牛より、短気なセツナがキレただけである。
「……い、いい、痛いじゃないかセツナ! ななな、なにす、すんだ」
「それはこっちの台詞よ。たかがマックでなに緊張してるの」
「ファ、ファーストフードは、初めて、いて、だから仕方ないだろうが。いて! ど、どどうすればいいか、わ、わからないんだ。っていたいわ!」
緊張でろくに舌が回らない俺に、セツナは何度も足蹴りを食らわしてくる。ぐっ、このクソアマ、しばくぞと思った瞬間、妙な殺気を感じた。振り向くとマックの店外、電柱の影でトヨキチさんが微笑んでいる。スーツからチャカをちらつかせながら。
シニタイノデスカ?
俺は即座に手を大きく振ってお断りした。トヨキチさんは「お嬢様の邪魔にならないようについて行きます」といっていたが、俺がセツナに危害を加えないよう見張ってるみたいだ。……ぶっちゃけ、すげえ怖いんですけど。
「マックでさえ外食したことないなんて、ビンボーさを暴け出しまくりね。さすが臓物くん」
何も知らないセツナが、蹴るのをやめて今度は罵倒してくる。それで意識が戻ると、またも緊張感が戻ってきた。先ほどの命の危険と併せて、軽くパニックになる。
「な、なななな、なあ。はは入ったらまず何をすればいいんだ? と、とりあえずこの邪魔な人間共を蹴散らせばいいのか。それでもってハンバーガーの人質要求を――」
「アナタも大概腹黒いわね。まともそうな人間が一番危ないっていうのは真理なのね」
ああ? なんていった今? じいちゃんの遺言「『清く・図太く・逞しく』生きろ」を忠実に守ってきた俺に、なんて暴言を放ちやがるんだ。
「お、お願いしますすから、どうかこの私めに、正しい注文の仕方をおお、お教え下さい!」
――なんて心と言葉が一致しないほど、俺は混乱しきってる。この際悪魔女と契約してでも、この現状をよくしたい。
セツナは大きくため息をついて、「臓物の分際で私の手を煩わせんじゃないわよ」と舌打ちすると、列に並んでお手すらできないバカ犬を呼ぶように「臓物くん」と手招きする。虐待されようが頼れる存在が飼い主しかいない、哀れな飼い犬のように俺は従う。
「そ、それから、どうすればいいんでしょうか?」
セツナは完全に俺をバカにした顔で見下していたが、なにを思ったか突然営業スマイルのような笑顔で、俺の耳元に唇を近づけた。かかる息が俺の性感を刺激するが、セツナの正しい買い物講座~ファーストフード編~を丸暗記する。
「わ、わかった。お、俺一人で、な、ななんとかしてみる……」
そういってセツナの前に立ち、果敢に順番を待つ。俺はこの時気づくべきだった。セツナの口元が暗殺に成功したかのように、凄惨な笑みにゆがむのを。
「ス、スマイル一丁。テ、テイクアウトでお、お願いします」
その瞬間、店内が凍りついたようにとまった。店員さんの、本来なら素晴らしいであろうスマイルも、ぴしりと音を立てて不自然に固まった。
「…………あ、あれ? 注文前にする常套句って、これであってます……よね?」
思わず俺が聞き返すと、セツナの爆笑が店内に爆散した。
「あはははははは! スマイル一丁、テイクアウトでって、は、初めて見たわ、そんな寒いやつ。さむっ、ほんと寒いわ。私を笑わせ過ぎて殺す気? あはははっ!」
そこで騙されたことに気づいた。よく考えりゃ、誰もそんなこといってなかったじゃねえか!
「……て、てめえは、人をどれだけバカにすりゃ気が済むんだ!? 人のいい俺でも、殺人と死体遺棄という犯罪に手を染めるぞ!」
しかしセツナは俺の非難など聞こえていないかの如く、失礼にも一分間きっちり笑った後、何事もなかったかのように「ビックマックセット二つ。ここで食べるわ」と注文を済ます。
むかっ腹が収まらない俺は、思わずこいつにとっての禁句をいってしまった。
「人の話ぐらい聞けよ。セッちゃん」
「……その呼び方、死にたいの? 死ぬの? ねえ、臓物くん」
セツナがちらりとやった視線の先にいるのは、トヨキチさん。そのトヨキチさんがちらつかせるのは、一丁の拳銃。
俺は何度も深く頭を下げ「す、すみません、すみません。生意気な事はもういいません」と卑屈に謝る。ああ、なんていうか、ほんと何してんだよ俺……。
そこで注文を受けつけるか、店長を呼んでこの不審人物二名を叩き出してもらうか迷ってるかのように、固まったスマイルのまま微動だにしなかった店員さんが、「はい、少々お待ち下さい」と流暢な言葉遣いと晴れやかなスマイルで答えた。おお、まさに店員の鏡だ。
こうしてビックマックセットを受け取り、セツナが俺の財布から勝手に二人分の料金を払い(って、おい!)客のつめた~い視線をかいくぐりながら、俺達は席に着いた。
セツナが大きな口を開けてビックバーガーにかぶりつく。その綺麗な顔に似合わねえ豪快な食いっぷりだが、こいつらしいといえばこいつらしい。
常人の三倍くらいの早さで噛み砕いて飲み込んだセツナは、さっきの出来事を引きずって食う気になれない俺を、じろりと見てくる。
「アナタって脳がスポンジなの? 素晴らしい社会不適合者っぷりね」
「……はいはい、そうですねー」
根気がすっかりなくなった俺は、力なくいい返す。
「いくらなんでも動転し過ぎよ。未開の原住民ですらあんな行動とらないわ。仮にも文明人であるのに、情けないったらありゃしないわ。原始人レベルね」
「そうですねー」
「いつまで拗ねてるの。あー、はいはい。私が悪かったわ。ごめんなさいねー」
ちっとも反省の色など見せずに、セツナは俺の頭をバカにしたように撫でてきた。しかし俺は上目遣いで非難の視線を、無言の重圧と共に浴びせてやった。
「だから、ごめんっていってるでしょ。あと上目遣いキモい」
「あたたたたたたたたたた! い、痛っ、痛いって! マジ痛いっ!」
細腕なのに成人男性の平均を明らかに超えた握力で、俺の頭が握られた。ア、アイアンクローだと? ほんとにこいつ女か?
二十秒経ってようやく解放され、俺は粗い息でぶつぶつと恨みいをいって、オレンジジュースを飲んだ。それでようやく呼吸が整う。セツナの反応はというと、さっきと一変して、珍しく少々気遣った表情で俺をじっと見つめている。
「でも、どうしてあんなになってたの? さっきのはいくらなんでも変すぎよ」
「仕方ねえだろ。俺、ちょっと飲食店にトラウマがあってさ……」
ずりいなーと思いながらも、俺は律儀に答えてしまう。
「トラウマってなに?」
ぐ。しまった、つい余計な事を。
「いやいや、セツナさんに聞かせるような、大層な話じゃありませんから」
「へたなごまかし方ね。いいから教えなさい」
セツナが外のトヨキチさんにアイコンタクトをとりながら、笑顔で脅迫する。あんた悪魔だ……。俺は盛大にためいきをつくと、恥ずい過去話を語る羽目になったことを盛大に呪った。
「……今から一年も前のことだ。その時食うのも困っていた俺は、バイトを増やしてとある喫茶店で働くことになった。今まで飲食店のバイトは、できたての飯なんて生殺しだから避けてたんだが、背に腹は代えられなかったしな。でも、やはりというべきか、人間の本能には勝てなかった。腹が空きすぎた俺は、ついに……ついに、お客に持っていく料理を食っちまったんだ。しかも店内のど真ん中で、手づかみでわしわしと……。当然俺はクビさ。店長のグーパンチのおまけつきでな。ははは……笑いたきゃ笑えよ」
自虐的な笑みを浮かべる俺を、しかしセツナは笑わず珍獣でも見るかのような目で見た。
「アナタってバカ正直ね。テキトーにごまかせばいいのに、細部まで語っちゃって」
「……仕方ないだろ。俺はどれだけ不幸でも、優しかったじいちゃんの遺言通り『清く・図太く・逞しく』生きようって決めてんだから。だから何事にも正直に生きたいんだよ。嘘は悪いことだからな」
「でも正直なのは時として悪いこともあるわ。……正直になった方が楽な時もあるけどね」
何故か神妙な顔つきでセツナはあやふやな答えを返した。少々暗くなってさえいるその表情に驚きつつ、いつもの傲慢さに似合わねえ態度に少しばかりあわてる。
「まあ、いいさ。とりあえずとっとと食おう。こんなとこで時間喰って、満足いく買い物ができなかったら、俺死んでも後悔するぞ。さっきお前がいってたように、死ぬ前に楽しみたいしな」
こんなやつに気を使うのもなんなのだが、優しい俺は場を和ませようと頑張ってみた。
「そうね、枕元に立たれちゃたまったもんじゃないわ。安心してアナタが成仏できるようにしなくちゃね」
おっ? 少しは憎まれ口が復活したか?
「それにしてもホントバカね。普通客の前で料理食べる? こっそり摘み食いすればよかったのに。さすが中卒。あったまいいわねえ」
前言撤回。やはりこんなやつのために気を使うなんて、優しさという資源の無駄遣いでしかありえなかった。
この調子だと、あと3、4話くらいで終わりそうです。