表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第三話 楽しく生きよう

 けっきょく誕生日には何も起こらなかった。夕方、二人で銀行にも確認に行ったが、三百万円の入金はなかった。

「そりゃ、そうだよな」。僕は苦笑いした。

「そりゃ、そうよね」。彼女も寂しそうに言う。

「あのさ、こうなったらタイ料理でも食べにいかない?」

「あたし、食欲ないよ」

「いや、駄目さ。こんな日は、辛くて美味しい料理をいっぱい食べないと」

「焼肉が、まだ胃のなかで消化不良起こしてるよ」

「もうウンコになって流れたよ」

「パパ、汚いんだからー」

 二人で笑った。

 シンハービールで乾杯し、誕生日を祝った。楽しい気分で部屋に帰り、音楽を聴きながら寝転んでいると彼女が言った。

「モジャが、今度は悪魔にするって言ってきた」

「うるせぇ幻聴だなあ。神様になるっていうのも嘘だったから、信用できないよ」

「今度は本当だって言ってる」

「信じてほしけりゃ、姿も現せって……」

 彼女が広告紙の裏に絵を描き始めた。ニコちゃんマークに細い手足、貧相な毛が数本生えている。

「モジャだよ」

「えっ、これがモジャなの?」

 幻聴の正体にしては、なんとも間抜けなキャラクターである。

「しかし、まんまと引っ掛かったなあー」

「引っ掛かった……って?」

「これでモジャを捕まえることができたんだ。もし今度悪さをしたら、紙ごと破いてやる」

「パパ、すごい」

「まずは、これまでのことを謝らせよう」

 僕は彼女に見せながら広告紙を破る真似をした。

「モジャが、ごめんなさいって言ってる」

「やっと反省したか。じゃ、ご褒美をあげよう」

 ピンクの蛍光ペンで、足元に花を描いた。

「喜んでるよ」。彼女も楽しそうに笑った。

 僕は画鋲で、壁にモジャの絵を貼り付けた。



 モジャを捕まえてからも、彼女の病態が劇的に改善したわけではない。ひどい妄想は影を潜めたが、僕が仕事でいなくなる昼間の脱力感が大きく、リタリンを処方されている。

 たまに彼女は、壁に貼られたモジャと話したりする。色ペンで花を増やしてあげたから、もう悪いことは言わないらしいが。

 かわいいモジャの絵を見ていると、過去の痛みなんて忘れてしまいそうだ。僕たちは何処で傷ついたのだろう。

 統合失調症の原因は、脳内伝達物質であるドーパミンの分泌異常と最近では言われる。それ以前は、親の態度や気持ちに一貫性がなく、接し方がダブルバインドだったりすると、子供が統合失調症になりやすいと言われた。

 親のダブルバインドとは、矛盾した二重のメッセージで子供を拘束することである。

 たとえば、優しく手を広げ、子供を抱き寄せる母親の冷たい表情。子供は母親が、本当は自分を好きではないと気付いてしまう。すると、子供はどうしたら良いかわからない。抱かれたままでも嫌がられるし、手を振り払って拒んでも嫌われてしまうから。

 彼女の家庭はどんなふうだったろう。実家は電車で三十分離れた町にある。僕はまだ、彼女の家族に会ったことがない。彼女も、四年前に家を出て以来会っていないそうだ。

 一年半前、僕たちは携帯電話の出会いサイトで知り合った。共通の話題はパンク系の音楽で、メールだけで話していた頃は彼女が精神障害者とは知らなかった。

 彼女も僕の家庭を知らない。だから、僕を信じてもらうには時間がかかった。自分の病気を知っても去らない僕を不審に思い、ストーカーではないかと疑ったのもそのせいだろう。

 彼女から僕が去らなかった理由、彼女を大切に思い、二人で幸せになりたいと願った気持ちは、僕の過去の悲しい物語を話せばわかってもらえると思う。

 でも、今はそんな辛気臭い話はいらない。傷付けあわない家族なんていないし、今の僕は幸せなのだから、僕がたくさんの人から許されてきたように、全部許して、忘れてしまおう。

 大切なのは今だ。楽しく生きていこうと思う。



 六月、二人で新宿のライブハウスに、グラインドコアとノイズ系のバンドが出演するマニアックなイベントを見にいった。

 僕のお目当てのバンドは、エアプールジャンクス&プライマリー。エフェクターを多用して不思議な音を奏でるギターと、催眠的なリズムを刻むパーカッション。二人組のノイズユニットで、演奏しながらそれぞれに詩を朗読する。

 グラインドコアでは、名古屋から来たアンホリーというバンドのパフォーマンスが最高だった。ステージ前は、最初の曲からモッシュとダイブの嵐。危ないので僕たちは参加せず、後ろに下がってそれを見ていた。

 曲にノッて、パンクス同士がもつれあう。破れたシャツ。怒号。血と汗。安全靴で蹴飛ばしあう。

「汚くてサイコー!」

 曲の合間に誰かが叫んだ。

 ライブハウスを出ると、湿っぽい風がふいていた。タクシーが客を捜し、酔っ払いが電柱に絡んでいる。

「ねえ、あたしたちもバンドやらない?」。彼女が言った。

「いいかもね」

「すごい前衛的な、かっこいいバンドがやりたいの」

 終電にはまだ間がある。喫茶店に入って休憩することにした。ドリンクを飲みながら、彼女はバンドのアイデアを語る。テンションが上がり、躁になった。

 ウエイターが申し訳なさそうに近づいてきて、「すみませんが、他のお客様もいらっしゃいますので、もう少し小さな声にしていただけませんか」と言った。

 注意され、一瞬静かになった彼女は、しかしまた大声で喋り出したので、腕をつかみ、外に出た。

 電車に乗っても彼女は元気過ぎたから、キスをして黙らせた。帰ったら、もっとたくさんキスをしよう。

 公共の場で大声を出してはいけません。……なんて、電車のなかのキスも、迷惑かもしれないが。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ