第一話 神様になりたい
今度の五月十日は、彼女の二十六回目の誕生日。その日に彼女は神様に生まれ変わり、なぜか銀行口座に三百万円が振り込まれるらしい。
これまでの妄想に比べたら、ずいぶんハッピーで無害なものだ。どうせ神様なんかなれない。誕生日を過ぎ、落胆するであろう彼女を僕は抱きしめ、慰めるつもりだ。
しかし、そんなに神様なんかなりたいか。
「そりゃ、なりたいよ」と彼女は言う
「どうして」
「だって、みんな超能力あるのに、あたしだけ普通なんだもん」
……超能力?
「ひょっとして、僕もエスパーだと思ってる?」
「もちろんパパもよ」
彼女は、一つしか歳の違わない僕をパパと呼ぶ。
「だってパパは、ポルターガイストを追い払ってくれたじゃない」
そういえば、そんなこともあった。
半年前、精神病院から退院してきた彼女の部屋にはまだたくさんの悪霊がいて(彼女の説明によると)、壁を鳴らすなどの悪さをしていた。
「……助けてッ」
久しぶりに受話器から聞いた彼女の声はひどく怯えていたから、家が近い僕は自転車で飛んでいき、その晩から同棲が始まった。
正直、ポルターガイストなんて、霊を信じない僕にはわからない訴えだった。確かに壁がパシンッとかミシミシなんて鳴ることもあったが、木造アパートでエアコンをかけていれば、内外の気温差で壁が伸縮し、音も出るかもしれないと僕は科学的に解釈した。
だが、ポルターガイストは彼女にとっては現実だ。独学で心理学や精神医学を学んだ僕としては、この場合、「客観的事実」より「心理的事実」の方が重要に思えた。だから大声で、壁に向かって怒鳴りつけた。
「るっせえんだよ、てめぇら!」
それから彼女に説明した。
「心配することない。どうせ奴らは、くだらない下等霊さ。僕の方が強いんだ。もし奴らの方が強いなら、ちゃんと僕の前にも出て物言えるはずだよ。もちろん、ぶん殴ってやるけどね」
そう言うと、彼女は僕にしがみついてきた。
「駄目。モジャ(幻聴の名前)がパパを殺すって言ってる」
僕は笑って、「殺されるわけないよ」
「でもモジャが、パパの正体を知ってるって言ってるよ」
「正体?」
「秘密結社の人間だから気をつけろって」
意外なことを言われ、言葉に詰まった。でも、沈黙を長引かせちゃいけない。彼女を不安がらせぬよう、自分の優位を誇示し続ける必要があった。
「そんなデタラメを言うのは、実力じゃ僕に勝てないからさ。秘密結社だか知らないが、文句があるなら、直接僕の前に出てきて言えばいいんだ」
「あれ……、聞こえなくなった」
「ほらみろ」
こんなふうに僕は何度も彼女の幻聴と対決し、連勝した。しばらくするとポルターガイストも消え、平穏な日々が続いた。しかし最近になって再び現れた幻聴が、彼女に「誕生日には神様になれる」なんて告げてきたのだ。
「だからパパだって超能力者なんだよ」
「そうかな」
「でも、あたしはサトラレだもん。このままだと弱いから超能力が欲しい」
『サトラレ』というのは、映画やテレビドラマにもなった人気漫画である。物語には少数のサトラレと、多数のサトリが登場し、サトラレはサトリに心を読まれてしまうという設定だ。
この作品が、注察妄想に怯える統合失調症などの精神障害者に、共感と動揺をもたらした。「私もサトラレだ!」と思う人が続出したのだ。
「けど、隠し財産があるとか、過去に人を殺しちゃったとか、それなら心読まれたくないけど、やましいことなければ平気じゃない?」
「心読まれるだけじゃない。操られちゃう」
「じゃあさ、僕のこと好きって気持ちも、操られた感情?」
「あたしの本当の気持ちだよ」
「隠しておかなくちゃいけないこと?」
「そんなことない」
よしよし。僕は彼女を抱き寄せてキスをし、頭をナデナデした。
安心してほしい。君の病気は僕が治す。悪くなるばかりの病態に驚き、うろたえて何もできなかった以前の僕とは違うから。
「地面から糸で引っ張られる」と言って倒れたり、テレビタレントに名前を呼ばれたと怖がったり、薬の副作用でいつも首や手が震えていた彼女。
彼女が入院する一週間前の夜、外食の帰りに近くの公園で花火をした。蒸した風がふき、体がべとついて気持ち悪い。
線香花火もなくなって、公園を出た。歩きながらギャグを言うと、彼女は笑いながらついてきたが、煙草屋の自販機の前でふいに立ち止まった。
振り向くと虚ろな表情をしている。唇が微かに動き、小さな声で「別れたい」と言われた。
「……どうして」
驚いて理由を問うと、「怖いから」と彼女は言う。
「大丈夫。僕が君を守るから」
そう言ったのに、彼女は路上にへたりこんでしまった。
「パパが怖い」
「えっ」。僕は絶句した。
「パパが怖い……。パパが怖い。助けて。パパが怖い。パパが」
「どうして」
「ストーカーだから」
「はぁ。なに言ってんだよ」
「……だったらなんで、あたしのこと好きって嘘つくの?」
「好きだから好きなんだよ」
「怖い」
子供のように泣き出す。妄想だけじゃない。彼女は僕まで怖がっていた。
途中まで見送ってから別れた。数日して心配になり、電話をかけたが通じない。一週間後に自転車に乗って彼女の部屋まで行くと、鍵が閉まっていた。
その日の同時刻、半裸の彼女が街を徘徊し、警察に保護されたことは、本人に後から教えてもらった。
彼女が消え、残された僕は、仕事の合間に図書館やネットカフェに通い、心理学や精神医学を勉強した。DSM。精神分析。障害者福祉。脳生理学。クレペリン。フロイト……。特に、ユング心理学や家族療法には興味を持った。
彼女とまた会いたかったから。そのときにはちゃんと助けられる自分になりたい、と思って頑張った。