4章
窓のない、だがそれなりの広さを持った部屋の中央には、重厚なテーブルが置かれていた。その両脇には濃紺の制服を着た数人の男女が腰を下ろしている。流れる沈黙に自ら口を開こうとする者はいなかった。一人、護衛を両脇に連れ、遅れてやってきた者が、席に着く。皆一斉に立ち上がるとそろって敬礼をした。護衛がいなくなるのを待ち、ブラウヒッチュはゆっくりと答礼の敬礼をした。機械じみた目が、会議の参列者を見回していく。ブラウヒッチュの敬礼が終わるまでは、敬礼をやめることができないのだが、わずか数十秒のことがあまりに長く感じられた。
「了承しているとは思うが、此度の会議には特別に軍事次官全員の出席を許可したことを伝えておく」
着席してすぐに、ブラウヒッチュが口を開く。三部門会議のはじまりである。
ジェルナ総帥ブラウヒッチュを中央に、右側に軍事長官アーチボルト、ルレスフィア市軍長メルリス=ウェザー、ザフィート市軍長ゴルウェイが座り、それと向き合う形でルレスフィア市経長(経済次官)ステアラ、科学次官シエロ=ハウント、ディオム市軍長カシェルが座った。経済長官ミラーは病気療養中のため欠席。科学長官に関しては実験があるのでということだった。あまり姿を見せない科学長官だが、そもそも化学部門は地位も低く、変人が多くいるため、長官が欠席したところでさして他の部門から非難を浴びることはなかった。
「ハイアドーラ科学長官は今回も実験室から出てこなかったのですか」
口火を切ったのは上機嫌のステアラだった。今回の緊急三部門会議の意図はみな知っている。ディオム崩壊に立て続くように、ザフィートとの東部司令基地に多数の闇に魅入られし者が侵入した件についてである。間をおかずに急激に活発化が進む闇に魅入られしに対する対策を見つけるために彼らは集合したのだ。一度ならず二度までもへまをした軍事が大口を叩けるはずがなく、またステアラにつけ込む隙を与えた形となり、ステアラにしてみればこの会議は軍事部門を追い越すまたとないチャンスだった。
「ええ。今行っている生体強化の研究がモルモットでだいぶ成果を上げておりますので、そちらを離れられないようです。総帥をはじめ皆様にはいつもご理解をいただいて助かっていると長官も申しておりました」
目の前にある見えない溝を理解しているのかどうか怪しいほど、ゆったりと場はずれな感じでシエロは言う。常に丸眼鏡の奥の目を細め、笑みを消さない男は、白衣姿のまま会議に出席していた。これも見慣れた風景になった他のメンバーは誰も口にはしない。科学のいかれた連中に何を言っても無駄だと思っていた。
「それにしても、この度は大変なことですね。軍事の方々には何と言えばよいのやら」
同情めいた言葉は、そのにこやかな表情のせいで反感を買うしかなかった。初対面のゴルウェイに睨まれてもシエロは動じず、変わらずに笑んでいた。
「そうですね。科学次官。この失態の数々、どのようにお考えかお聞かせ願いたいものです。アーチボルト軍事長官」
はじめから部外者の科学部門から今回の失態を口にさせ、軍事を追いつめようとするステアラの狡猾な作戦に、アーチボルトが何か言うのを遮るようにテーブルが派手に悲鳴を上げた。ブラウヒッチュがその蛮行にわずかに眉をひそめたがそれだけだった。
「遮るようで悪いが、経済次官。今回の経緯について一つお伝えしたいことがある」
「早速言い訳ですか」
鼻で笑うように言い放つステアラは、蛇と称されるようにねっとりとゴルウェイに視線を巻き付かせた。愉快そうに形作られた赤い唇から長い舌が出てきそうな雰囲気を放っている。今にも一戦の危機かと思われたとき、ブラウヒッチュはかつんとテーブルを軽くならした。
「総帥の前で失礼いたしました。私の失言です。…では、ザフィート市軍長殿、その報告とやらをお聞かせもらえませんか」
先程のゴルウェイの行為を揶揄するようなやり方に、歯ぎしりをする男の手を隣に座るウェザーが押さえた。その手を振りきり、ゴルウェイは一つ咳払いをする。
「すでに報告を受け知っている方もいっらしゃると思いますがここでもう一度報告させていただきます」
ブラウヒッチュに向き、そう許可を取ると、悠然と座るステアラを見た。
「四日前に起きましたザフィート襲撃事件ですが、生存者の話によりますと一つ腑に落ちないことがあります。最初に襲撃をした一体ですが、証言をあわせますと雲の上より降ってきたとのことです」
「闇に魅入られし者は空も飛びますか」
新発見とばかりに嬉々として声を上げるシエロを、黙っていろとばかりに睨む。
「その可能性もありますが、飛行機で何者かに故意に運ばれてきた可能性の方が高いことを報告いたします。さて、ジェルナしか扱えないはずの飛行機を使って誰があんな事をしたか、今調査している最中です」
「可能性と調査中ですか。どちらも推測の領域とは。それに、科学次官の言うとおり闇に魅入られし者の特性かもしれないのでしょう。そう故意説にこだわる必要もないと思います」
言外に経済部門、ひいてはステアラの存在をほのめかしたはずが、あっさりとかわされ、逆にナイフを向けられる。
「ですが、これはゆゆしき問題だと思いますけど。もしこれが事実なら、個人の醜い目的のために、赤い魔物をせん滅するというジェルナの創設理念を食い物にされ、我々人類の希望が失われかねないでしょう。今だからこそ、不穏な芽は早めに摘み、後方の憂いを断つべきだと思いますけど」
ゴルウェイに任せていられないと判断したのは、ルレスフィア市軍長ウェザーであった。けぶるような金髪は優雅に波打ち、テーブルの上にこぼれていた。灰色の髪をひっつめて後ろに流すステアラはお世辞にも美しいとはいいづらかったが、それとは対照的にウェザーは兵士とは思えないほどの美貌を誇示していた。
「まるで誰がやったのかわかっていらっしゃるような口振り。すでに犯人の目星がおつきならさっさと捕縛し、闇に魅入られし者の餌にでもしたらいかがです」
「ええ、それも時間の問題でしょう。数日の内に首謀者を総帥の御前にお連れいたしますわ」
自信たっぷりの笑みは、咲き誇った大輪のバラのようであった。目の前の蛇がなすすべなく鷹に捕まるのを想像しただけで、心が躍る。経済次官と平等に応対するのも馬鹿馬鹿しいとわざと口を閉ざしていたアーチボルトも、鷹の目と称される鋭い眼光を消すことなく、口元だけで笑む。
「それは結構なことです。では、その間に、経済が軍事に代わりマラッサの掃討をしておきましょう」
「な」
ガタンっ!
手を震わせ立ち上がったゴルウェイの背後で、椅子が盛大な叫びをあげた。歯を見せ威嚇する猛獣にも、灰色の目は揺らがない。ゴルウェイの筋骨隆々とした腕にかかれば、あっけなく屈服してしまいそうなほど細いステアラだったが、彼女が持つその冷静さは不気味なほどであった。
「何を驚く必要が。先の二つの事件から闇に魅入られし者への対策は早急を要するのはおわかりであろう。軍事が背信者を探すので手一杯なら我らがまずマラッサの息を断ち、真の意味で後方の憂いを断つしかないであろう」
「誰が手一杯だと」
吠えるゴルウェイをステアラは一瞥もしない。その感情の読めない目はブラウヒッチュに向けられる。
「総帥。どうか我ら経済部門にマラッサの掃討を許可願います」
「総帥。掃討は我ら軍事部門の管轄。血迷った経済次官のお言葉など耳にされませぬよう」
沈黙を破ったアーチボルトがステアラに続く。
十個の目はジェルナ総帥に注がれる。ただ沈黙を守り、会議の成り行きを見守っていたブラウヒッチュは入室してきたときと変わらぬ機械じみた目のまま一同を見渡す。
失礼にならない程度で視線をはずしていたカシェルはくだらないやりとりに、机の下で音を立てないように指で自分の手を叩いていた。軍事も経済も自分たちの権力の拡大にこだわるだけで、本当の意味での恐怖が足りない気がした。子供の頃に感じた恐怖を目の前の高官たちはどこに置き去りにしたのか、首をひねる一方である。単体で行動していた闇に魅入られし者が群をなしたことに、なぜ注意しないのだろうか。苛立ちは募る一方であった。
「化物相手には負けましたが、人間相手なら絶対負けません。どうか俺に汚名返上の機会を」
自分の顔の上を通りかけた視線に、ゴルウェイは胸を軽くこぶしで打つ。そこで止まった目が、ゴルウェイを観察する。
「ゴルウェイ。お前にはまだ力があるのか」
ジェルナは実力主義。上官になればなるほど一度の敗戦が大きくのしかかる。まして自らの失敗は許されない。背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じながら、ゴルウェイは敬礼した。
「あります。失敗したときはこの命いかようにも」
「わかった。マラッサの件はゴルウェイに託す」
今一度、敬礼をするゴルウェイにはもう興味ないとばかりに、ブラウヒッチュは視線をはずす。ひらひらと手を振り、シエロがそれを呼ぶ。
「総帥。でしたら、ディオム市軍長にも機会をあげた方がよいのではありませんか。ディオム崩壊はザフィートの一件とは違い、市軍長の非はありませんから。いつまでも閉じこめていても仕方ないと思いますよ」
不意に話に持ち上げられ、カシェルはシエロの影で嘆息した。できればこのまましゃべることなく閉会にまで持っていきたかったのだ。あまりにもくだらない会議におべっかを使う気にもなれなかった。元々使う気もなかったが。
「いえ、私は」
「挽回の機会はいらないと言うか」
「非闇に次官は荷が重すぎるのでしょう」
ブラウヒッチュの問いに答えたのはアーチボルトだった。口調こそは丁寧だが、彼だけは一度もブラウヒッチュを見なかった。
「アーチボルト。私の采配に不満があるのなら直接言ったらどうだ」
九十度の角度で混じる視線を交わす気は二人にはなかった。
「滅相もありません」
頭を下げるときでさえ、アーチボルトは彼が望む席に座る男の顔を見なかった。いくら自分の方がその任に相応しいと思っていたとしても、この状況で逆らうような馬鹿ではない。これで自分への追求は無くなったかと思ったカシェルであったが、向けられた冷たい視線に胸中だけで舌打ちする。
「今は私個人の名誉より、人類の危機を優先すべきかと。もし御温情いただけるのなら、その後に賜りたく存じます」
「ほう。己より他人を優先するか」
試すような口振りに、カシェルは注目を浴びる。軍事からの蜂の巣にされそうな痛い視線と灰色の勧誘の視線に居心地を悪くする。救いは隣の脳天気な賞賛だろう。それはすごいですね、と手を叩くシエロはこの状況を理解しているのかも疑わしかった。
「ジェルナとはそういう組織ではありませんでしたか。人類の敵、闇に魅入られし者を倒すために立ち上がった者たちの組織だったと理解しておりますが。それが争いあい、化物に黙って喰われるようでは本末転倒ではないでしょうか」
(矛盾しているな)
目立ちたくないのなら適当にごまかせばいいのに、それをしないで余計に目を付けられる自分自身にカシェルは胸中で苦笑した。反対側から向けられる三種の殺気。そういえば、とカシェルは思う。目の前に座る上官たちは皆そろって闇狩だが、部署の違うこちらは偶然にも非闇だったことに気付く。
(まるで闇狩対非闇だな)
皮肉な考えに、口元が緩みそうになる。それもブラウヒッチュの鋭い視線にぶつかると、姿を消す。ただ見られているだけだというのに、体に緊張が走った。
「わかった。いずれその方にも機会を与えよう」
助かった。視線をはずされ、カシェルはなぜかシ胸をなで下ろした。
「それでは、これにて散会とする」
ブラウヒッチュの合図と共に、全員が起立し敬礼する。
世に名高い三部会議は、冷戦を露わにして幕を閉じた。
三部会議閉会後、執務室に戻ろうとしていたカシェルは、名を呼ばれ足を止めた。
総帥室や特別会議室などがある機密棟から軍事棟に続くブリッジでのことだ。ルレスフィアはジェルナの本部ということもあり、他の都市に比べ基地の規模が大きい。そのため中央に位置する機密棟を囲むように各部門ごとのタワーが建っている。それぞれのタワーはブリッジによりつながっていた。そして街は、ジェルナ本部を中心に同心円を描き広がっている。
振り向くと、白衣に身を包んだ男がへらへらとカシェルに向かい手を振っている。横を通り過ぎる兵たちはその様子に眉をひそめる様子もない。その様子から、いつものことなんだろうと推測された。
「何か私に用ですか」
呼び止められる理由がわからずカシェルは悟られぬように気を引き締めた。墓穴を掘って首をはねられる危険を、今の地位になってからカシェルは常に気をつけていた。そんなことをつゆ知らず、シエロは相変わらず笑みを浮かべている。
「はい。届けていただきたいものがありまして」
脇に抱えていたデータを差しだす。化学部門にデータ解析を依頼した記憶はカシェルにはなかった。極秘裏に行っているディオムの件で部下の二人が依頼した可能性もあったが、上官に発覚の危険がある内容なのでその可能性ははすぐに項目から削除された。
「これは?」
「ああ、この間のディオム崩壊の現地データの解析結果です。ちょうど会議前に終わったので、お持ちしたんですよ」
「次官…自らですか」
思わずカシェルは問い直していた。それほどにシエロの行為に驚いたのだ。
確かに重要案件は情報漏洩の防止のために会議の後に直接資料を手渡しすることもある。ディオム崩壊も確かに重要項目ではあったが、データの解析など次官自らがやる仕事でも、直接、持ってくるほどのことでもなかった。なにせ化学部門が解析したデータは、軍事内でさらにまとめ上げられてからカシェルたちの元に届くのが普通であったからだ。
「ええ。なかなか興味深いデータでしたよ。こんなにもサンプルが多く採れることなど滅多にないですからね」
楽しそうに語るシエロに、カシェルはわずかに眉を動かした。万単位の死をサンプルの一言で片づけるシエロの神経を疑ったが、人の命よりも実験を重視する化学部門のマッドサイエンティストの噂はカシェルも耳にしていたので、これがそうかと何とか我慢した。もしここにワルトシュタイムがいたとしたら、平均的な感情だと思っているカシェルですら一言いいたいのをこらえるのに苦労しているのだ、情に厚い彼なら一喝ではすまいだろう。
「そうですか」
なんとか口に出た相づちに、気をよくしたのかシエロはさらに続ける。
「ここしばらく単体で行動していた彼らが、ディオムの一件では数十匹もの群となって行動していたようなんですよ。黒の時代ですら最大十数匹なのに」
「数十! ……ですか」
闇に魅入られし者の集団化ばカシェルも予測していた。が、そのあまりの数の多さに驚きが隠せなかった。冷静に考えてみれば、数万という人間を殺しているのだ。それなりの数がいたのは当然といえよう。今でさえ一匹現れた闇に魅入られし者を倒すのにかなりの犠牲を払うとうのに、黒の時代以上の群をなすと聞いて最悪の想像が脳裏をよぎった。自分の幼年期を振り返り、カシェルはさらにぞっとする。
黒の時代。歴史に詳しい者でなくともその名と暗黒時代の名を知らない者はいない。それは闇に魅入られし者が活発化した恐怖の時代だった。暗黒時代には十数年で総人口の三分の二程度まで人類は喰われたと伝えられている。それもまだ百年前の出来事である。暗黒時代より規模は小さいが、十数年前に収束した黒の時代も常に恐怖が専横していた時代であった。毎日、世界のどこかで滅ぶ村や街があった。幼い頃に見た人間の食いかけを思い出し、胃液が逆流するような気持ち悪さがこみ上げてきた。
「はい、そうなんですよ。それだけの数が群をなすと、我々人類はもう滅びるしかないんですかね」
悲壮な考えですら、シエロはその口調を変えない。柔和な笑みをたたえたまま他人事のように語る。何がそんなに楽しいのだと思うが言及する気にもなれなかった。
その時、失礼します、と二人の次官の立ち話に割って入る声があった。白衣を身につけているのでどこの所属かは一目瞭然だった。ぼさぼさの髪と目の下にできた隈が徹夜の研究を伺わせる。
「シエロ次官。ハイアドーラ長官が三〇二に至急とのこと」
一気にそう伝えると直立不動に固まる。シエロはちょっと思索するように顎に手を当てると、メッセンジャーに先に戻るよう指示する。
「すみませんが、私はこれで。データの件よろしくお願いします」
そう言い終わるのも待たずに、シエロは歩き出していた。
カシェルは運良く入ったデータに目をやるとブリッジに向かう。
(コピーを取ってから、ジェイクあたりに戻してもらえば問題はないか)
頭に残る先程のシエロの話に、それこそ三部会議に取り上げるべき議題ではないだろうかと思い、ジェルナの腐敗を再認識し、深いため息をついた。
「これで良かったんですか」
カシェルと別れ、別の方向に歩いていたシエロは、真っ直ぐに呼び出された場所に戻ることなく、機密棟の一室に立ち寄っていた。その手には新たにはじまった実験の研究費に関する書類が握られていた。目の前にいる人物から渡されたそれを形通り確認する。
「書類はそれで十分だ。カシェルの件もあれで上出来だろう」
ひっつめた灰色の髪を弄ぶステアラに、シエロはそうですかと暢気に答えた。書類に書かれた金額の丸が提出したときより一つ増えているのを見ると、内心でおやおやと呆れてみせる。
「いいんですか。こんなにもだして」
「いくらあっても足りない連中が、何を真面目なことを言う。それよりも」
「わかってますよ。例のものでしょ。後数日もしたらできますよ。可愛くラッピングでもしてお届けしますから、ご心配なく」
可愛い。その言葉とからきし縁のないステアラは、シエロの皮肉を鼻で笑い、好きにするがいいさ、といい残し退出した。誰もいなくなった部屋でシエロは軽く伸びをする。 「さて、私も行きますか。長官がお呼びですし。……それにしても」
(私は策謀巡らし、同士討ちさせるよりも、みんなまとめてこの手にかける方が得意ですし、好きなんですけどね)
開くドアをくぐりながら、相変わらず笑みを絶やさずに、科学部門へのブリッジへと歩き出していく。
ゴルウェイの標的の一人は、あの和睦の一件から数週間経った今もザフィートにいた。ザフィートのジェルナ東方支部のタワーを背に、彼は都市の外れへ歩く。都市の作りは街に比べ至ってシンプルである。中心に行けば行くほど上級な人間が住み警備が厳しくなる。その逆、都市の城壁の近くは、〈ごみ溜め〉と呼ばれるスラムや裏街道まっしぐらな人間のたまり場であった。都市の警備をかいくぐるその地域は、闇のギルドがしきる無法地帯。だが、その闇のギルド無くしては都市の上層部が成り立たないのだから変な話である。
その無法地帯へと続く道を食べ物の入った紙袋を片手に、赤毛の男は鼻歌交じりで歩いていく。
「にしても意外だよな」
汚くなる街の外観をしげしげと眺めながら、二、三人の年端もいかない子供がぼろを纏って寄り添いあうのが目に入る。手にした袋の中身とその子供たちを交互に見ながら、パオロは空いた手で髪を掻く。この食べ物をやったところで、周りに潜むぎらぎらした目の野郎どもに奪われるのは目に見えていた。かといって素知らぬ顔で通り過ぎるのも、良心が痛んだ。
(中途半端な施しはかえって良くないよな)
袋の中から取りだしたパンを行儀悪く歩きながら噛みちぎる。食べるのが下手なのか、パンのかけらが一つ二つと、パオロの口から逃げ出していく。点々と落ちたパンくずを小さな子供たちは手に取ると、また一塊りになってかじる。大人には見向きもされない本当に少しの量だが、何にもないよりはましだろう。その様子を目の端に引っかけるとパオロは一人顔をゆるめる。
(俺も甘いな)
数歩先のところで、ずんぐりした男が変な顔でこちらを見ている。
「何、気色悪い顔してんだ。赤いの」
「誰が気色悪いんだよ。っていうか赤いのっていうな」
二人して、崩れかけたビルの細い階段を行こうとして、足を止める。
「おい、俺が先に来たんだぞ。お前は後から来いや」
「ゲイル。お前が太すぎるのがいけないんだろう」
「何をっ。俺のは筋肉だ。脂肪じゃねぇ」
「何もデブっていったわけじゃ」
階段の入り口で、他の住人のことなどお構いなく騒ぐ二人に、数人の人間が遠巻きにそれを眺めていた。どちらも一歩として譲らない。どちらが先に昇ってもたいして変わらないのであるが、どちらの立場が上かを示したいらしい。この地域を縄張りとしていたゲイルは先輩としてけじめをつけたいらしく、パオロにしても今までの経緯上自分が上だと譲らなかった。
「二人ともいつまで入り口を占拠しているつもりだ」
階上から降る声に二人して見上げる。普段から長身のゼノが下から見るとさらに大きく見えた。ちっと、パオロは舌打ち、目を背けた。
「ゲイル、早くしないと。ラグスが待ちくたびれるぞ」
「おう、そうだった。ありがとよ、白いの」
どすんどすんと勇ましく足を慣らし、細い通路を歩いていく。その様子にくたびれた木の板がよく抜けないなと毎回パオロは感心する。「赤と白は俺の故郷だと縁起がいいんだ」ゼノとパオロがいがみ合っているところに、現れ、二人の髪の色を見てそういったゲイルは、それから二人を白いのと赤いのと呼ぶようになった。いくらパオロが名前を呼べといっても効果はない。
「ったく、いつまで赤いのって呼ぶ気だ」
後から上がってきたパオロのつぶやきに、ゼノは口元をゆるめる。
「気にいらないのか、赤いの」
「ああ、お前とセットだってことがな、白いの」
並んで歩き出すが、パオロはムキになって一歩先を行く。外の見た目よりも中は複雑で、結構な数の住人がそこに住んでいた。建物の一番奥は、ここらへんでは唯一の酒場につながっている。その奥にはこの都市の闇のギルドがある。ゲイルがそのギルドに顔が利くという話を聞いたとき、パオロはあまりに意外すぎて開いた口がふさがらなかった。小心者で小悪党なゲイルが、闇に暗躍する連中と知り合いというのが結びつかなかったからだ。闇のギルドといえば、暗殺や盗みなどを提示額にあわせて請け負う何でも屋である。〈渡り鳥〉が縄張りを持たないのにたいして、こちらは各都市や街に必ず一つはギルドとして存在する。もちろん〈渡り鳥〉でない限り、ギルドに属していない者が縄張りを荒らせばギルドの者に消されるという仕組みである。都市や街の上層部もギルドを黙認する変わりに彼らに自治を徹底させていた。それが上層部のいうことを聞いて行っているものかはかなり疑問ではあるが。
「ゲイルがこんな隠れ家を持ってたなんてつくづく人は見かけじゃないよな」
「そうだな」
律儀に独り言に返事をするゼノに、パオロはひゅーと口癖ならぬ口笛癖を披露した。
「ま、黙って逃げてれば良かったものをわざわざ戻ってくるなんて、ホント見かけじゃないな」
「ああ。今もラグスの包帯が切れたのを調達していたしな。案外いい奴なのかも知れない」
「そうだったのか。だったらそういえばいいのによ」
そしたら通したのに、口の中でもごもごとばつが悪そうに言っているパオロの後ろ姿をゼノは微笑を浮かべ見守っていた。その姿は、若かりし日を彼に重ねて思い出す老人のような深い目だった。
二人がザフィートの〈ごみ溜め〉に居着くことになったのは、東部司令基地での闇に魅入られし者の襲撃を回避してコンラッドのレジオン宅に戻ったことによる。突然の帰還も予測にあったレジオンやイーデンだったが、ハウルセンらの興奮した様子に眉をひそめ、語る内容に口を開けっ放しだった。
「つまり、闇に魅入られし者が同士討ちをはじめたということですか」
半信半疑で口にするレジオンに、ハウルセンをはじめとするマラッサの主要人物が次々に首を縦に振っていく。
「本当に突然現れたのか。誰かの陰謀とかではないのかっ。そんな非現実的なことが起こってたまるか」
「実際起こったんだから仕方がないだろ。信じたくないのもわかるけどよ。なんせその場にいた俺ですら、未だに夢でも見たのかと思ってるから」
「俺もっすよ、兄貴。でも、ユリエルさんが叫んでくれなきゃ、俺たちみんな逝ってたっす」
パオロの後に続いたザックスの言葉に、三人は口を閉ざした。いきなり黙り込む三人に居残り組とザックスは首を傾げる。話題に上がった当の本人はラグスの様子を見に席を外していた。パオロは廊下に続くドアを未練そうに眺めていたが、埒があかないとばかりに口を開けかけた。まさにその時、ドアの外から女性の甲高い声が騒がしく鳴り響いた。執事服を着たイーデンは、嫌そうな顔を作り、ドアに手をかけた。
「お待ちください、お客様。勝手に出ていかれては、困ります。主人に確認いたしますので」
ドアの隙間から飛び込んできたうわずった声に、一同は腰を浮かした。イーデンは眉間の皺をさらに深くして廊下に出る。彼の目には、ラグスを背負ったユリエルとその彼女を制止しようとしていた数人のメイドが目に入った。メイドはユリエルから少しでも遠ざかろうと腰を引いている。その理由はすぐにイーデンの知るところとなった。ユリエルの手には白銀の銃が握られていたのだ。メイドたちを下がらせ、イーデンはユリエルの前に立った。いつの間にかレジオンもその後ろにいた。
「ユリエルさん、これはいったい何の騒ぎですか。お話があるのならこちらの部屋でお聞きしましょう」
「その必要はない。勝手に行かせてもらうわ」
銃口をイーデンの頭に向け、ユリエルは足を進める。留まるとばかり思っていたイーデンは思わず、後ずさったが、レジオンにぶつかり逃げ場を失った。迫り来る恐怖に声を上げそうになる。
「どうぞこちらに」
肩をつかまれ、イーデンはレジオンの後ろに押しやられる。ジェルナを相手に街の利権を守ってきたので荒事に慣れているのか、レジオンはひるむことなく近くの部屋を指し示す。その手の方をユリエルは一瞥する。ハウルセンの笑みが視線にかすったが、その動きを止めることはなかった。背に感じるラグスの息づかいが、少し早くなった。できるだけ傷ついた足には触れないようユリエルは力を抜こうとする。
「折角ふさがった傷をむやみに悪化させる必要もないと思いますが」
誘いに応じないユリエルを口説くよりも、彼女の弱いところをついた方が早いのを悟ったレジオンは早速方針を変える。わずかに背後を気にするユリエルの気配を見て取る。
「ユリエルさん、僕を…置いていって……」
首筋をなでるのはかすかな呼気。服を濡らす汗が、ラグスの痛みを伝えた。
「ごめん、ラグス。……もう少しだけ耐えて」
銃口をレジオンに向け、引き金に手をかける。その瞳に迷いはない。
「通してくれないのなら、力ずくでいく」
ざわめきが起こる。だが、それは彼女らの周辺ではなく、意外にも玄関の方角であった。
「何事だっ。騒がしいぞ!」
イーデンの怒声にいくつかの悲鳴が応じる。その声をかき分けるようにずんぐりした男がこちらに向かってくる。少し太めの体格だが、見るからに脂肪よりも筋肉が多いのがわかる。男はこちらに気付きのしのしと歩き寄ってくる。
「お、いたいた。嬢ちゃんに坊主」
「ゲイルっ。何しに来た」
いきなり向けられた銃口に、げっと唸ると、反射的にゲイルは両手をあげる。その手から、がさりと床に袋が落ちた。
「……薬草…?」
レジオンのつぶやきに、ユリエルは説明を求めるように小さく顎を振った。ゲイルは居直ったのか、それとも気恥ずかしいのか頭を掻くと、口元をゆるめた。
「いや、そのよ。……ほら、俺の逆恨みで坊主が怪我しちまっただろ。ちょっとびびらせてやろうとしただけなのによ。ジェルナの虫野郎がこと大きくして…だからよ」
「それで、これってわけね」
つま先で軽く布袋を蹴るとがさがさと乾いた葉が顔を見せる。その衝撃で砕けていく葉を、ゲイルはしゃがみ込み小さな破片も拾い集めていく。ユリエルは冷ややかにその様子を見る。
「気にくわねぇからって、蹴るなよな。こいつは貴重な奴なんだからな。その分すんげぇよく効くんだぞ」
「リシュルの葉…か。ゲイル」
「おう? 何だ」
「償う気なら、どこか落ち着いて過ごせる場所を探して」
立ち上がったゲイルの横をユリエルはラグスを背負い歩き抜ける。袋を抱え、意味も分からずに、レジオンたちの顔を一度見やるとゲイルも小走りでその後を追う。キーキーとイーデンの何かわめく声を玄関の重いドアを思いっきり閉めて塞いでやるとゲイルは陽気に声をかける。
「どうしたんだ嬢ちゃん。仲間割れか」
「そうよ。お利口な人間とは付き合ってられないわ」
ふっと背中が軽くなり、ユリエルは振り返る。彼女の三倍の太さはあろう腕に軽々とラグスを抱きかかえると、薬草の入った袋をユリエルに押しつけ、ゲイルは走りだす。
「そんならついてきな。とっておきの場所を教えてやらあ」
人混みに消える二人の後をこっそり付けたゼノとパオロは、そのままユリエルらと共に〈ごみ溜め〉にいついたのであった。
ゲイルが用意したこの隠れ家は〈蜘蛛の巣〉とこの一帯に住む者から呼ばれている場所であった。外見は小さな古びた廃墟なのだが、中は広く細い廊下があちこちに呼び名通り蜘蛛の巣のように伸びている。たとえジェルナが彼らを捕縛しに来ても、全員捕まらないように考えられた住居だそうだ。
すでに何回曲がったか忘れてしまうほど曲がった角をもう一つ曲がったところで、思いだしたようにパオロは口にする。
「いつになったらユリエルは俺らを信用してくれるのかな」
「さあな」
日に最低でも一度は繰り返される同じ会話。問いも答えもさして変わらずそれは習慣になりつつあった。
「だが」
いつもならそこでとぎれる会話を珍しくゼノは続けた。その意外さはパオロに足を止めさせ、彼を振り向かせた。目的地はすぐ手の届く場所にあったが、一度それを視界に納めるとパオロは紙袋を抱えなおす。
「いいのか。お前はここにいて」
「そういう旦那は? 俺よりも頼りにされてると思うけど」
ここ一週間、〈蜘蛛の巣〉でかわされる噂は二人にとっていい話はなかった。耳ざとい連中が集めた、ジェルナのマラッサ討伐はすでに知らぬ者がいないほどであった。現にマラッサの嫌疑を掛けられた街や村がジェルナに襲撃されているという。今のところマラッサでは実害は出ていないようだが、行動範囲が狭められるのは危険である。現に見せしめとして襲撃されたディオム付近では自衛策として外からの人間を厳しく監視しているらしい。徐々に南下しているジェルナを見るとはじめからマラッサがザフィート地方にいるのを知っていて、少しずつ追いつめているようだ。はじめこそ見当違いな所を攻撃しているジェルナをあざ笑っていたが、その思惑にたどり着くとのんびり構えているわけにはいかなかった。だが、ゼノもそのことに気がついているはずであったが、一向に動く気配を見せない。一人あたふたするのも癪に障るのでパオロもなんとなく動かずにここに留まっていた。
「俺の勝手な行動は今にはじまったことじゃないからな。承知の上だろう」
言外にパオロを拒絶する意志が読みとれた。
「へえ。んじゃ俺もたまには勝手に行動しようかな。ユリエルも仲間にしたいことだし」
そうだそうしよう。ゼノの行動に反発したいがためについでてしまった思いつきが、本当に良さそうな気がし、パオロは頷いた。だからユリエルの名が出たときわずかにゼノが眉を動かしたのを見過ごしてしまった。
「ユリエル…か。そういえばお前はなぜついてきたんだ?」
「なぜ…って」
言葉を濁したパオロは、質問されてはじめてその疑問にいきあたった。あの時はゼノがユリエルの後をつけていくのを見て、抜け駆けされたと思ってついてきたのだ。だが、当のユリエルは頑なに心を閉ざしたままで、なぜあの時、闇に魅入られし者が来るのがわかったのかさえ答えてもらっていない。人を口説くのも商品と変わらないとパオロは思っている。説得にかける日数や労力もすべて相手のなすであろう働きを考えて行う。パオロはそう決めていた。これは彼が尊敬する祖父が商人としてはじめて彼に教えたことであった。その信条からいくとユリエルには時間を割きすぎている。いつもならすぐに諦め、別のを探しにいくというのに、それともはじめて見た愚闇だからであろうか。
(将来性を見込んでってやつかな)
「そりゃ、もちろん口説くためさ。ユリエルちゃん、可愛いし。で、旦那は? 旅仲間だったからか」
軽口で自分への疑問をごまかす。浮かべた作り笑いをゼノは全てを見透かすような目で見る。
(この目だ。きっと俺の作り笑いなんてお見通しなんだろうな)
笑みを消すつもりもなかったが、いつもの如くパオロは内心で舌を巻く。時たまこんな目を見る機会があるが、そんなときはゼノとの差を見せつけられた気がした。あと何年生きたらあの目になるのか。それとも年数ではないのか。素直に負けを認められない自分がつくづく情けなくなる一瞬である。
「そんなところだ」
(よく言うよ)
ゼノが真実を口にしていないのは、この数年間の彼とのつきあいで熟知していた。ゼノが語ることは少ない。とりわけ彼自身のことについては何一つ語ろうとしなかった。闇に魅入られし者がはびこるこの世界ではそれもよくあることであったが、彼らは皆、闇に魅入られし者を恐れ口にしないのに対し、彼は違った。うまくそうだと隠しているが、パオロにはそう思えて仕方なかった。幾度もなく生死をともにしたが、彼を信じ切れないのはそれが不信感になっていたからだった。
(だけど、俺を追い払いたいのは、ユリエルに近づけたくないからか。旅仲間とは聞いていたが)
二人の仲が友好関係にないのはすでにわかっている。聞いた話からすると二人が出会ったのはマラッサとゼノが出会う前。ユリエルがラグスと同じ年ぐらいの時のことになる。
(何かを聞き出されたくないのか。だが、それなら仲間にしようとはしないだろう)
「ゲイルではないが、変な顔をしてどうしたんだ」
考え事をしていたのが顔に出たのか、ゼノはため息混じりに聞いてくる。
「変な顔じゃ」
ゼノに詰め寄る勢いは、女の声にかき消される。
「あら。色男が二人で何をしているのかしら」
ふふふ、と意味ありげに笑う。口元にほくろのある艶っぽい女は、ドアを片手で押さえながら、肩に垂れる長い髪を別の手で払った。
「獲物をどう落とすか相談中。ウェプソープは手当か」
胸元が大胆に露出した女が手にした籠にパオロが目をやると、ゲイルがどこからか用意するリシュルの葉が数枚入っていた。酒と紫煙の似合いそうな危険な艶を見せるウェプソープは意外にも占いを生業にしている。村と違って科学が発展している都市では、占いという非科学的なものはあまり受け入れられていないが、薬草の調合という別の面でかなり重宝されていた。実際、〈ごみ溜め〉の入り口付近には、人には言えない傷を治してもらいたいとウェプソープにつなぎを頼む人間を仕事の相手にする子供たちができるほどであった。
「それなら可愛い門番が動けないうちの方がいいわ。今も一人だからいい機会じゃないかしら」
「いないのか? ユリエルは」
「自分で確かめなさいよ。失恋の鉛の傷はいつでも癒してあげるわ。特別価格で、ね」
気を引くような流し目を二人に見せると、ウェプソープは逆の方向に歩いていく。彼女が歩くたびに、あちこちから誘いの声がかかっている。軽く肩をすくめたパオロは、開け放たれたままのドアを二、三度叩くと中に入った。
「よっ! ラグス、具合はどうだ」
「あ、パオロさん。お帰りなさい」
壁際に置かれた粗末な寝台に、ラグスは上半身だけ起こしていた。その脇には先に行った背はさほどないが体躯のいいのが座っている。おかげでラグスはパオロを見るのに左右に頭を移動しなければならなかった。
「おう、遅ぇじゃないか。さっさとよこしやがれ」
パオロから食料の入った袋をひったくると、お世辞にもきれいとは言えない食器に、鼻歌交じりにゲイルは盛りつけていく。ゲイルが座っていた場所に入れ替わりにパオロは腰を下ろす。
「あーあ、すっかり親父代わりだよ。あのおっさん」
生き別れた息子を思い出したという理由で、ラグスを気にかけるゲイルはここに移って以来、父親代わりを率先してやっていた。はじめはパオロのちゃちゃに激怒していたが、すっかり慣れたのか、へへと鼻をこするだけである。
「大変な奴に目をつけられたな、お前。あれじゃきっとくたばるまでつきまとってくるぞ」
「そうですか? 僕、うれしいです。父さんがいた記憶があんまりないから」
はにかむラグスの表情は、少なからず日陰に生きてきた三人にとってはまぶしかった。情報の少ない山深い村で生まれた彼は、確かに誰よりも純朴に育ったのだろう。だが、〈渡り鳥〉と共に旅してきたのだ。その素直な性格は生まれ持ったものだろう。ドアの横に背を預けていたゼノはわずかに目元をゆるめ、目の前で繰り広げられる団らんを見つめた。それは自分には縁が無くなって久しい光景であった。
「あ、でも、一生ってことはないですよ。早く怪我を治してまた旅に出ますから」
渡されたパンはこれでもかと大胆にレタスやハムが挟まれていた。どう食べたらいいのか、ラグスは困り顔でその巨大なサンドイッチを眺めていると、早く食えとばかりにうれしそうなゲイルの目にぶつかる。おもいっきて口にほおばると中身が溢れた。その横でパオロはゲイルの目を盗んで果物をつまみ食いする。
「んな、危険なことしないでよ。どうだ、俺と一緒にここで暮らさねえか」
縁の欠けたカップに牛乳をなみなみと注ぐゲイルは、ユリエルがいないのに目を付けてそんなことを聞く。ゲイルの息子はラグスより随分年上らしいが、その大きな手がなでる黄色い頭を彼とダブらしているのは端から見ていてもよくわかった。
「俺が馬鹿なことして怪我させちまったから、こんなこと言うのはおかしいけどよ。もしよかったら」
「ありがとうございます。だけど、僕はユリエルさんがそうさせてくれる限りついていきたいんです」
献身的なゲイルにすっかり怪我のことを水に流したラグスだが、丁寧にきっぱりと申し出を断った。気まずげに頭をかくゲイルが、やっぱだめか、と小さくぼやく。
「で、そのユリエルはどうしたんだ」
壁にもたれたゼノの声にラグスははじめてその存在に気がついたようであった。目を丸くしてサンドイッチを皿に戻す。
「えっと」
「また何も言わずに出ていったのか」
返答に困るラグスに助け船をだすと、しっかりと頷いた。〈蜘蛛の巣〉に移ってから、ユリエルはたびたび何も言わずに、姿を消す。以前はどこに行くにもラグスにそれとなく言ってから行くのに、ゼノやパオロがいるからかふらっといなくなるのだ。それも二人に気取られぬようにいなくなる。どこへ行っているのか聞けばいいのだが、ラグスは自分にはその資格がないからと聞けずじまいでいた。
(一緒にいさせてもらうだけでも迷惑なのに、わがままなんていっては駄目だ)
本当はユリエルの不在が不安で溜まらないのだが、そう自分に言い聞かせる。彼女がいないときに、ふと村を襲った恐怖が蘇る。そんなとき、死ぬほどユリエルが恋しくなるのだ。甘えてはいけないと言い聞かせているのに。
「それにしてもよ。お前たちっていつもどう旅しているんだ。やっぱ俺と同じで街道を通るんだろ」
「えっと、街道はそんなに通らないです。どちらかというと森や林とかそういうところを」
「森だぁ。赤い魔物の住処じゃねぇか。なんでそんなとこ通るんだよ。自殺行為もいいとこだぞ」
「余計ないざこざに巻き込まれたくないって。ほら街道を通るとたまにジェルナの人に会うから」
理由無く森に行くのが自殺行為だという認識は、都市の人間でも知っている事実であった。生態があまり知られていない闇に魅入られし者だが、その多くが森からやってくることから、森は彼らの住処だと認識されていた。そのため、森での狩猟や薬草採取が困難で、森で取れる者は貴重品として都市では高値で取引されている。現にラグスの治療に使っているリシュルの葉も森ではありふれた薬草だが、貴重品扱いされていた。
「勘がいいんだろうな。この前の時も奴らが来る前にわかってたみたいだからさ。な、そうだろ、ラグス」
話がいい具合に流れているので、パオロは探りを入れることにした。ユリエルに直接聞いても埒があかないのはすでに実証済みである。だったら連れから少しでも手がかりを手に入れ手の内を増やすしかない。
(俺の勘が当たってるなら、ユリエルは赤い魔物の存在を事前に察知しているはずだ)
闇狩がどういう者なのかはいまいちわからない。だから、そのことが特殊か一般かなど到底わからなかったが、もし闇狩が誰でもそうならきっと今よりはましな世界になっていたはずだ、とパオロは勝手に結論づけた。
「そうですね。僕は他の人がどうなのかは知らないけど、ユリエルさんは凄い人だと思います。だって、赤いのが見えない内からいることがわかるんですから」
「へぇ、あの嬢ちゃんがねえ」
ユリエルが闇狩だと知らないゲイルは半信半疑で聞いていた。ユリエルのこととなると尊敬の念が強くなり、誇張気味に話すそれがますます疑念を抱かせるのだろう。だが、正体が知れない方が好都合なので、ゼノもパオロも何も言わなかった。ラグスも闇狩のことを言うつもりがないらしく、巧みにその言葉を避けていた。
「耳がいいのか? 見えない内ってことは、音で判断しているんだろ」
あの細い腕で〈渡り鳥〉をしていることですら、銃口を突きつけられさえしなかったら信じなかったと、豪語したのだからゲイルはあまりユリエルの腕をよく思っていないようだ。確かに年も若いし、見た目も凄みに欠けていて、一見すると信じられないのは、同じ体験をしたパオロも認めるしかなかった。はじめに会ったときは、長年信用してきた〈止まり木〉のオーナーを見限るところだったのだ。いろいろあって仕事を依頼したが、掘り出し物だったのはいうまでもない。
「そう…だと思います。うん、そうです。確か一緒に旅をはじめた頃にそんなこと言ってましたから」
「そんなこと?」
思わずパオロは繰り返していた。その声の大きさは少し不自然だったかも知れないが、ユリエルの謎に一歩近づけると思ったらつい口に出ていたのだ。背後でゼノが動く気配がする。
「はい。えっと、聞こえるって。僕には何も聞こえなかったんですが」
「何もそんなに驚くこたぁねぇよ。俺の生まれ育った村にだって、音で獲物を見つける奴ぁはいたよ。それと同じさ」
前のめりになっていたパオロの背を、気持ちよく叩くとゲイルは、「仕事の時間だ」とぐるぐると腕を回して部屋を出ていく。景気のいい足音が遠ざかっていくと、その音に被さるように人の声がする。取って食うのが当たり前の〈蜘蛛の巣〉では珍しく彼は他人に慕われていた。
くしゃと苛立たしげに赤い前髪を掻き上げる。期待の大きさに比例して失望も大きい。はあ、と盛大にため息をつくパオロを不思議そうにラグスは見た。
「ラグス、よく思い出してくれ」
いつの間に近寄ってきたのか、ベッドのすぐ脇にまで来たゼノの硬質な声に緊張を覚えた。低い声は人に聞かれるのを拒んでいた。
「はい」
「ユリエルは、その時、声が聞こえると言わなかったか」
すぐに思い出を検索しはじめるラグス。パオロは不審そうに二人を見比べた。まさかユリエルが闇に魅入られし者のうなり声を聞き分けたというのか。あれだけの音なら誰にでも聞こえるはず。そう頭を巡らしていると、思い出せたらしくラグスが顔を上げる。
「確か、ユリエルさんは、声がするっていったんです。何の声がするんだろうって不思議に思ったから、たぶん、間違いないと思います」
「ちょっと待てよ。じゃあさ、ユリエルは遠く離れた奴らの雄叫びがわかるってことか」
「いや、それは違うだろう。あの時、現れた闇に魅入られし者は咆哮をあげてはいなかった」
パオロの思惑を察したゼノは直ぐに否定する。困惑にパオロは顔をゆがめずにはいられなかった。
「じゃあ、一体何を聞いたっていうんだ。俺たちに聞こえない何かを聞いているとでもいうのか」
やけくそのパオロの台詞に、ゼノは思案する。口元に当てた手が、唇にふれた。
「はっきりとは断定できない。だが、多分そうなのだろう」
苛立たしそうなパオロと珍しく当惑するゼノを交互に見やりながら、ラグスはユリエルに降りかかる追求を思い、自分の失言に後悔した。
ゴルウェイにマラッサ討伐の命が正式に降りてから、東部司令基地もザフィート市街にある支部もにわかに慌ただしくなった。そうでなくてもこの間の和睦の一件で警備が二段階近く厳重になっていた。支部は主に経済の管轄部署が多く、政府関係者や民間人も多く出入りをしている。いつもなら政府関係者など一部の者には免除している身体チェックと持ち物検査が今では特例なしに全員が対象となっていた。そのチェックを行うゲートの入り口に一人の女が花を持って立っているのを、ラッツはここ三十分ほど向かいのカフェから眺めていた。
他の者が休む暇なく忙しく働いているのが嘘のように、ラッツはのんびりとコーヒーの香りを楽しんでいる。別にさぼっているわけではなかった。なにせ仕事という仕事が無かったのだ。もともと鶴の一声で今の役職についたラッツは、皆が知るように上官にのみ奉仕すればよいわけで、上官の体が空かない現在、邪魔にならないように外で時間を潰すのが仕事となっていた。自分が戦闘向きでないのはラッツも承知の上だったが、デスクワークなら他者と同等には働ける自信はあった。事実、作戦を立てるのは好きなのだ。だが、ゴルウェイをはじめ周りの人間はただの見た目がきれいな人形でしかないと思っているようだ。それはすでに経験済みのことであるというのに、毎回腹立たしく思うのが、滑稽で仕方なかった。
(実力を認めて欲しいなら、娼婦の真似などするものか)
自嘲じみた思念を消すためだけに、何をするでもなく立ち尽くす女から視線をはずさずに、ラッツは少しだけ苦いコーヒーをすすった。おもむろに立ち上がると、ラッツは店を出た。支払いはいつも通り、つけておいてくれるだろう、そんな些末なことを思いながら、足は女の方に向かう。頭からつま先まで黒で統一している様は誰が見ても喪服としか思えなかった。帽子から垂れたヴェールが表情を隠していたが、おおむね予測はついた。
「おい。そこで何をしている」
ラッツの呼び声に、女はわずかに顔を動かしたが、それだけだった。近づくと思っていたより若いことに気がつく。碧の、何を映しているのかわからない瞳がぼんやりとラッツを映している。空の明るさとは縁のない陰鬱な感じである。
「何も。ただ立っているだけ。それでも罪になるんですか」
手持ちぶさたと立ち続ける女への好奇心から声をかけてみたが、女の投げやりの声に関わったことに後悔を感じた。どこにでもいる喪服を着た女なのだが違和感を覚えてならなかった。きっと遺族を失った失望のせいであろう。勝手にそう決めつけると感じた違和感を頭の隅に追いやった。俯いたたまま女は、ときおり様子を伺うかのようにこちらを見る。
「問題は行為じゃない、ここにいることです。いらぬ疑いをかけられ連行されたくはないでしょう」
いつもの癖で敬語で話してしまったことに気づき、ラッツはごまかすように咳をした。すっかり職業病になってしまった口調は今日明日でなせるものだはないと諦める。実際、敬語なしで話すのは落ち着かないのだ。そんなことは露も知らずに女はヴェールの下で碧の瞳を気取られぬように光らせた。握っていた花を一瞬さらに強く握りしめると、その腕で目の前の胸に叩きつけた。白い花びらがはらはらと落ちた。
「それが何っ! だったらあの人をかえしなさいよっ」
ヒステリックに女は叫ぶと、ラッツの胸を叩く。花は地面に落ち、低いヒールに踏みにじられた。
「紙切れ一枚よこして死んだって、どういうことよ」
女の言葉にラッツはこめかみを痛めた。思い至ることはある。先の騒動で数十に及ぶ兵が化物の餌食になった。そのほとんどは食いちぎられ、誰なのか判別するのも難しいほどであった。そのため、遺族には殉職としたためた紙が送られた。女が口にしたのはそのことである。闇狩は進んでジェルナに入隊するためたとえ死亡してもその通知が遺族の所に届くことはない。通知が届くのは非闇の兵のみである。そして運が悪いことに、あの時、兵のほとんどが非闇であった。まさか闇に魅入られし者が現れるとは誰も予想しなかった。だから、マラッサ相手だと侮り、闇狩を出さなかったのだ。通知を受け取った者の中には、死んだ理由も遺体もなくいぶかしく思う者もたくさんいたに違いない。だが、皆、ジェルナを恐れ、女のように口にしなかった。
(母のようになるのを恐れたんだ)
ラッツの脳裏に自分によく似た母親の顔が浮かぶ。相手はジェルナではなかったが、自分たちの手に負える人間ではなかったのは確かだった。
「なぜ遺体がないの。それとも見せられないとか」
愛する者の生還よりも遺体に固執する女にラッツは奇妙な感じがしたが、興奮した人間の言葉だと切り捨てた。金切り声とはいかないまでも矢継ぎ早に飛ぶ言葉と手にいささか動揺を見せる。胸を叩く手を抑え、落ち着かせようとするが聞く耳を持たない。今は人通りが少ないのでいいが、人だかりができる前に決着を付けたかった。あまり大事になると女を処罰しなくてはならないし、次官の地位にある自分がこの様な些末なことに関わっていたら、心証の良くない自分を蹴落とそうとする者どもを喜ばせることになるだけでもあったからだ。早く退去させねば、それだけがラッツの頭を埋め尽くした。
「まさか闇に魅入られ……」
「違う。あれはオルファーの」
しまった。つい口走ってしまった名前をごまかそうとする前に、女はラッツにすがってくる。
「オルファー? 何なのそれは。この前の地震と関係があるんでしょ」
止まるどころかより言葉を乱射する女に、数人の人がこちらを見ながら通り過ぎていく。視界の端にその光景を捕らえてもう駄目だと短く嘆息する。女の腕をつかむと、近くのビルの隙間に連れ込む。大通りから見えない位置までくると、乱暴に手を放した。周囲に目を向け、人影がないことを確認する。
「痛いわね。こんな所に連れてきてどうするのよ。それよりもあの人が何で死んだのか教えて」
身の危険も感じずに、鳴き続ける女を哀れっぽくラッツは見た。失言で漏らしてしまった秘密を何度も口にする女に、微塵の同情も湧かなかった。理解していないとはいえ、変に周囲に混乱をまき散らすのも自分の立場に良くない。それにどうせのうのうと暮らしてきたのだろう。少し結末が早くなったとしても底辺で生きている者とは幸せの率は多いはずだ。気が付かれぬ様にホルダーに手をかける。銃のずっしりとした重みに手が触れる。ちらりと横目で見る女は、変わらずにわめいている。最後に真実を教えてやるのも一興だろうか。ふと湧いたイタズラ心に、ラッツは深刻そうな顔を装う。演技なら誰にも負けない自信があった。
「残念なことに、多くの兵が闇に堕ちし者の手に」
驚きで手で口を塞ぎ、女は硬直する。その瞬間を逃さぬように銃が抜かれた。
「ラッツ次官!」
後少し引き金に力を加えれば、それで終わりだったのに、駆けつけた足音に阻まれる。
「こちらでしたか。上官から通信が入ったそうです」
「上官から? わかりました。すぐ行きます」
ホルダーに銃を納めると、まだ何かいいたそうにしている下士官に目を向けた。彼は女と銃を交互に見ると、状況を察知したらしく口端を歪めた。その薄ら笑いはよく見る種のものであった。金でどうにでもなる人間の証拠だ。
「頼めますか」
「はい。ここでは人目に付きますから、外でやります」
「そうしてください」
おびえる女の腕をつかむ男を確認すると、素知らぬ顔でラッツは歩きだす。ゲートの前で、一瞬、絶妙のタイミングで下士官が現れたことに思いがいったが気のせいだろうと、軽く頭を振るとそのまま中に入っていった。
後に残された兵士と女は、ジェルナの車に乗り込むとそのまま門に向い、真っ直ぐにザフィートを出た。車は一時間ほど走り、近くの林の中で止まった。追い立たせるような声を上げ、兵士は女を降ろす。そして、女は必死に車から逃げるように声を上げた。
「もう大丈夫だ。あとで銃声の一、二発鳴らせば誰も疑わないだろう」
「そう。意外に簡単ね」
鬱陶しそうに帽子を放り捨てる。現れた顔はユリエルのものであった。
「まあな。でなきゃ、俺みたいなスパイを雇うはずがないだろ」
にやりと笑う男は律儀に、ファン・レイウンと名を名乗った。
「今回はまともなのを選んだじゃないか。墓場男爵は相変わらず元気かい」
数年来会っていない上司からの連絡を読むといつもの癖なのだろう、大して気にとめた様子もなくそう付け加えた。ええと短い返事にファンは肩をすくめる。その仕草すら目に入れることもなく、ユリエルは数枚の書類に目を通していく。それが今回の依頼の報酬だった。
二人の共通人物である墓場男爵は〈蜘蛛の巣〉に住む闇ギルドの古株である。〈蜘蛛の巣〉に移って以来、ユリエルは何度となくジェルナに足を運び、少しの情報でも得ようと様子をうかがっていた。そんな彼女を今回の橋渡しにスカウトしたのが墓場男爵であった。いかめしい名前にはそぐわない骨張った矮躯な老人である。ただ窪んだ眼球から飛び出した目がぎらぎらと光っているのが嫌でも頭にこびりついた。ファンにいわせれば生まれたときから老人だとしてもおかしくないということになる。実際、誰も彼の年齢を知るものはいない。ある日〈蜘蛛の巣〉にやってきてそのまま居座っている。数十年前から、彼はそのままの姿なのだという。墓場に片足をつっこんだまま生きながらえている彼を、人はいつしか墓場男爵と呼ぶようになったのだという。
読み終えた書類を返すと、ファンは別のディスクを取り出した。
「これを男爵に。それで仕事は終わりだ。ああ、そうそう、他に聞くことはないか」 ぱん、ぱん。二発の銃声が空に放たれる。鳥たちが一斉に飛び立つ。ゆっくりと落ちていく葉とともにユリエルの視線も落ちていく。
「闇に堕ちし者」
「やはり、そうきたか。詳しくは知らないが、赤い魔物の新種の名だってよ。なんか化学部門のお偉いさんがつけたとか。嫌だね、まったく。この世の終わりってやつだな」
「そう」
その響きにまるで用意していたかのような感じを受けた。ふとムハルドの声がよみがえる。
『闇に魅入られし者は、闇に愛された人って意味なんだ』
もう使われなくなった古い言葉さ。
なぜ彼がそのことを知っていたのか、その時は疑問にも感じなかったが、ある考えが浮かんでくる。
(先生はもしかしたら彼らが生まれた理由を知っていたのかもしれない)
誰にも使えないといわれる古代の遺物を、当然のように扱い、見てきたかのように歴史を語った。不審な点はいくらでもあったのだ。そして、誰にも語ることのなかった彼の最後。
疑問は次々に新たな仲間を連れてくる。
(そういえば、先生の知り合いってゼノしかいなかった)
「んじゃな、生きてたらまた会おうぜ」
そんな台詞を残し、ファンは車に戻った。エンジンが稼働する音が林に響く。
中断されなかった考えに思いを巡らせながら、街道沿いに足を進める。程なくして、舗装された道に出ると、待ちかまえたように一大のトラックが止まる。相手の顔を確認すると、ユリエルは助手席に乗り込んだ。
無言で差し出される手に、預かったディスクを乗せる。その代わりのように小さなあごが指し示すのは、彼女の古びた外套であった。
「こんな手の込んだことする必要があったのかしら。あなたが直接いってもよかったんじゃない」
巧みに運転するのは、墓場男爵その人であった。
「顔を見られたくないんさ」
それに、と彼は続けた。
「安全はそう安くはない」
「同感ね」
ふん、と鼻を鳴らし、車を止めた。荷台にいけと手で示され、不審に思いながらそれに従う。後ろから墓場男爵もついてくる。ぼろぼろの幌をかぶった荷台には使い方もわからない機械が転がっていた。いろいろな部品がむき出しに付けられている。それはムハルドが自分で作っていた計器を彷彿させた。
「あなたが作ったの」
「わかるのか」
すでにかすれたうわずった声は、驚きというよりも喜びのほうが多く含まれていた。首を横に振るユリエルに、がっくりと頭が垂れた。そのまま自作の機械に先ほどのディスクを入れる。小さな画面のついたそれは、さほど大きくない音と光をだし動き始めた。画面に流れる数字と文字の羅列を嬉々として墓場男爵は眺めた。ディスプレイから放たれる淡い光が、幼児のようにはしゃぐ老いた男を浮かび上がらせた。
「それがあなたにもわかるの?」
「わしにも? お前、わし以外にも機械を扱えるやつを知っとるのか」
「知っていたわ」
「いた?」
画面から顔を上げ、ユリエルを見た。彼女が答えるのをじっと待っている。
「死んだわ。もうずいぶん前に」
そうか。画面に顔を戻すと、やっと聞き取れる程度のつぶやきが漏れた。知り合いでもないだろうに、彼の落ち込みようはひどかった。そのまま沈黙が二人の間を埋め尽くしていく。うぃぃいいん、とモーター音だけがせわしなく鳴いていた。
「そんなに物珍しく見るでない。昔はわしみたいなのはぎょうさんいたんじゃ」
縫いつけられた視線に答えたのか、独り言のようにしゃべりだす。
「…昔」
「ジェルナのできるそのまた前さ」
当然のように語る墓場男爵にユリエルは眉間に皺をよせた。
ジェルナ設立は約百五十年も前のことである。またその原型ができたのはさらに遡り約二百年前である。その前に栄えた文明などユリエルは知らない。世界の歴史の規範とされている聖書にも神の鉄槌により世界がはじまって以来、今ある文明以外の文明など書かれていない。いや、そんなことよりも人間が数百年も生きられるはずなどないのだ。何を馬鹿なことをいっているのだろう。
哀れみを含んだ目で見ていたのだろう、墓場男爵はそんなユリエルを見て声を立てて笑った。ヒーヒーと笑うたびに息が漏れる音がした。
「やはりお前は〈生き残り〉じゃないな。だが、それを知っとる」
「〈生き残り〉?」
ユリエルの疑問を無視して、墓場男爵は自分の前に座るよう指さした。はじめはためらったが、なおも示すのに観念し、ユリエルは腰掛ける。知り合ってまだ日が浅いが、墓場男爵の生気がみなぎり生き生きした様子などここ数年来見られていないことなのは何となく察しが付いた。その呼び名の通り、彼はいつも陰鬱で口数が少なかった。いや、そのはずだった。
「そうじゃな。お前、闇に魅入られし者の意味を知っとるか」
「ええ。闇に愛された者でしょう」
ヒーヒー。何がそんなにうれしいのかユリエルの答えに墓場男爵は笑う。他にはどうだ、そうユリエルの答えを求め手招きする。時たま、思い出したように画面に目を落とす。つられて目を落としたユリエルだったが淡い黄緑色の画面を流れていく文字の羅列はやはり意味不明なものであった。
「それは古代語だとか?……ちょっと待って」
自分でそう口にしてユリエルはあることに気がつく。
「それじゃ、闇に堕ちし者は? それも意味があるの」
「闇に堕ちし者? 何じゃそれは。今度は闇に落っこちたのか」
「それも古代語?」
はやる気持ちを抑え、唇を動かす。知らない内にそこは乾ききっていた。それに連動するように喉も乾きを訴えはじめた。
「ああ。そうじゃな。ん、待て。じゃったらこれを付けたのはわし同様〈生き残り〉か」
のんびりと自問自答する墓場男爵に、気持ちのみが焦り、きつい口調を叩きつける。
「ジェルナよ。ジェルナにもそれがいる。だから、古代の遺物を集めるんだわ」
ジェルナに遺物を扱える者がいるのなら、彼らがそれを集めるのもうなずける。そして、それを破壊するためにムハルドがあちこちを彷徨っていたことも。
納得顔のユリエルを墓場男爵は不思議そうに見つめた。それから、ディスクに入っていた情報を読みとりながら、言った。
「何を誤解しとるんだ。ジェルナに〈生き残り〉がいるなら集めるまでもねぇ。そいつの指示でもっとすごいのまで作れるさ。ま、わしみたいのならちっぽけなものになるがね」
「嘘」
信じられないようなユリエルのつぶやきに、墓場男爵は自作の機械を指し示す。呆然とそれを眺めるユリエルの目の前で、墓場男爵は思いっきりその機械を引き寄せた。近づけたり遠ざけたり、挙げ句の果てには自分の目をこすりその画面を見た。
「た大変じゃ。ら、ララ」
「どうしたの」
機械と製作者を交互に、説明をユリエルは求めた。
「ラ、ランコッドじゃ。次の、次の標的はランコッドじゃ」
「何ですって」
咄嗟に墓場男爵の小さな肩をつかむ。ごつん、と派手な音を立てて、機械が落ちた。その拍子に、画面の光がプツリと切れた。
「ちっ、ここも収穫なしっすか」
飯屋の入り口でザックスはため息をつく。情報収集にランコッドから北に数人のメンバーを引き連れて彼は訪れていた。目新しい情報はいまだ何一つ得られていない。
(もう少し足を伸ばすか、ひとまず帰るか)
とぼとぼと歩き始めたザックスの耳に、複数のざわめきが聞こえる。何だ、と彼らが指さす頭上を見る。そこには蜂のように大群をなし南下する黒い塊がいた。
それはまさしく、ユリエルがランコッド襲撃を知ったのと同時刻のことだった。




