1章
緑の心地よい匂いの広がる森の中を、走る獣がいた。
淡い茶色の毛はなめらかで美しい。ウサギより一回り大きいこの動物はノルと呼ばれ代表的な狩猟動物であった。
疾走するノルに背後から鈍く光るものが近づいていく。それは空を貫くばかりか、そのきれいな足をも貫いた。それでもなお走り続けようとするノルにさらに矢が刺さり柔らかい草々の上へ、ゆるやかに倒れた。
森の静寂がノルの死を飲み込もうと口を開けたとき、木々の間より二つの影が姿を見せた。その一つは弓を持った十二、三の少年だった。彼は仕留めた獲物に走りよっていく。
「どう、ラグス。それで頼まれたものは全部?」
「はい。大丈夫です」
動かなくなったノルを革袋に入れる手を止め、ラグスと呼ばれた少年は、自分の上に影を落とす女性を見上げた。まだ若い女だったが、歳に似合わない妙な落ち着きを放っていた。その上、体を覆う使い古された外套が女の素性をより不可解なものにしていた。
「そう。……それにしてもラグスは森については博識なのね」
女の揶揄にラグスは気づかず、素直にほお赤らめた。女もその勘違いを訂正しようとはせずに、ただその顔に微笑を浮かべるだけであった。
「リスルは森に囲まれた村でしたから……。そ、それに僕なんて、ユリエルさんに比べたら何も知らないのと同じですよ」
「そうかしら。現に、わたしはこの薬草の半分をただの草だと思っていたのよ。」
ユリエルは手にしていた袋をラグスに渡すと、ノルの入った革袋を拾いあげた。あまりに自然な動作に、一瞬ラグスは何が起こったのか理解できなかったが。ユリエルに促され、歩きはじめてからようやく重い荷物を持って行かれたことに気がつき、さらにラグスはほおを赤くした。
「あの、ユリエルさん?」
「荷物のことだったら気にしないで。ラグスはその分だけ働いたんだから」
「でも…」
確かに袋の中身の大半を手に入れたのはラグスであった。だが、彼が森の中でそれだけの働きができたのも、闇狩であるユリエルがいればこそできることなのである。そうでなければ、いつ闇に魅入られし者に襲われるかわからない森の中で、狩りや採取などできるはずもなかった。実際に、昨夜、二人は闇に魅入られし者を目撃していたのだから。
(そんなこと言ったら、ユリエルさんなんかしばらく何もしないでも生きていけるんじゃないかな)
森はどこまでも静かで、小さな住人たちの息づかいすらその中に取り込んでしまっている。半ばラグスもその中にどうかしながら、古びた外套のすぐ後を歩いていく。
「なんならそれも持とうか?」
振り向いたユリエル横顔に、木の葉の穴から光が注がれる。光の中のユリエルの微笑みはルフィアのそれによく似ているとラグスは密かに思った。
「ラグス?」
「えっ?……あ…だ、大丈夫です。自分で持てますから」
とっさに薬草の入った麻袋を胸に抱きしめると、草の青くさい臭いが袋の口より噴き出て、ラグスは顔をしかめることとなった。その顔の滑稽さに、ユリエルは小さく声を漏らして笑った。遠くからその二人を、森の住人たちは興味深げに見つめている。その光景はあたかも世界を覆っている闇とは無関係のようだった。
世界は闇に覆われていた。闇に魅入られし者と呼ばれる血の色をした闇に。その化物が世界に及ぼす影響は計り知れなかった、それらについて人類が知ることは無に果てしなく近かった。生息場所、生活習慣、寿命。どれをとっても明確な答えがでることはない。分かっている事実といえば、計り知れぬ能力を持ち、人を食らうこと。そして、化け物を象徴するかのようなあの血色の瞳だけであった。人類とほぼ同じ年数を生きてきたこの生命体はいまだ未知に近い存在で、人類はその恐怖から脱するための対策を見だしてはいなかった。
だがそんな人類も長い年月の間に、闇に魅入られし者の弱点である核を察知する能力を身につけた人間を、進化の過程で生み出すこととなった。また、闇に魅入られし者をせん滅するための組織を結成することに成功した。そのジェルナと呼ばれる組織は、闇狩を組織化し、人類の持てる最新の科学技術を駆使して、赤い魔物と戦っているが、いまだ防衛に徹するのみであった。
それに追い打ちをかけるように、現在、世界は上層部の腐敗と没落の混乱期にあり、その様を大きく変貌させようとしていた。
〈大流出〉によりそれははじまることになった。
一五年前、ヘッジと呼ばれる小さな村が闇に魅入られし者に滅ぼされた。その惨劇を最後に、化物の活動は急速に沈静化した。つかの間ともいえる平穏が、人々の心から権力への欲望を揺さぶり起こすのにそう時間はかからなかった。幾多といえる闇に魅入られし者への攻撃に疲弊した都市を引きずり落とそうと街々が結託したのが〈大流出〉のはじまりであった。もちろんそこには都市は常に都市であるという固定観念を持った都市の上層部の腐敗も大きな要因となったことはいうまでもないことであった。街は都市よりその特権ともいえる科学力を奪い取り、吸収していった。その現象は、急速に広まり、弱小な都市が次々に力ある街の前に倒れた。まさにその名の通り、科学技術が街に流れ出したのであった。幸か不幸か、闇に魅入られし者の活動はここ一五年の間、山間部で年に数回被害が出る程度で、沈黙を保ったままであった。愚かにも、世界は、いや、人類は内と外の二つの敵を相手にしなくてはならなくなった。
「そういえば、パオロさんたち、無事に商談が成立するでしょうか。昨日のあれのせいで荷がずいぶん減ってしまいましたし」
カサ、カサと落ち葉を踏む一定のリズムに合わせ、ラグスの腰でラジオが揺れた。前を行くユリエルの髪もそれに合わせて外に内にと揺れ動いた。木々はまばらになり、草々間からランコッドの石壁が見え隠れする。
「さあ、どうかしら。それこそ商人としての腕の見せ所ね」
「それって」
「あのよく回る口の本当の使い道はそこじゃないかしら」
「ふふ、確かに。護衛の依頼をされたときから、ずっとパオロさん、ユリエルさんのこと口説きまくっていましたよね。あれだけしゃべれるならきっと大丈夫ですね」
話に気を取られ少し遅れだしたラグスに合わせ、ユリエルも歩調を緩めた。けれど、ラグスが彼女の隣を、ましてやその前を行くことはなかった。
「でも、あの人たち本当に良かったですね。ユリエルさんのおかげで、僕みたく生き延びることができて」
その言葉にユリエルは顔を少しだけ上げたが、振り返ることができなかった。なぜなら、それが彼女と少年の関係だったからだ。
(感謝されたくて闇狩になったわけではない。できればこんな能力なんか欲しくなかった)
ユリエルの瞳に、昨夜の光景が浮かび上がる。
商業の街ランコッドに続く街道で、ユリエルとラグスが護送する商隊が闇に魅入られし者に襲われた。たまたま野営の準備のため車から降りていたのが幸いし、人的被害は最小に食い止めることができた。化物の最初の一撃で車体が倒れ、数人がその下敷きとなった。それだけの被害だったのだ。依頼主のパオロは最大級の賛辞をユリエルに与えた。闇狩がいたからこれだけで済んだ、その言葉は純粋に喜びを表現していたのかも知れない。だが、ユリエルにはそれこそが苦痛であった。闇狩として闇に魅入られし者をいくら倒し、喜ばれたとしても、愚闇である彼女にはその後に無数の憎悪と敵意の標的にならねばならなかったからだ。現にユリエルはかつて訪れた村で、闇に魅入られし者に襲われ、退治したことがあったが、愚闇がいたから狙われたのだと言いがかりをつけられ村を追われたことがあった。
『愚闇など神の慈悲も受けられぬぞ』
記憶の中で、飛礫と共に投げつけられる罵声。闇狩はジェルナに入り、世界を守るのが使命だと信じる者は多い。そうやって自分は正しいことをしていると思っている人間に限って、当の闇狩の意志など全くの無視だ。それならば都市の上級階級のように自分の富や権力を主張する方がわかりやすくていい。皮肉な笑みが口元に浮かぶ。
(この世に神などいない。いるとすればそれは殺戮を愛する神)
そうでなければ、とユリエルは思い、そこで頭を振った。これ以上考えたとしても無駄だとばかりに、息を吸い込む。まだ壁を越えていないというのに、人の生活臭が口の中に広がった。気づかぬうちに足が止まっていたらしく、ユリエルは背後から何かに押される形となった。
「すみません。……うわっ」
ぶつかった拍子にバランスを崩し、ラグスは勢いよく尻持ちをつく。カラン、とラジオが音を立て、転げ落ちた。
「…て…ます………の街が、……し者の襲撃により滅亡し…」
突然、なり始めたラジオの声は街道を通り抜ける風にかき消された。後にはジー……というノイズのみが響き渡る。
ただの箱となったラジオをユリエルは拾い上げると、スイッチを切り、ラグスに差し出す。ラジオからユリエルに、視線を動かすラグスの目には不安の色が浮かんでいた。その不安の奥には奇跡を望む切実な思いが秘めているのをユリエルは知っていた。
「ユリエルさ…」
「気にしないこと。いくらわたしでもどうにもできないのよ」
冷たく言い放つことしかできない自分と、それを言わせた彼にユリエルは顔を背けた。
ラグスは完全に納得したわけではないだろうが、ユリエルの言葉に頷いた。それでも、不安を隠せないのだろう、目は落ち着かずに辺りを見まわし、ユリエルにぴたりとついて離れなかった。
「行こう、ラグス。依頼人が首を長くして待っているわ」
優しくラグスの淡い黄色の髪に手を置き、促すと、二人は門をくぐり街の中へと入って
ランコッドの中心街。〈止まり木〉と呼ばれる酒場でユリエルは一人、グラスを傾けていた。カウンターの奥、従業員用の扉から男が姿を見せた。
「待たせたな。これが報酬だ」
「四ハーツ? 引き受けたときは五ハーツだったはずだけど」
渡された四枚の金貨をユリエルは手の中で遊ばせる。
〈止まり木〉ではユリエルのように様々な依頼を受けて生活する〈渡り鳥〉が仕事や情報を売買する非公認のたまり場だった。依頼される仕事も薬師からの薬草採取から要人の暗殺や情報入手など、種々様々であった。もちろん政府も〈渡り鳥〉の存在知ってはいたが、利用価値があるためその存在は無視されていた。〈渡り鳥〉はいかれた命知らずども。殺しても罪にはならないが、彼らが何をしても罪にはならない。それが世間の認識だった。
「そいつは仲介料だ。飲み物分も入れといてやるから安心しな」
「ミルクの金額なんてたかが知れてる」
「だったら酒でもおあってくかい」
「薄い酒を飲んでも、酔えないわよ。酒より価値のあるものがいいわ」
仲介者との駆け引きは〈渡り鳥〉の運命を大きく左右する。話しすぎても、聞きすぎても自分のためにならないとユリエルは思っていた。例えすぐに旅立つとしても、不利な情報を残すのは賢い〈渡り鳥〉とはいえなかった。だからユリエルも〈止まり木〉に来るときは、極力一人で来ることにしていた。ラグスに世の闇を見せたくないというのも理由の一つではあった。
「酒より価値のあるもの、ね。何が聞きたい」
「そうね。最近のマラッサの動きとかは、どう」
「マラッサねぇ。荷担しても金にはならねぇよ」
「慈善ごっこにつきあう気はないわ。でも、間違えでジェルナに襲撃されるのは避けたい」
「なるほどね」
酒場の亭主は顎に手を当て、思案する。ユリエルもマラッサの動きについては噂で耳にしていた。
ジェルナとマラッサの抗争は今や有名である。世界を裏から動かしていると囁かれるジェルナを打倒しようと立ち上がったのがマラッサだ。その名の由来となったマグナス=マラッサの名は稀代の愚か者として世界に知れ渡っている。闇狩であった彼は、一時はジェルナに入ったが、脱走し、ジェルナの闇を糾弾し続け、最後はジェルナにつかまり殺された。闇狩の能力に目覚めたのに愚かな奴だ。それが世間一般の評であったが、ユリエルは闇狩の能力に目覚めなければ彼は平穏に暮らせたのにと同情した。彼も自分もこの能力のせいで不幸になったのだ。マラッサが結成されたのは彼の死後まもなくであった。
片手でグラスを弄ぶ。グラスに残った液体が波立つ。
「最近、赤眼の魔物が活発に動き始めただろ。それでジェルナとマラッサが近々和睦をするらしいって話があったな」
「和睦?」
闇に魅入られし者の名を口にするとやってくる。迷信ともいえる慣習は闇に生きる者でも守る者が多かった。赤眼の魔物は闇に魅入られし者の別名となっていた。
闇に魅入られし者の活発化。誰しも〈暗黒時代〉の再来を望んではいないはずだ。だが、もっともらしい理由での和睦がユリエルには不審でならなかった。権力の亡者になりさがったジェルナの高官が簡単に和睦を認めるだろうか。マラッサの中心メンバーは少数であることを活かし、その存在は一部しか知られていない。と、すると…
(和睦を利用してマラッサの根をとるつもりね)
「どこでだかわかる?」
「いや、そこまでは聞いてないな」
口元をあげて男はユリエルを見た。これ以上は別料金だ、そう目は語っていた。これ以上の有益な情報があるかどうか、ユリエルは手の中の硬貨をちらりと見た。
もし推測が正しければ、軍を隠す必要がある。軍を疑いなく隠せる場所。
ユリエルはそれで十分とでも言いたげに、おもむろに立ち上がる。
「ごちそうさま」
立ち去ったユリエルの背後から、悔しそうな舌打ちが聞こえた。
ドアを開けると、街の喧噪がユリエルを待っていた。
道の両側には様々な店が出ていた。ランコッドは三大都市の一つザフィートと目と鼻の距離にあるため、村人が滅多に見ることのできない機械製品が売りに出され、他にない賑わいを見せていた。現に、一つの店ではラジオやタイプライターなどが置かれ、行商に着た村人がその物珍しさに群をなしていた。その人だかりの脇で、皮の外套を着た少年が一人、その群をちらちら見ながら立っていた。少年は待ちくたびれたのか、ふあっとあくびをする。その様子を隣の店主が迷惑そうな顔でじろじろと見ていた。。
(ユリエルさん、まだかな)
道を往来する人々からユリエルを探そうと目を向けるも、すり切れた外套を着た栗色の髪の女性はどこにも見あたらなかった。
(やっぱり無理を言ってでもついていけば良かった)
森で採取した品々をユリエルは依頼主に届けに行っている。
村に立ち寄った時には、直接依頼主と交渉し、その代価はほとんどが一夜の宿など現物支給である。その時はラグスももちろんユリエルと依頼主の交渉を目の前にする。だが、街や都市で依頼をこなすとき、ユリエルはラグスを交渉の場に居合わせないようにする。
それに不満があるわけではない。ユリエルがいなければ自分など生きていけないのだ。だから、彼女の迷惑になることはなるべくしたくなかった。だから、今回も市場を見て待つことにしたのだ。
足下にあった小石をはじき、小さなため息をもらす。脳裏には先ほど聞いたラジオの声が思い起こされる。
(最近多いよな)
ラグスがユリエルと旅をするようになって、半年が経つ。旅から旅への生活だからか、人よりもきな臭い話を聞いてきた。なるべく聞かせないようにユリエルが気を遣っていたことをラグスは薄々気がついていた。それでも、人よりは多く聞いてきたつもりだ。もちろんその話の中には闇に魅入られし者のことも含まれている。
(今月に入ってまだそんなに経ってないのに、もう四件だもの)
こんな時にはユリエルと一緒にいたい。嫌でも自分が闇に魅入られし者に襲われた時のことを思い出してしまう。
(それに)
街が滅んだ。そう続けようとしたとき、近くで何かが割れる音がした。驚いて目をやると、道は赤く染まっている。その血溜まりの中に妹は無惨にも……
からん。欠けたボトルが、勢いよく足下に転がってくる。よく見ると大きな袋を抱えた婦人が、買い込んだワインを落としたらしい。ボトルを避けようとして、店のテーブルにぶつかった。その瞬間、誰かにラグスは腕を捕まれた。
「泥棒だっ」
「えっ!」
「こら、ガキ。うちの店から盗ったもん返しやがれ」
「放してくださいっ。何も盗ってなんか」
もがくラグスを悠々と片手で押さえながら、店主は彼の体を探る。目的の物を見つけ、にやりと口をあげた。
「じゃあ、これは何だ」
男の手にはラグスの腰にぶら下がっていたラジオが握られている。ラグスが初めて訪れた街でユリエルが買ってくれたものだ。胸ぐらを捕まれ、足がつま先立つ。何事かと集まる人々のざわめきも、締め上げられる息苦しさも、ラグスには関係なかった。ただひたすらに取り上げられたラジオに手を伸ばす。
「それは僕の」
「はっ。てめぇみたいなガキにこんな高価なもんが買えるわけがないだろうがよっ。まして、こいつぁうちのとっておきよ。な、お客さん方もそう思うだろ」
店を囲んでいた客や野次馬は、ひそひそと無責任なことを口にする。冷たい目がラグスになげつけられる。違う、違う、と否定の言葉を口にするが、殺気立ちはじめた群衆には聞く耳もなかった。視線ばかりか石までもがラグスめがけて飛んできた。
闇に魅入られし者の恐怖に、自由を制約され生きてきた人々は、少しでも間違った者を見つけると集団でその者に制裁を与えた。行き場のない怒りのはけ口はやがて歪んだ慣習となっていった。その負の慣習は、闇に魅入られし者の沈静化したこの十数年、薄れはしたが消えることはなかった。
「ほら見ろ。みんなてめぇが盗ったとこを見てるんだよ」
「誰も見てないだろ」
不意に割って入った声に、店主は牙をむき出しにして睨むと、急に顔色を変える。
「よぉ、ゲイル。久しぶりだな」
「パオロさんっ!?」
群れなす野次馬の間を割って出てきた男にラグスは見覚えがあった。その赤毛と軽い口調と容姿は、つい昨日までユリエルが護衛していた商隊の若き主のそれだった。
「や、これはどうも。パオロの旦那にはいつも世話になりっぱなしで」
ラグスを威嚇していたのが嘘かと思われるような猫なで声で、店主はぺこぺこと声の主に頭を下げた。声の主は、日に映えた赤毛の前髪を軽く掻き上げると、大仰なため息を吐く。
「ま、な。俺様の口が堅いおかげで、誰かさんは自由に悪徳商法ができるってわけだからな。ちっとは感謝して貰わないと」
「へい。全くその通りで、こうやって日々感謝してますよ」
「で、今日はその恩人のダチにちょっかい出してるのは、どういう了見よ」
「へ、こちらのガ…お坊ちゃんが、旦那のお知り合いで。いや、奇遇ですね。今、いいラジオをお持ちだったんで、見せていただいていたんですよ」
ぱっと手を放され、ラグスはむせこむ。さっさと持てと言わんばかりに、ゲイルはラジオをラグスに押しつけた。顔には満面の作り笑いを浮かべる。
「それじゃ、旦那。名残惜しいですが、もう店じまいでして。またご縁があったら、お会いしましょうや。……オラオラ、見せもんじゃねぇぞ。さっさっと帰った帰った」
ゲイルは牙をむき群衆を追い立て、いくつかの商品をつかむと、人混みに逃げるように消えていった。しばらく人々は騒然となったが、すぐに日常に戻っていく。ゲイルの姿が人混みに消えたのを確認すると、パオロはラグスを振り返った。
「大丈夫か? ラグス」
「は、はい」
背を丸めてむせ続けるラグスに、パオロは近づく。はぁはぁ、と荒い息を整えるラグスの頭にそっと手を乗せる。もう、大丈夫だと、不安をたたえる瞳にパオロはにっと笑いかける。触り心地の良い髪を少しの間なでるが、急に手をつっこみと、ぐしゃぐしゃとかきまわす。
「や、やめてください。パオロさん」
慌てて、パオロの手をふりほどこうと身をよじる。片手でラジオを抱え直すと、空いた手を使い応戦する。やっとのことでラグスはパオロから離れるも、髪は乱れ、大惨事となっていた。ぷーっとほおを膨らませるラグスと、頭をかきながら笑うパオロ。道行く人々は先ほどの騒動がなかったかのように、その光景を見て兄弟喧嘩か何かかと微笑ましそうに眺め、通り過ぎていく。
「もう、何なんですか」
唇をつきだし、きゃんきゃんと苦情を言うラグスの姿は、まさしく威勢のいい子犬だった。片手で前髪をかきわけ、一生懸命にパオロをにらみつけた。
「いや、なんとなく、な」
「なんとなくって…」
「飼い主に置いてけぼりにされた犬……みたいな顔してたから、ついな。でも、元気になったみたいだな」
「……」
「そういや、あの可愛い飼い主はどこに行ったんだ?」
陽気な声が頭上から降る。パオロは額に手を当て、人混みを見回している。パオロの身長は高くもなく、低くもない。いったて平均並だ。きょろきょろと見回したところでたいした成果もでない。助けてもらった礼をいう機会を失ったことに気づき、ラグスはどうしようかとそわそわする。
「ユリエルさんなら、今、仕事にいっています」
「本当に置いてけぼりの犬だったのか」
「犬じゃありません。だいたい、さっきのゲイルって人は何なんですかっ!」
真っ赤になって怒るラグスをおもしろいおもちゃのようにパオロは見ている。
「まあまあ、そう怒るなよ。商人なんてやってればな、ああいいう小悪党にはしょっちゅう出会うもんだ。ま、ゲイルなんかは、小悪党にも及ばないがな」
「悪い人と知り合いなのはパオロさんもそうだからでしょ。付き合っている人を見ればその人がわかるって、神父さんが言ってました」
その神父は裏できっと賄賂をもらっている、そう口に出そうになったのを辛うじて飲み込む。無理に現実を教えなくとも数年すれば、彼もいやでも現実を知ることになる。
「それにしても、ユリエルがいないのか。また頼みたかったんだけどな」
「仕事がうまくいったんですか?」
「まあね。伊達と酔狂で命はって街から街への交易をやってるわけじゃないさ。新たな荷を確保したからガイケラまで護衛依頼をしたかったんだが」
「断るわ」
間髪入れずにラグスの背後より声が答えた。その声にラグスは顔を輝かせ、振り返る。
「ユリエルさん」
「相変わらず冷たいな」
飼い主に駆け寄る子犬をユリエルは懐に入れ、パオロに冷めた視線を送る。
「悪いけど、依頼を受けた人間からは二つ目は受けないことにしているの。他を当たってくれる」
ラグスはユリエルの言葉にわずかに眉を寄せた。確かにユリエルが同人物から立て続けに依頼を受けることはあまりなかった。だが、そんな主義を持っていたというのは初耳である。
「なあ、そういわずにガイケラまで行ってくれないか。なんなら俺じゃなくてザックスの依頼にしてくれて構わないからさ」
「耳が悪いの。私は断った。しつこい男は嫌われるわよ」
「嫌よ、嫌よもっていうだろ」
ふざけた口調で二人に近づくパオロだが、彼の目は獲物を見据えている。それは商談を成立させようとする商人の目なのだろうが、ユリエルには自分と共通した臭いを感じた。
(ガイケラ…か)
ガイケラはザフィートに併設した街である。というよりも、ザフィートによって作られた街というのが正しい。ザフィートだけではないがこの世界の居住区は壁や柵に覆われ、闇に魅入られし者の進入を少しでも遅れさせるようになっている。特に三大都市は電磁を利用したバリアを張っているため、出入りできる時刻が決められていた。そのため都市が開く時刻を待つ人々のために都市はガイケラのような街をつくりあげたのだ。信憑性はともかく、マラッサとの和睦が囁かれている今、ガイケラに行くのは余計な厄災を増やすだけであった。
「それにあんたじゃなければ駄目だ。昨夜みたいに赤い魔物に襲われたら次はないからな」
街の人々に聞こえぬよう耳元で囁くパオロに、ユリエルの無表情がわずかに壊れた。二人を見上げるラグスの目は不安そうに揺れている。いつ誰に聞かれるかわからない状況で大声で話せる内容ではなかった。民衆に聞かれたら間違いなく騒動が起きるだろう。それを承知でパオロはこの人混みの中でその話題にふれた。ユリエルにはその真意がわからなかった。
「私がいたとしても生き残る確証はない。昨晩はルフィアが微笑んだだけ」
ルフィアを信じないユリエルが、神の名を口にするのは、自分が闇狩であることを隠すため。闇狩であることがばれたせいで、起きた災厄の数は計り知れなかった。偽りの平穏でもそれを得るには闇狩であることが邪魔をするのである。
「そんなことはないだろ、だってあんたは愚…」
パオロの言葉は途中で消えた。硬質な触感を腹部に感じ、男は顔をこわばらせた。ゆっくりと向けた視線の先にあったものは想像と同じ物だった。ただの脅しではないことはユリエルの瞳が物語っている。とっさにラグスを見たが、彼女の一歩後ろにいる彼には、尊敬する女の行動がわからないようだった。
「悪かった。他を当たるよ」
パオロが引き下がるのと同時に、ユリエルは踵を返した。
「行こう、ラグス」
「あ、はい」
ユリエルの後ろを歩き出したラグスは、助けてもらった礼を言うのを忘れていたことを思い出し、パオロを振り返った。硬い表情で立つ赤毛の商人に、ラグスは礼の代わりに小さく会釈をした。
遠くで教会の鐘が鳴る。市もそろそろ終わりを告げようとしていた。家路に向かう足も多くなる。ユリエルの背後を追うラグスは、その人ごみにぶつかった。
(あれ、今、誰かこっちを見ていたような)
すみませんと頭を下げ、ラグスは背後を気にしつつ、ユリエルの後を追った。
冷たい蛍光灯の光が、3人の男を見下ろす。窓辺に立つ男は、カーテンの隙間から夜空を見る。昼とは裏腹に雲が月を隠し、夜を一層闇に近づけていた。小声で交わされる会話は耳に届かなかったが、その内容は知っていた。
「やはり噂どおりですか」
顎下に手を組み、男は嘆息した。
「ええ、残念ながら」
それに答えたのは男の前に座る人夫だった。いかにも高官そうな男に多少言葉を改めてはいるものの、二人の関係は対等に近い。
「いえ、こればかりはザックス君たちのせいとはいえませんから。お気になさらずに」
「ああ、レジオンの言うとおりだ。赤い魔物が起き出したのは俺たちが悪いんじゃないからな」
そのとおりです、とレジオンは頷いた。ザックスがレジオンに語ったのは、最近の闇に魅入られし者の活動状況であった。最後に彼は自分たちが昨晩、それに襲撃されたことをつけ加えるのを忘れなかった。レジオンの前にはザフィートの周辺地図がローテーブルに置かれている。その一点から一点をつなぐ線を見るとレジオンは再度、ため息をついた。
「しかし、そうなるとガイケラまでの道中が心配です。ただでさえ和睦の件でジェルナの動きがあわただしいいうのに」
「あ、それについては、もしかしたら愚闇に護衛を依頼できるかも知れませんから」
ザックスの言葉に、パオロは顔をゆがめた。ユリエルに依頼を断られたことは、ザックスにも話はしてある。もちろん一回断られたからと行ってあきらめるつもりはなかった。現に今も、別の仲間にユリエルたちを見張らせ、もし夜中に街を立とうとしても連絡は来るようにしていた。必要とあらば、卑怯な手段を使ったとしても愚闇を従わせるつもりだ。だが、ユリエルにはそういう卑怯なことはしたくない。そんな甘い気持ちがパオロの中にあった。
(こっちも生死がかかっているから、そんな悠長なこといってられないんだがなぁ)
できれば納得ずくでついてきて欲しい。脳裏に浮かぶユリエルの冷めた瞳が、そんな思いすら拒絶する。知らずに、口元に苦笑が浮かぶ。ザックスとレジオンは別の話題に移っていた。その話題もあまりいい結果がでなかったのだろう。先ほどから二人の眉間には深い皺が刻まれていた。
(仕方がない。また明日、行ってみるか)
パオロがそう思ったとき、階下からあわただしく靴音が鳴り響いた。
「大変ですっ。ジェルナが動きました」
その声が消えるより速く、パオロは動き出していた。
その音でユリエルは目が覚めた。寝静まった夜に響くエンジン音。都市でない限り、車が使える者など数が限られている。その数少ない中で、こんな夜更けにそれを動かすのは、心当たりが一つしかない。この街でジェルナに追われるようなへまはしなかったはずだ。
早まって逃げて、怪しまれたら馬鹿をみるのが落ちだ。耳を澄まし、外の音に意識を集中し、様子を見る。追跡者とは考えられないような興奮した声が、夜の静寂を破る。
「…から、ラリー……って、赤毛のと、ちっこい…」
(赤毛の……あいつのとばっちりか)
ベッドから降りると、向かい側で寝ているラグスの寝台に近づく。肩を揺すり起こすと、さしてかからずにラグスは重い目を開けた。唇に指をあてがい、ユリエルは窓辺に立つ。ここからではよく見えないが、暗闇の中で確かに何かが動いていた。それも一人ではない。 不意に服の裾を引っ張られた。見るとまだ眠い目をこすりつつも、ラグスは外出の準備を整えており、ユリエルの荷物を差し出す。何も言わなくても、何かから逃げるのだと知っている少年に、ユリエルは罪悪感を覚えずにはいられなかった。
二人の出会いは半年以上も前、山深いリスルという小さな村であった。その時、ユリエルはあてのない旅の途中に村に立ち寄った得体の知れない旅人だった。一方、ラグスは村の教会で妹と二人で神父に養われていた。彼らの両親は七、八年前に流行った病で亡くなっていた。接点がなかった二人を結びつけたのが、闇に魅入られし者だった。狩猟に出ていた村人が襲われ、這々の体で生き残った者が村に逃げ帰ってきた。その後を赤い魔物は悠然と追ってきていた。その日、ユリエルは村を立ったが、嫌な気配を感じ、村に引き返した。その途中で、助けを求めるラグスに会ったのだ。闇に魅入られし者が死んだ時には村の過半数は食いちぎられていた。ユリエルは愚闇と知れ、彼女に助けを求めたとしてラグスは村人から迫害された。私刑にあっていたラグスを助け、村を出た。それから今日まで、二人で旅を続けてきた。
愚闇であることを隠したとしても〈渡り鳥〉である以上、平穏な生活とは言い難かった。二人で旅を始めた頃は、ラグスをどこかに預けた方が彼のためだと思っていたが、どういうわけか、彼はユリエルに心酔し、その後に付いてきた。今では彼を守ることが、何もなかった彼女の存在意義のようになっていた。
ようやく光の戻った目で、ラグスは不思議そうにユリエルを見つめる。闇の中で、彼女は微笑んでいた。
(大丈夫。今回も乗り切ってみせる)
右手に白銀の銃〈ルアムーン〉を持つと、左手でラグスを抱き寄せる。
「ラグス。二手に分かれよう。私が注意を引いている間にできるだけ逃げなさい」
「住人のふりをすればいいんですよね」
幾分緊張した声が、確認を取る。ラグスなら一人で歩いていても、住人に間違われるだけだろう。運が悪くても、スラムの子供だと思われる程度で、ジェルナに捕まる心配はない。そう経験からユリエルは知っていた。下手に一緒に行動したら、ジェルナに荷担した住人に何をされるかわからない。それはラグスも身をもって知っていた。
音を立てないようにゆっくりとドアが開けられる。
ラグスが裏口に回ったのを確認すると、ユリエルは小さく息を吐く。外套下のルアムーンの銃身を軽くなでると、ドアの外の人の気配を確認する。濃紺の制服を纏った男が二人、おもむろに進入してきた。
「こんな夜分に何の用? 宿の主はまだ夢の中よ」
ドアから進入する外気が、ユリエルの髪を揺らす。
「ここにマラッサがいると情報があった。身に覚えがあるだろう」
ユリエルは心の中で舌打ちした。マラッサとは、またやっかいな嫌疑をかけられたものだ。そう思いながらも、表情は不適な笑みをつくり、相手を挑発する。外套の下ではルアムーンがジェルナ兵の足を狙う。
乾いた音と共に男の呻き声があがり、ユリエルはひるんだ敵を銃身で殴りつけ、外に出る。ジープと兵士が一人その近くにいた。対応が鈍い。その間に、敵から武器を奪い去る。どうやら地方兵でも下級の兵士ばかりであった。
(おかしい。ジープ一台なら四人いるはず)
辺りに注意を向け、潜んでいるはずの一人を捜す。宿の裏から人の声がする。
「おう、嬢ちゃん、その銃をよこしな」
兵士とは思えない声が路地から現れる。
「おっと、下手に動くなよ。でないとお連れさんが痛い思いすっからな」
「ラグスっ」
現れた男は、兵士ではなかった。柄の悪い口調と顔つきがユリエルに、ラグスから聞いた昼間の一件を思い起こさせた。
(逆恨みか。はじめから、ラグス狙いだったんだ)
自分の判断の甘さをユリエルは恨んだ。銃身が細かく揺れる。男に捕まったラグスは申しわけなさそうに彼女を見、近くのジェルナ兵に訴える。
「ゲイルは、こいつはっ、僕の物を盗んで売ろうとする悪党なんですっ。ジェルナは悪党の言うことを信じるんですかっ」
ゲイルの背後にいたジェルナ兵は、冷たい機械のような視線でラグスを観察する。口を噛みしめ、恐怖をこらながら、ラグスもにらみ返す。
「例え悪党の証言でも疑いがあれば調べるだけだ。悪党よりもマラッサの方がたちが悪いからな」
ほらみろと、勝ち誇った笑みをみせるゲイルに、かっとなって、ラグスはその腕に噛みついた。
「痛ぇっ。このガキ、何しやがるっ」
道に投げ捨てられると、隣の兵士から銃を奪いとり、ラグスめがけて打つ。近くの土が舞い上がり、ラグスは身を丸めた。一発が、足の肉をえぐる。何ともいえない衝撃にラグスは叫び、足を押さえる。
「ラグスっ! この」
銃を構え直し、ゲイルの頭をねらい打とうとしたとき、クラクションとヘッドライトが邪魔をした。
「この騒ぎは一体なんですか!」
光の中から数人が降り立つ。
「私はレジオン。この街の執政官です。この騒ぎの経緯についてお聞きしたい」
レジオンと共に来た彼の部下たちはジェルナ兵たちの武器を回収し、ラグスの手当をする。ユリエルのもとにも武器を回収に来た。仕方なく渡すと、部下は彼女の背後に立った。監視か、とユリエルも一瞥をくれる。
「この街では約定により、ジェルナが動く折りは事前に私に連絡をするようになっているはずですが、これはどういうことですかな」
突然現れた執政官に、下級の兵士たちは顔色を変えた。ゲイルも萎縮し、きょろきょろと逃げ道を探している。
「この者より、あの二人と商人ラリー=パオロがマラッサであると情報を得た。それの取り調べだ。先方に連絡をしなかったのは、情報が漏洩するのを阻止するためだ」
ゲイルと共にいた兵士が、言下に街ごときが口出しするなと含ませて、抑揚なく答える。
そのやりとりを静観し、逃走する機会をうかがっていたユリエルに、背後の男が距離を詰めた。
「もうじき煙幕が張られる。それに乗じて奴らのジープで逃げるぞ」
やっとのことで届くのは、聞き覚えのある声。なぜここに、と思うが、現状で問いただすのは不可能なことだ。返答がないのを承知ととったのか、彼は続ける。
「ラグスはザックスが連れて来るから、安心して逃げろよ」
声が終わった瞬間、ボン、と破裂音がしたかと思うと、辺り一面を煙の幕が遮った。
「ごほ…な、何だこれは」
レジオンが煙の奥でむせている。演技なら、迫真の演技というものだろう。
「おいおい、ちょっと早すぎじゃねぇ」
一人そう呆れるパオロの声に促され、ユリエルはジェルナのジープに走った。彼女が着くのと同時に、パオロも運転席に潜り込む。
「後はザックスだな」
煙の中に近づく人影を見つけ、ユリエルは手を伸ばす。一人、二人……
(二人?)
そう思ったのが早かったか、ジープが動き出す。見る見ると煙の壁が立ち去っていく。
「逃がすな、追え」
ジェルナ兵の声が耳に残ったが、ジープはあっという間に、大通りを抜けた。細い路地をあちこちに走りながら、外門を目指す。何度も路地を曲がったため、どの方角に走っているのか、わかるのはパオロだけだろう。追っ手が来ないのに少し気が抜けたのか、四人目の招かざる客に視線が集まる。
「で、なんであんたまでいるんすか?」
ザックスの横には、ちゃっかりとゲイルが座っていた。ザックスに抱えられたラグスの足を、ちらちら見ながらゲイルは冷や汗を流している。
「い、いいじゃねぇかよ。俺のお手製煙幕弾で助かったんだからよ」
「別に頼んでないしぃ。俺たちだってそれぐらい用意してんだよ。つか、ゲイル、今、ここで飛び降りろ」
運転席からの無茶な言葉にゲイルの顔がさらに青くなる。ひぃっと引きつった声を上げるのは、助手席から向けられた銃口のせいだ。
「鉛の玉がお好みなら遠慮なくどうぞ」
「二人ともやめてくださいっす。とりあえず、走れるだけ走ってから、煮るなり焼くなりしてくださいよ。ゲイルなら意気地がないから、それまでおとなしくしてますから」
ひどい言いようにも、今、死ななくてもいいのならと、ゲイルは何度も首を縦に振った。ラグスを早く安全な場所に連れて行くか、その前に仇を討つか。優先順位が明らかなだけに、気持ちの整理がユリエルはつかなかった。外門に近づくに連れ、どの方角に向かっているのか次第に明らかになる。北の外門から最短でいける街はガイケラしかない。そこまでの数時間をラグスに傷を負わせた人間と一緒にいるというのは、理性で理解しても、感情が納得しなかった。ラグスは苦しそうにザックスの腕の中で呻いている。
「助けてもらったことには感謝する。けど、あなたは許せない。少しでもおかしな真似をしたらその頭に穴が開くと思いなさいっ」
ひゅーっと、腹立たしげに前に向きなおるユリエルを、口笛が迎えた。なぜかうれしそうにパオロの顔がゆるんでいる。ユリエルの視線に気づいたパオロは、ニッと笑顔を向ける。
「やっぱりあんたも人間だったんだな」
その台詞にユリエルはどんな顔をしたのか自分でもわからなかった。ただパオロがククっと笑うだけだった。
ジープはランコッドを抜けると、闇に沈んだ世界を駆け抜けていく。
夜明けにはまだ遠い。
夜の闇に広がる沈黙。ビルの谷間を駆け抜ける風の音がいやに大きく聞こえた。昼間の騒々しさとはうって代わり、今夜は恐ろしいほど静かだった。まるで幽霊都市のように。
雲の切れ間より、月の煌々とした輝きが闇に微かな光をもたらす。よく耳を澄ますと風の音に混じって、低い音が聞こえる。そればかりか、その風の中に、痺れるような腐った臭いがした。
闇に包まれた都市に、赤い星が散らばっている。
破壊されずに、いまだその光を輝かせている街灯が照らし出すのは、赤く染まった道と、その中の所々に転がっている人の一部分だった。
すでに誰もいないであろう都市に、生存者がいた。地上から数十階分離れた上空の一室、西の中心であるディオムのジェルナ支部に彼は生きていた。
青いレーザーが、目の前に迫る物体を貫く。
「ひぃっ」
わずかに口から漏れる声は、目の前の恐怖により甲高くなっている。
目の前にいるのは黒ずくめの少年。月明かりで辛うじてその顔が見える。血が通っていないのかと思われるほどの白い肌と、血のように赤く染まった瞳。赤い魔物と同じ眼をした少年は、悠然とその場に立っていた。その眼は、恐怖に歪ませた初老の男をとらえて離さない。
ガシャンッ
後ずさりながら、男はテーブルにぶつかり、その上に置いてあった花瓶を落とした。そのせいでバランスを崩し、したたかに脂で覆われた体を打ったが、痛みは死の恐怖によってかき消された。手にしたレーザーガンが小刻みに揺れていた。それにすがりつくように固く握って離さない。一歩、また一歩と変わらぬ歩調で近づいてくる少年に男は銃を向け、引き金を引く。
(…っ!)
青い光は少年の体内を通り抜け、背後の壁を貫いた。それでもなお、その歩調は変わらない。
「…あ、…ひぁ……」
命乞いをしようとしたのか、男は口を動かすが声にはならない。眼前で止まった少年を見上げる。口元が奇妙に歪んでいた。笑っているのかも知れない。少年は男の手から銃を受け取ると、近くに放り投げた。通信機のガー…という雑音が微かに聞こえる。時たま人語のようなものが聞こえたが、何を言っているのかはわからなかった。
「もう十分抵抗したな、ポリー=リグルド。それでは、次は私の番だな」
男を見下ろす眼も声を冷たい。
「お前が知る〈生き残り〉は誰だ」
「あ、あれは私のせいじゃないっ。私の」
まるで関係ないことを口走るリグルドを、少年は軽くつま先で蹴った。人でない力にリグルドは腹部を押さえ、のたうち回る。少しの間痛みに声も出なかったが、落ち着くと、堰を切ったように話し出した。
「〈生き残り〉だな。私も所在は知らないが、バージルとステイルがどこかにいるはずだ」
最後の言葉は空気をわずかに振るわせただけであった。開かれたままの目が、自分自身に起きたことを理解できていない様子だった。胸にあいた穴から、血が流れ出している。
「あいつの居所は見当が付く。残るは、ステイル=Z=ウディールか」
地上から闇に魅入られし者の咆哮が轟く。少年は、顔を歪めて笑うと、屍に背を向けた。
(ここでの仕事は終わった。後はあいつの仕事だ)
赤から黒へ、瞳の色が変わる。耳に聞こえるのは、闇に魅入られし者の悲痛な叫びのみだった。
翌朝、太陽が昇ると同時に、世界にそのニュースが流れた。
三大都市の一つ、西の中心都市ディオムが闇に没したというニュースが。




