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硝子の城の王女

作者: 佐倉穂波

 硝子の城は、風を拒むように静まり返っていた。

 天井から垂れる光は、まるで氷のように冷たく、床の上に淡く揺れる。

 その中心に、王女エリスは膝をつき、朝の祈りを捧げていた。


 祈りといっても、そこに熱はなかった。

 唇が機械的に言葉を紡ぎ、瞼の奥では何も動かない。

 心は、凪いだ湖の底に沈んだままだった。


 ——何かを感じなければならないのに。

 ——けれど、どうすれば「感じる」ことができるのかがわからない。


 エリスの心は、長い間、そうして時間を止めたままだった。


 城の外では春が訪れようとしているらしい。

 けれど、この硝子の城の中には季節という概念が存在しない。

 温度も、匂いも、色も、世界から切り離されたように透き通っている。


 唯一、人のぬくもりを思わせる存在は、宰相レイヴンだった。

 彼はいつも、朝の祈りを終えたエリスのもとへ静かに歩み寄り、柔らかく頭を下げる。

 その眼差しには、敬意と——どこか痛みを含んだ優しさがあった。


「体調は、いかがですか、姫殿下」


「変わりありません」


 エリスの声は、まるで硝子を叩いたときのように、乾いて澄んでいた。

 レイヴンは微笑を崩さずに頷いた。


「それは、何よりでございます」


 その言葉に、安堵と罪悪感が交錯しているのを、エリスは察していた。

 けれど、感じ取っても、それを受け止める感情が存在しない。


 ただ、“理解”だけがある。

 それは、あまりにも静かで、痛みのない世界だった。


 遠くで鐘が鳴った。

 開城を知らせる合図だ。


「陛下は、今夜も遅くまで政務を続けられるようです。『今日も、そなたを案じている』と言付かっております」


「そうですか。ありがとうございますとお伝え下さい」


 エリスの言葉にレイヴンは一礼し、扉の方へ向かった。


 父が『案じている』という言葉も、どこか遠い世界の出来事のように響く。

 エリスはもう、父の声をいつから聞いていないのかも思い出せなかった。政務に忙しいからと、もうずっと顔を合わせていない。


 扉が閉まる。

 硝子の城は再び、完全な沈黙に包まれた。


 ——どうして、私は何も感じないのだろう。


 ふと、そんな問いが胸を掠めた。

 それが感情なのか、ただの思考なのかも判別できない。

 彼女は瞼を閉じ、無色の光に身を預けた。



 その日、王都から新たな護衛が城にやって来るという報せがあった。

 エリスにとって、それはただの事務的な変化にすぎなかった。

 けれど、その青年——ジェイスが、彼女の静寂に最初の“ひび”を入れることになるとは、まだ誰も知らなかった。


*****


 春の風が、久しぶりに硝子の城の中庭を撫でた。

 花の香りがわずかに流れ込む。

 それだけのことが、この静まり返った世界には異質だった。


 エリスは塔の窓辺に立ち、外を見下ろしていた。

 白い石畳の上を、ひとりの青年がレイヴンに案内されながら歩いている姿があった。

 陽光を浴びた髪が、淡く風をはらんで揺れた。


 新しい護衛、ジェイス・ローヴェン。

 王都の近衛から派遣されたと聞いていた。

 屈託のない笑みを浮かべる青年――そんな印象を、遠目に見ただけで感じ取る。


 だが、硝子の城の空気は、笑みを許さない。

 外界の温度は、ここではいつも削がれてしまう。

 エリスは、ゆっくりと瞼を閉じた。


 ——きっと、すぐに馴染むことはないだろう。

 この城では、誰もが最初の数日で声を潜めていくのだから。


 それでもその予想は当たらなかった。


「ジェイス・ローヴェンです。姫殿下に仕えることができ光栄です」


 謁見の間に響いた声は、驚くほど真っ直ぐだった。

 硬さも、恐れもない。

 ただ、凛とした誠実さがあった。

 その青年は、硝子の城には似つかわしくないほど、生きた光をまとっていた。


 エリスは玉座の前で静かに頷く。

「ようこそ、硝子の城へ。不自由な場所ですが、よろしくお願いいたします」


 淡々と告げる声の中に、彼女自身も気づかぬ微かな震えがあった。

 “ようこそ”という言葉を久しく使っていなかったせいだ。


 ジェイスは深く頭を下げた後、まっすぐに顔を上げた。

 その青灰の瞳が、エリスを真っすぐに捉える。


「こちらこそ。姫殿下がこの城にいらっしゃる限り、私は風となってお傍におります」


 その言葉に、レイヴンがわずかに眉を動かした。

 形式にそぐわぬ答えだったからだ。

 だが、エリスはなぜか咎める気になれなかった。


 風。

 この城に最も似合わぬもの。

 けれど、どこか懐かしい響きでもあった。


 「風は、ここでは吹きませんよ」と、エリスは静かに告げる。

 ジェイスは一瞬、考えるようにしてから、小さく微笑んだ。


「では、吹かせてみせます」


 レイヴンの視線が鋭く光る。

 けれど、エリスの口元は、ほんのわずかに動いた。

 自分でも気づかぬほど小さな笑みが、硝子のような表情に揺れた。



 この城では、誰もがエリスに深く「触れない」ようにしていた。身体ではなく心にという意味にだ。

 まるで、落としたら割れてしまう硝子細工のようにエリスと心の距離を取っているように感じる。

 けれど、この青年は他の者と違う気がした。

 

 それから数日、ジェイスは彼女の護衛として常に傍らにいた。

 廊下や書庫、祈りの間。

 エリスとジェイスの足音が、静寂に溶ける。

 エリスは何度か振り返りたくなる衝動を抑えた。

 背後には、一定の距離を保ちながらも、確かに“人”の気配がついてくる。

 それが妙に、安心だった。


 日が傾いた頃、エリスは庭園の温室に向かった。

 そこは、唯一の『外』だった。硝子越しの陽光が、淡く花々を透かす。

 彼女はいつもそこに座り、読書をしたり、思考を止めたりして過ごす。


 ジェイスが控えていた。

「殿下、この城は……静かですね」

「ええ。音が少ないのです。人の声も、風も……落ち着くでしょう?」

「……少し、息苦しいです」


 エリスは本から顔を上げた。

 正面からそう言われたことは、今まで一度もなかった。

 彼女は無表情のまま、しかし胸の奥がかすかに動いた。


「どうして?」

「風がないと、生きている感じがしません。

 花も、人も、風があってこそ息をしている気がします」


 ジェイスはそう言い、温室の外の空を見上げた。

 硝子越しの光が彼の横顔を照らし、その瞳に反射する。

 ——光の中の影のように、優しいのにまぶしかった。


「殿下は、外の風が恋しいとは思われませんか?」


 その問いは唐突だった。

 エリスは顔を上げる。

 彼の瞳には、ただの好奇心ではない何かが宿っていた。 


 “恋しい”という感情がどんなものか、わからない。

 けれど胸の奥に、わずかな疼きのようなものが広がった。


「……たぶん、わたしは外の風がどんなものかを忘れてしまったのだと思います」


「それに『恋しい』という感覚を、よく思い出せないのです」


 正直に答えると、ジェイスは小さく頷いた。

「では、これから少しずつ思い出していけばいいですね」


「思い出す……?」


「はい。風にあたったときの匂いとか、春の日の音とか。

 それを感じるたびに、きっと何かが戻ってくると思います」


 その言葉は、どこか優しく、そして無邪気だった。

 “戻ってくる”――何が? と問おうとしたが、口を開く前に風が吹いた。


 ジェイスが少し開け放った窓から、外の空気が流れ込む。

 花の香りと、かすかな土の匂い。

 エリスは思わず息を吸い込んだ。


 胸の奥が、わずかに熱を帯びた。

 驚きに似た感覚。

 痛みではなく、温度。


 胸の奥で、何かが音を立てて動いた気がした。

 それはまだ、ほんのかすかな“ひび”だった。


 けれど、確かに——硝子の心に、最初の温もりが生まれた瞬間だった。




 その夜。

 寝台の上で、エリスは久しぶりに夢を見た。

 硝子の砕ける音。

 そして誰かの泣き声。

 自分の夢なのに、他人の夢を覗いているような夢。


 目覚めたとき、胸の奥が重かった。

 夢の内容はすぐに霧散したが、“痛み”だけが残っていた。

 久しく感じなかった種類の痛み。


 朝、いつものようにレイヴンが来訪した。

「姫殿下、お顔の色が優れませんが……」

「……夢を見ました。けれど、思い出せません」

 エリスの声に、レイヴンの表情がわずかに曇る。


「それは……“封印”のゆらぎかもしれません」

「封印?」


 エリスは静かに首を傾げた。

 レイヴンは一瞬逡巡し、しかしやがて覚悟を決めたように瞳を閉じる。


「かつて、姫殿下の心は——他人の痛みをすべて受け取ってしまっていたのです。泣く子を見れば涙し、病人を見れば苦しみ、戦場で誰かが負傷したと聞けばその痛みを思って何日も眠れない夜を過ごしました。

 このままでは姫殿下の心が壊れると……陛下は恐れられた。そして、『感情封印』の術を使うように命じたのです」


「だから……私の心は何も感じなかったのですね」


「はい。あなたを守るために。それが、陛下の——そして私の、選んだ手段でした」


 静かな沈黙が、二人の間を満たした。

 エリスの指先が、震えていることにレイヴンは気づく。


 エリス自身はそれを意識していなかった。

 けれど、心の奥底で何かが崩れ始めていた。

 “守るために閉ざされた心”——その言葉が、鋭く胸に刺さる。


「もし……私がそのまま壊れていたとしても。

 それでも、感じたかったと思うのは……間違いなのでしょうか」


 その問いに、レイヴンは答えられなかった。

 彼女の瞳には、硝子のような透明な涙が、初めて滲んでいた。


 それはほんのひとしずく。

 けれど、その滴が床に落ちた瞬間、硝子の城のどこかが、確かに小さく鳴った。

 ——まるで、心が軋む音のように。


******


 夜明け前、王城の回廊に薄い霧が流れていた。

 白い朝靄の向こうで、エリスはひとり歩いていた。

 どこへ行くのか、自分でも分からない。ただ胸の奥に、かすかな声が響いていた。

 ――思い出して。

 心の中でもう一人のエリスが囁く。

 それは夢の続きのようで、現の痛みのようでもあった。


 行き着いた先は、封印の間だった。

 レイヴンが彼女の感情を閉ざした場所。

 重い扉を押し開くと、冷気が頬を撫でた。空気は長い眠りの匂いがした。


「……エリス様」


 背後で声がした。振り返ると、ジェイスが立っていた。

 鎧の留め金を外した姿は、いつものように真面目で、それでいてどこか心配そうに。


「子供のころの私は、他人の痛みや悲しみに共感する能力があったそうです。心を身体を壊していく私を心配した陛下とレイヴンが感情封印の術を施したのだと知りました」


 淡々と語るエリスに、ジェイスは言葉を失った。


 部屋の中央に据えられた水晶の装置。

 エリスは、その装置にそっと指先で触れた。

 そこに触れた瞬間、眩い光が迸った。


 胸の奥が熱くなる。

 沈めていた感情が、堰を切ったように溢れてくる。


 痛み、恐怖、孤独、そして――温もり。


 光の中に、小さな自分が見えた。

 王の腕に抱かれ、泣きながら「もうイヤ、誰かの悲しみを感じたくない」と静かに涙を流すエリス。

 その隣で、レイヴンが静かに目を閉じていた。


『このままでは、姫は壊れてしまう……どうか、お許しを』


 宰相の声が、祈りのように響く。

 そして、記憶の扉が閉じた。


 ――ああ、そうだったのだ。

 私は、守られていた。


 涙が零れるのが分かった。

 エリスは両手で顔を覆い、膝をついた。

 張り詰めていた硝子が、ひとつずつ砕けていくようだった。


 ジェイスが駆け寄り、そっと肩に触れる。

 その手の温もりに、エリスは微かに笑った。


「……怖かったのです。誰かの悲しみを感じるたびに、私まで壊れてしまいそうで。感情を無くしたいと願ったのは私だった」


『もし……私がそのまま壊れていたとしても。

 それでも、感じたかったと思うのは……間違いなのでしょうか』

 レイヴンに投げかけた言葉が、エリスの心に刺さる。感情を無くしたいと願ったのは自分なのに、レイヴンのせいにしてしまった後悔の念が押し寄せる。


「私……レイヴンにひどいことを言ってしまいました」 


「大丈夫ですよ。宰相は分かってくれます」


 ジェイスの声は優しかった。

 エリスは頷き、涙の跡を拭った。


 ***


 その日の午後、エリスはレイヴンを呼び出した。

 陽光が差し込む王の庭。

 花々が硝子の壁に反射し、淡い虹を描いている。


「感情を封印したときのことを思い出したの。あなたが私を守ってくれたことを」


 レイヴンは一瞬、驚いたように目を細めた。

 それから、ゆっくりと膝を折る。


「……愚かな行いでした。姫殿下の自由を奪い、光を閉ざしたのですから。感情を失い、無為に過ごす姫殿下の様子を見る度に、本当に良かったのか、私は間違ったことをしたのではないのかと……」


「いいえ。あの時の私を救ったのは、あなたです。貴方がいなければ、私はとっくに心を失っていた」


 エリスは微笑んだ。

 風が金の髪を揺らす。

 その表情は、硝子ではなく“ひとりの少女”のものだった。


「レイヴン、貴方が私の心を守ろうとしてくれたことに、感謝しています。貴方は……私にとって、もう一人の父ような存在です」


 宰相の瞳がわずかに震える。

 その頬を、一粒の涙が伝った。


「……ありがたきお言葉です」


 その光景を、少し離れた場所からジェイスが見守っていた。

 風に揺れる花々の向こうで、彼女がようやく笑っている。

 その笑みは、長い冬を越えた春のようだった。


 ***


 夕刻。

 エリスは城の高台に立ち、静かな空を見上げた。

 沈む陽光が硝子の塔に反射して、城全体が柔らかな金に染まっていく。

 ジェイスが隣に立つ。


「これからは、怖がらずに感じてみたいのです。悲しみも、喜びも――全部、私の中にあるものだから」


「ええ。どんな心でも、あなたのままです。私はエリス様の心も守って行きたいとおもっています」


 エリスは小さく笑った。

 心の奥に、確かな温かさが宿っている。

 それは、もう壊れない硝子の光だった。

 この物語は、「心を守ること」と「心を閉ざすこと」の境界を描きたくて生まれました。

 エリスは、誰かの痛みを感じるゆえに、自分の心を壊してしまいそうになった少女です。

 そんな彼女を救ったのは、心を封じた宰相レイヴンの“痛みから守る”というもう一つの愛でした。

 そして、再び心を取り戻すために必要だったのは、ジェイスという存在の“まっすぐな温かさ”。


 壊れそうな心の奥にも、必ず光が残っています。


 読んでくださったあなたの中にも、硝子のように繊細で、それでも確かに輝く心の欠片が届いていたら嬉しいです。

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