第9話 おまじない♡
「……先輩」
「なに?」
「明日からテストじゃないですか。だから、頑張れるおまじない、私にかけてください」
昼食を食べ終えると、羽田が唐突にそんなことを言い出した。
しかも、なかなか見ないほど真剣な顔で。
「……頑張れるおまじないって、なに?」
「それは今から考えます」
そう答えると、羽田はしばしの間黙り込んでいた。
その隙に、私も弁当の残りを食べてしまう。
「決めました!」
「羽田が今決めたって時点で、おまじないとしての精度が疑わしい気がするんだけど」
「そんなことないです。おまじないなんて、結局は本人が信じることで、自信を持てるようにするのが大事なんですから!」
羽田の意見には私も同意だ。とはいえそれは、おまじないを要求する前に口にすることなのだろうか。
「で、羽田が決めたおまじないって、なに?」
「ふふ、それはですね……」
羽田は得意げに笑うと、私の目の前に右手の甲を差し出してきた。
そして、ほんのりと頬を赤らめながら言葉を続ける。
「右手の親指、人差し指、中指の3本の指にキスしてください」
「……は?」
「この3本の指って、シャーペンを握る指なんですよ。だからほら、おまじないにぴったりでしょう?」
なにがぴったりなのか、全然分からない。しかし羽田の中では明確に意味があるおまじないらしく、無言で右手を差し出してくる。
「羽田、本気で言ってるの?」
「私はいつだって本気です。先輩、ほら、キスしてください」
「おまじない、でしょ」
「やることは一緒です」
ずいっ、と羽田が身を乗り出す。呼吸を感じるほど近い距離は、何度経験しても慣れない。
これって、どうするのが正解?
断れば意識していることになる? でも、普通、女同士だからってこんなおまじないはしないのに。
「先輩。は・や・く」
なぜか、もたついている私が悪いみたいな顔をして羽田が睨んでくる。
無理、と線引きをするのは簡単なはずなのに、唇は脳の命令を無視して閉じたままだ。
これはただのおまじない。
テスト前で、羽田も不安になってるだけ。キスじゃない。おまじないだから。
「……分かった」
大丈夫。結局のところ、私が彼女に溺れてしまわなければいいのだ。指先にキスをしても、私が冷静でいられたら、何の問題もない。
軽く息を吸って、そっと羽田の指先に唇をあてがう。触れるだけでいいのは分かっているのに、つい、味わうようにゆっくりとキスをした。
最初に親指。次に人差し指。
そして、最後が中指。
「かっ、夏鈴先輩、なんか……なんか、え、えっちなキスしてませんっ!?」
自分からキスして、なんて言ったくせに、羽田は顔を真っ赤にして手を引っ込めた。
こんな風に他人に迫っておいて、羽田は自分がどんな目で見られているかを想像しないのだろうか。
妄想の中でなら、私は今の何百倍もえっちなことを、羽田にしたことがあるのに。
「おまじないでしょ。羽田が敏感すぎるんじゃない?」
「……じゃ、じゃあ、私もします」
「え?」
「私も! 夏鈴先輩に同じこと、します」
羽田が勢いよく私の右手を掴む。そしてゆっくりと、私の指先に3回キスをした。
同じことをする、なんて意気込んでいたわりに、ただ触れるだけの呆気ないキスだ。
「ど、どうです? 先輩も……えっちな気持ちになったり、しました?」
上目遣いで見つめられる。首を横に振ったら、嘘になってしまうのが悔しい。
幼い子供がするような触れ合いだとしても、羽田にこんなことを言われた瞬間、私の脳内は沸騰してしまいそうになるのだ。
「なったって言ったら?」
「質問に質問で返さないでください!」
あーもう、と声を出し、羽田は赤くなった頬を自ら両手で叩いた。
そして、涙で潤んだ瞳で私を見つめてくる。
「夏鈴先輩、覚悟してくださいよ! 私、絶対テストで30位以内に入りますから!」
「よかった。おまじない、効果あったみたいで」
からかうように笑ってみせると、先輩の馬鹿! と羽田が頬を膨らませる。
怒った顔まで可愛いなんて、さすがに神様は羽田を贔屓し過ぎだろう。
「羽田。30位以内に入ったら、ご褒美、なにが欲しいの?」
そういえば、具体的な内容を聞くのをすっかり忘れていた。
「夏祭りデートです」
「……夏祭り?」
羽田が口にしたのは、全く予想していないことだった。
「先輩、人混みとか嫌いじゃないですか。それに、8月の祭りなんて絶対暑いですし。でも、私、どうしても先輩と夏祭りに行きたくて……」
「それがご褒美?」
「でっ、できれば先輩にも、浴衣を着てきてほしいんですけど……!」
先輩も、ということは、もちろん羽田も浴衣を着るつもりなのだろう。
浴衣姿の羽田とのデートチャンスを、私が逃すとでも思っているのだろうか。
……思っているのだろう、羽田は。
普通に誘ってくれたら、普通に行くのに。
「いいよ」
「本当ですか!? 私、絶対、30位以内に入ります!」
羽田は、どんな浴衣を着てくるんだろう。
白や黄色は絶対に似合うし、普段のイメージとギャップがある赤や黒も最高だと思う。
想像するだけでにやけそうになってしまいのを我慢し、表情を保つために唇の内側を噛む。
羽田が言った通り、私は人混みが嫌いだ。暑いのだって嫌いだ。
そのはずなのに、両方の性質を持つ夏祭りが楽しみでしょうがない。