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第6話 新しいリップ

「おかえり、夏鈴」


 家に帰ると、美味しそうなバターの香りと共に母が出迎えてくれた。

 土日も仕事で家を留守にすることはあるものの、私より帰りが遅くなることは滅多にないのだ。


「ただいま」

「ご飯できてるから、手洗っておいで」

「うん」


 土日はいつも、私の帰宅時間に合わせてご飯を用意してくれる。平日を一人で過ごすことが多い私への気遣いと愛情だ。

 私が小学五年生だった時に、両親は離婚した。養育費は毎月きちんと支払われているようだけれど、離婚以来、父と会ったことはない。


 手を洗っていると、ピコッ、とスマホが鳴った。私にメッセージを送ってくる相手なんて、一人だけだ。


『お家つきました! 先輩からのご褒美をもらうために、家でも勉強頑張ります』


 もちろん羽田からだ。そしてメッセージだけではなく、可愛い自撮り写真付き。

 すぐに保存してから、頑張ってね、と淡白な返信をしておく。


 リビングに戻ると、テーブルの上にオムライスが並べられていた。お手製のコーンスープも添えられていて、食欲をそそられる。


「いただきます」


 お母さんがいつも用意してくれる食事はどれも美味しいけれど、やはり作り立ての料理は別格だ。


「ねえ、夏鈴。その……最近どう? 学校は」


 私に似て口下手な母は、いつも決まってこんな聞き方をしてくる。そして私も、いつもたいして変化のない返事を口にする。


「普通。特に問題はないよ」

「それなら、いいんだけど」


 楽しい? と聞いてこないのは、中学三年生の私が、楽しさとは正反対の学校生活を過ごしたことを知っているからだ。

 今でもたまに、当時のことを思い出す。いっそ純度100%の嫌な記憶であればいいのに、そこにはどうしたって捨てがたい感情も混ざっていて、だからいつも困ってしまうのだ。


「困ったことがあったら、なんでも言って」

「うん。ありがとう」


 私もお母さんも口数が多い方ではないから、食事中はどうしても沈黙が多くなる。

 けれどテレビをつけないのは、お母さんが私とコミュニケーションをとろうとしてくれているからだ。


 ねえ、お母さん。

 お母さんは今でも、賑やかだった食卓を思い出したりする?


 そう聞けば、お母さんはどんな顔をするんだろう。それが怖くて、私はその質問をずっとできずにいる。





『夏鈴先輩! 今日、新しいリップ使ってみたんです。可愛いですよね?』


 家を出る直前、羽田からそんなメッセージが届いた。もちろん、可愛らしい羽田の自撮り写真付きである。


「……加工のせいで、リップの色味はあんまり分かんないな」


 ノーマルカメラで撮影しても可愛いのに、羽田が送ってくる自撮りはいつも、自撮りアプリで撮影されている。

 加工された写真では、リップの色味が普段と少し違うことなんて分からない。


「夏鈴? どうかした?」

「なんでもない。もう行くよ」

「そうじゃなくて……その、すごく嬉しそうな顔してたから。メッセージ、もしかして……栞ちゃんから?」


 お母さんは羽田に会ったことはない。でも、羽田のことは知っている。

 お母さんのことを安心させるために、仲良くしてくれる子がいるのだという話をしているから。


「……うん、まあ」

「よかった。栞ちゃんと仲良くね」

「うん」


 頷いて、今度こそ家を出た。鋭すぎる太陽の光に辟易しつつ、羽田への返信を考える。

 何もリアクションをしなければ、羽田が自撮りを送ってくれる回数が減ってしまうかもしれない。それは避けなければならない。

 とはいえ正直に称賛の言葉を返してしまったら、私の気持ちがバレてしまう。


 立ち止まって、羽田への返信を入力する。


『写真だとあんまり分かんないから、今日の昼にでも、直接見せて』


 悩んだ挙句私が送ったメッセージは、私の欲望に忠実なものになってしまった。





「先輩!」


 教室に行くと、教室の扉の前に羽田が立っていた。廊下は冷房が効いていないから、羽田の額には汗がにじんでいる。


「……私のこと、待ってたの?」

「先輩が言ったんじゃないですか! リップ、直接見せてって」

「でも、朝くるとは思ってなかった」

「あんなこと言われたら、すぐくるしかないじゃないですか」


 拗ねたように尖らせた羽田の唇は、確かに見慣れない色をしていた。

 青みピンクのリップには大粒のラメが入っていて、小さな羽田の唇がきらきらと輝いている。


「どうです? 似合います? これ、新作なんですよ。夏コスメって、私に似合う色がたくさん出るので!」


 羽田に近づき、しゃがんで目線を合わせる。ぐっと顔を近づけても、リップを見る、という名目があるのだから許されるはずだ。


「せ、先輩? なんか距離……ち、近くないですか?」

「そう? 最近私、ちょっと視力が落ちてて」


 適当な言い訳を口にして、触れてしまいそうなほど近い距離で羽田の唇を観察する。

 羽田の顔があっという間に赤くなって、気づけば、彼女から肩を押されてしまった。


「ち、近すぎますって……っ!」

「ごめん。嫌だった?」


 いかにも意識してません、という表情を作って首を傾げる。本当は全部、わざとなのに。


「い、嫌なわけじゃないですけどっ! その……」


 羽田は軽く息を吸い込むと、私の制服の袖をきゅっと握った。

 上目遣いで見つめられ、鼓動が速くなる。


「……どっ、どきどき、しすぎちゃうので……」


 なにかを期待するような眼差しを向けられて、ああ、やり過ぎてしまった、と内心で反省する。

 羽田は、せっかくのアピールチャンスを無駄にするようなタイプじゃないのだ。


 どうして? とか、もっとどきどきしていいのに、とか、言ってしまいたい言葉はたくさんある。

 だけど私はチャイムのせいにして、何も言わなかった。


「また昼休みね、羽田」

「……先輩」


 責めるように睨まれて、そっと羽田の頭を撫でる。


「リップ、見せにきてくれてありがとう。可愛いよ」


 それだけ言うと、私は羽田に背を向けた。

 本当は、もっと真っ赤になっていく羽田の顔を、何時間だって眺めていたいけれど。

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