第33話 底のない沼
昨日は久しぶりに、すみれのことを思い出してしまった。
彼女のことを今の自分がどう思っているかは上手く説明できない。嫌いだ、と言いきれないくらいには、私は彼女のことを大切に思っていたから。
ベッドから下りて机に勉強道具を広げる。なんとなく食事をする気にもなれず勉強を続けていると、昼過ぎにいきなりインターフォンが鳴った。
立ち上がって、玄関へ向かう。セールスの類なら面倒だけれど、宅配便ならちゃんと受け取っておかないと。
そんなことを考えながら玄関の扉を開けた瞬間、目の前に羽田がいた。
「せーんぱいっ! こんにちは!」
「……羽田?」
「はい! しおりんでーす! でも今日は、しおりんだけじゃないんですよ、ほらっ!」
じゃーん! と言いながら、羽田は私の目の前に大きなスイカを差し出してきた。
丸々としたスイカは、羽田の顔よりもずっと大きい。
「……これは?」
「スイカですよ、先輩!」
「いや、それは見れば分かるんだけど」
分からないのは、なぜ羽田がスイカを持ってきたのか、ということだ。
今日は塾が休みだったものの、羽田と遊ぶ約束はしていない。確か、家族で少し遠くにある業務用スーパーへ出かけることになったと言っていたはずだ。
「なんで、スイカを?」
「ほら、夏といえばスイカ割りかなって! 海には行く時間はありませんけど」
にっこりと笑った後、羽田は一瞬だけ不安そうな顔になる。
強引に押しかけてきて迷惑だったかも、なんていじらしいことを考えているのだろう。
私が、天使の来訪を喜ばないはずがないのに。
「とりあえず、中に入って。スイカも、冷やした方が美味しいでしょ」
「はい! スイカも私も、きっと冷やした方が美味しいですよ!」
そう言ってあざとく笑った羽田を見て、私は心の中で言い返した。
『羽田は絶対、冷やさない方がいい』
その方がきっと、羽田の味が分かるから。
◆
「えっ、今日、お母さんお休みじゃないんですか?」
「うん。土日出勤もあるから」
「……そうなんですね」
少し落ち込んでしまった羽田の前に、冷たい麦茶が入ったコップを置く。一気に飲み干して、ありがとうございます! と羽田が笑った。
「お母さんになにか用事でもあったの?」
「はい。その、この前泊めてもらったじゃないですか。人の家に泊めてもらったんなら、ちゃんとお礼をしないとだめだってお母さんに言われて」
そう言うと羽田は、鞄の中から箱を一つ取り出した。
「こっちはお母さんへのお礼なんです。夏鈴先輩のお母さん、ゼリーとか食べられます?」
おそらく、デパ地下で買ったフルーツゼリーの詰め合わせだ。宿泊のお礼にわざわざこんなものを用意してくれるなんて、羽田の母親はしっかりした人物なのだろう。
「うん。好きだと思う」
「よかったぁ。これ、何個か入ってるので、先輩も食べてくださいね!」
「うん」
「あっ、あとさっきのスイカは、冷えたらお庭でスイカ割りしましょうね。そのために私、スーパーで一番大きなスイカを選んだんです!」
得意げな顔で胸を張った羽田が可愛い。今日は薄手のシャツを着ているから、胸が揺れたのがよく分かった。
「……先輩」
「なに?」
「私がいきなりきて、どう思いましたか? 迷惑でした? ……それとも、嬉しかったですか?」
答えなんか分かりきっているだろうに、羽田はきらきらと輝く瞳でそんな質問をする。
羽田の期待を裏切れるはずがなくて、私はあっさりと頷いてしまった。
「えー? 先輩、ちゃんと声に出して言わなきゃ分かんないですよ? ほら、言ってください。栞に会えて嬉しいって!」
立ち上がった羽田が、先輩ってば、と何度も私の耳元で騒いだ。羽田の息を感じるたびに、変な気を起こしてしまいそうになってしまう。
「羽田」
「栞です」
ぷく、と頬を膨らませた羽田が、ね? と私の肩に手を置いて笑った。
……なんかどんどん、押しが強くなってる気がする。
だとすればそれは確実に、私が前よりも深く羽田にハマっているということなのだろう。少なくとも出会ったばかりの羽田は、こんなにぐいぐいくる子ではなかったから。
「せーんぱい。栞ですよ? し・お・り」
栞。しおり。シオリ。
たった三文字だけの、でも、この世で最も愛おしい存在を示す言葉。
「私きっと、先輩が名前で呼んでくれるようになったら、先輩のことをもっと好きになっちゃうと思います」
そう言って、羽田は笑った。小悪魔みたいな天使の笑顔。
少しずつ、足元が崩れていくような感覚だ。羽田の魅力は底なし沼のようで、好きに終わりが見えない。
「……栞」
「はい。夏鈴先輩の栞ですよ?」
この世の全ての幸福を詰め込んだみたいな笑顔で、羽田が笑う。この笑顔を見られるのなら、沼の底で全てを失ったって後悔しないんじゃないだろうか。




