第3話 狡すぎます!
「ていうか先輩、いい加減その『羽田』って呼ぶのやめてくれません?」
「……なんで?」
「前から何回も言ってるじゃないですか! 私、下の名前で呼んでほしいって!」
羽田のことは、出会った時から羽田と呼んでいる。そして今に至るまで、こうして何度も文句を言われてきた。
その度に首を横に振ってきたのに、それでも羽田は何度も同じ要求を口にするのだ。
「今さら、呼び方を変えるのって難しくない?」
「最初から栞って呼ばない先輩が悪いんです!」
「……最初の話を今されても」
「じゃあいつ栞って呼んでくれるんです!?」
そう言って、羽田は名前で呼ばれたい理由を話し始めた。
苗字で呼ばれるのは可愛くないとか、仲が悪いみたいだとか。合理的な理由なんて1つもないのが羽田らしい。
だって彼女は結局のところ、私に下の名前で呼ばれたいだけなのだから。
「私の友達だってみんな、私のこと、栞とか、しおりんって呼ぶんですよ? 羽田なんて可愛くない苗字で呼ぶの、先輩だけです」
「そう? 羽田って苗字、可愛いと思うけど」
苗字で呼ぶな、と主張するくせに、苗字を褒められても羽田は嬉しそうな顔をする。
それはそうかもしれないですけど、なんて言いながら、彼女は俯いてしまった。
「……だって先輩、みんなのこと苗字で呼ぶじゃないですか」
「まあね」
「なんか、私がその他大勢扱いされるなんて、あり得なくないですか? この私がですよ? 絶対、おかしいです」
勢いよく顔を上げた羽田が、私の手を掴んだ。冷房の効いた部屋にいるとは思えないほど熱い手のひらは、羽田の心の中を表しているのだろうか。
黙っていると、ぎゅ、とそのまま強く手を握られた。
「……夏鈴先輩」
「なに?」
「夏鈴先輩にとって私って、その他大勢なんかじゃないですよね?」
羽田の言葉は、いつだってストレートすぎる。
女同士だからだろうか。それとも羽田はいつだって、好意を抱いた相手にはこんな風に振る舞うのだろうか。
彼女の知りもしない過去を想像する度に、胸の中に黒い煤のようなものがたまってしまう。
「羽田くらいだよ。私なんかに構うのは」
「それって、私が特別、ってことで合ってます?」
今日の羽田の真っ直ぐさは、いつも以上かもしれない。夏が近づいてきているからだろうか。夏の暑さは、人をおかしくしてしまうから。
「合ってますよね?」
「……羽田は、どうなの」
動揺を悟られないように、余裕ぶった態度でコーヒーフロートを口に運ぶ。
羽田は、覚悟を決めたような顔で頷いた。
「特別ですよ。だから私、毎日先輩と一緒にいるんです。私のこと誘ってくる友達も、男子も、いくらでもいますけど、私は先輩を誘うんです」
宝石みたいに綺麗な瞳が、いっそ、私の心を全部暴いてくれないかな、と思ってしまう時がある。
そうすれば、何も考えずに、今すぐ羽田のことを抱き締められるかもしれないのに。
「先輩は友達とかいないから、気づかないのかもしれないですけど……私って相当、先輩のこと好きなんですよ?」
私だって好きだよ。
初めて羽田の笑顔を見た時から、ずっと。羽田が私を好きになるより、私が羽田を好きになったのが先って知ってる。
「……私も、羽田は特別。私のスマホ、羽田と家族しか連絡先登録してないし」
「さすがにそれは、ちょっと引きますけど」
なんて幸せそうに笑いながら、羽田は言葉の続きを期待するような目を向けてくる。
でもだめだ。これ以上は、言えない。
「それより、そろそろ帰らないと。門限あるでしょ?」
「……はーい」
がっかりした顔で荷物をまとめる羽田を見ながら、いつか羽田が私に飽きてしまうことを想像して辛くなる。
いつまで経っても欲しい言葉をくれない相手のことを、羽田はあとどれくらい好きでいてくれるのだろう。
羽田が私から離れてしまいそうになったその時、私は、みっともなく羽田に縋ってしまうのだろうか。
「羽田」
「なんです?」
「……土曜の昼、外で食べようと思ってるんだけど」
羽田は数回まばたきをくり返した後、にや、と口角を上げた。
「もしかしてそれ、一緒にお昼ご飯食べよう、って誘ってます? 先輩、そういうのってちゃんと言った方がいいですよ? 私じゃなかったら、気がつかないかもしれませんから」
本当に先輩はしょうがないですねぇ、と羽田が私の頬をつついてきた。やめてよ、と言っても、羽田は全くやめない。
「先輩って素直じゃないですよね。私みたいに可愛い上に察しがいい子じゃないと、先輩の相手はできないですよ?」
「……羽田に伝わればいいから」
つい、本音が口からこぼれてしまった。一瞬で顔を真っ赤にした羽田が、口をぽかんと開けて私を見つめる。
「レジ行くよ、羽田」
伝票を持って立ち上がる。歩き出した瞬間、狡すぎます! という羽田の叫び声が背後から聞こえた。