第18話 日常と羽田
「今日、家に誰もいないんですよね」
塾の帰りに駅まで向かっている最中に、羽田がそう口にした。
言葉の意図を考えて立ち止まってしまった私を、羽田が不思議そうな顔で見つめてくる。
どうやら別に、私を誘ってくれていたわけではないらしい。
「お母さん達、おばあちゃんの家に行っちゃってて」
「……夕ご飯とか、どうするの?」
「お小遣いもらってるので、コンビニででも買って帰ろうかなって。先輩が一緒に食べに行ってくれたら、本当は一番だったんですけど」
羽田はスマホで時間を確認し、溜息を吐いた。現在の時刻は午後9時過ぎ。夕食を食べて家に帰る、という選択肢を私達がとるには、遅すぎる時間だ。
「あーあ。寂しいなぁ。でも私、塾に行けば先輩に会えるから、みんなとおばあちゃんの家に行くの我慢したんですよ?」
「……勉強するためでしょ」
「先輩に会うためです!」
そう断言するのは、学生としてはかなりまずいだろう。とはいえ、私への威力は相変わらずの強さだ。
「ねえ、先輩。ご飯は無理でも、ちょっとカフェとか、コンビニで寄り道くらい……だめですか?」
「だめ。羽田の帰りが遅くなったら、心配だから」
しょんぼりとした顔で羽田が俯いてしまう。でも、暗い夜道を羽田に歩いてほしくないのだ。
「……羽田。たとえば、だけど」
私が口を開くと、羽田が期待に満ちた眼差しを向けてきた。まるで捨てられた子犬みたいだ。
生ぬるい風が吹いて、羽田のスカートを揺らす。もっと強い風が吹けば、なんて邪な考えをなんとか消して言葉を続けた。
「今晩、うちに泊まる? って聞いたら……どうする?」
「絶対行きます」
1秒も間を置かず、羽田は即答した。
「じゃあ、きたら? 明日は夏期講習ないし、元々、一緒にどこかで勉強する約束してたし」
意識していません、みたいな顔をなんとか作っているだけで、私の心臓はおかしくなってしまったのかと思うほど速く鼓動を刻んでいる。
大丈夫だ。私はただ、家に一人になってしまった同性の後輩を家に誘っただけ。
別に、一線を越えようとしているわけじゃない。
「あっ、待ってください、じゃあどこかで手土産とか……」
「大丈夫。今日、うちにも誰もいないから」
「……え?」
顔を真っ赤にした羽田がなにを想像したかなんて、聞かなくても分かる。たぶん、私と同じことだ。
でもきっと羽田の想像は、私の脳内よりもずっと綺麗なんだろう。
「どうする?」
「ぜっ、絶対、絶対に行きます、這ってでも!!」
前のめりで返事をした羽田の声は、聞いたことがないほど上擦っていた。
◆
「せ、先輩の家ってこんな感じなんですね……」
「普通でしょ」
私の家は、ごく一般的な一軒家だ。小さな庭もついているけれど、母も私も手入れなんてしないから荒れ放題である。
「どうぞ」
玄関の扉を開けると、おじゃまします、と丁寧に言ってから羽田が中へ入った。
靴を綺麗にそろえて脱いで、特筆すべきところなんて一つもない我が家を感動した顔で眺めている。
後輩を家に泊めたいのだと出張中の母に連絡を入れたら、すぐに大喜びのメッセージが返ってきた。
私が誰かを家に呼ぶなんて、すみれ以来だからだろう。
「とりあえず、リビングでご飯食べようか」
家へ帰る途中、コンビニで弁当を買ってきた。せっかく温めてもらったし、まずは腹ごしらえが先だ。
冷房のオンにして、羽田と並んでソファーに腰を下ろす。羽田はやたらときょろきょろしていた。
「先輩のご両親って、今日は旅行とかですか?」
「お母さんは出張。お父さんはいない」
あっさり私が答えると、羽田は、あ……と青ざめた顔になった。口をぱくぱくさせて、次に言う言葉を必死に探している。
とっさに謝ってこないところが、好きだなと思った。
「気にしなくていいよ。私が小学生の時に離婚しただけだから」
「……そうだったんですね」
「うん。本当に、気にしなくていいから」
羽田の頭に手を伸ばし、優しく撫でる。躊躇いながらも微笑んだ羽田を見て、彼女がどれほど愛されて育ったかを改めて感じた。
私みたいなのと一緒にいることを知ったら、羽田の家族は悲しむんじゃないだろうか。
「それより、飲み物持ってくる。烏龍茶でいい?」
「あ、はい。大丈夫です!」
烏龍茶をコップにそそぎ、羽田のところへ戻る。目が合うと羽田がにっこりと笑った。
「先輩」
「なに?」
「こういうのもいいですね。夜遅いし、コンビニ弁当ですけど……先輩となら、楽しいなって」
「……確かにね」
いつものリビングに羽田がいる。私の日常に、羽田が入り込んできた。
もし羽田と日常を重ねられたら、どれだけ幸せだろうか。羽田とならありふれた日常も、幸せに溢れた特別になるのだろう。
「ねえ先輩。今日は、夜更かししちゃいましょうね!」




