こんなに愛しているのに
「何よ、これ……」
私は目を疑った。
誰もいないはずの私の部屋。今そこへ入ったところなのに、誰かが食事をした跡が残されていたのだ。テーブルの上には、空になったコンビニ弁当の容器とビールの空き缶。
私は怯えながら周囲を見渡した。何者かが潜んでいるのかも知れない。恐る恐るリビングからキッチン、バス、トイレと見回る。が、誰の姿もなかった。
私は深い安堵の息をついたものの、胸に残る嫌な感じに、吐き気すら覚えた。気持ち悪くて仕方がない。
――あいつだわ。
私の頭に、一人の男が思い浮かんだ。そう、あいつの仕業に違いない。
はじめてその男を見たのは先週の頭だった。
仕事からの帰り。最寄の駅からマンションまでは、街灯も少なくずっと暗い道が続く。いつものように用心しながら歩き、やっとマンションが見えてきたその時、私は思わず立ちすくんだ。
――あの人、何してるの!?
マンション一階には各部屋の郵便受けが並んでいるのだが、そこで知らない男が、私の部屋のそれを漁っていたのだ。
私は両手で口を覆い、悲鳴を飲み込んだ。気付かれては何をされるか分からない。私は足音を忍ばせて来た道を戻り、とにかく明るい所へと思い、駅前の喫茶店で震えながら時間をつぶした。
随分時間を空け、びくびくしながらマンションへ戻ってみると、そこにはもう誰もおらず、郵便受けもふたがしっかりと閉じていた。
――見間違いだったのかしら。
郵便受けはナンバーロック式だから、簡単には開けられないはず。それに各部屋の郵便受けがここに集中しているのだし、薄暗いのだから見間違えたとも考えられる。恐がりで慌て者の自分に恥ずかしくなりながら、その日はそれ以上気にしなかった。
でも、それで終わらなかった。
次の日も、その男はマンションの前で待ち構えていた。私はすっかり恐くなって、すぐさま駅まで戻ると、喫茶店で時間が過ぎるのを待った。やはり時間を置くと、あの男の姿はマンションから消えていた。
そしてそれが何日も続いた。私はマンションより先に喫茶店へ行って、ひたすら時が過ぎるのを待つようになった。恐くて仕方がない。
――あれ? でも……。
喫茶店にいる私に、ふと別の考えが浮かんだ。
あまりの恐怖に、今まで深く考えなかったのだけど、もしかしたら、あの男は私を付け狙っているんじゃないのかも知れない。思えば、最初に郵便受けを漁っている姿を見ただけで、それが私の部屋のだったかは確信が持てないし、それ以外で特にまだ何をされたという訳でもない。
――もしかしたら、そそっかしい私の自意識過剰?
そんな風に思い、私は喫茶店を出ると、意を決してマンションへと向かった。
――今日もいる。
物陰に隠れながら覗くと、やはりマンションの前に例の男が立っている。三十代半ばくらいだろうか。今までじっくり見た事は無かったが、思っていたより若い印象だった。
私は、大丈夫きっと思い過ごしだ、と自分に言い聞かせながら、震える足でゆっくりとマンションの入り口の方へと歩き出した。極力、その男は見ないように。そう、きっと私を狙っているんじゃない。
はずだった。
「おい……」
男は私の姿を見ると、顔色を変え、声をかけてきた。そして、今にも駆け出してきそうになった。
「イヤ!」
私はあまりの恐ろしさに、悲鳴をあげながら、振り返りもせずに駅の方へと走り出した。
全力で走った。捕まれば、どんな目に合わされるか分からない。私は夢中で走り、やがていつもの喫茶店に飛び込んだ。物陰から店の外を伺うが、例の男の姿は無い。どうやら振り切ることができたらしい。私は店員の目も気にせず、荒げた息もそのままに椅子に倒れこんだ。気が狂いそうだった。
――彼に電話しよう。
私には彼氏がいる。お互いに忙しくなかなか会えないので、普段は電話などでやり取りしている。寂しいが、それでも彼を好きだから我慢できた。そんな彼に、今起こっていることを相談しようと思ったのだ。が、思いなおした。
――駄目。心配をかけてしまう。
私は忙しい彼の負担になりたくなかった。開きかけた携帯電話をしまい、その日は一晩中やっているその喫茶店で夜を過ごした。
そんな事があって、私は仕事の時間を変えた。私の仕事は時間に融通が利くので、夜中に働いて、明け方に終わる、という時間帯にしたのだ。そうすれば少なくともあの男を見ずに済む。
これはとても効果的だった。
私はマンションまでの夜道を歩かなくてもいいし、例の男もいない。私は晴れ晴れした気持ちで部屋へと入った。
でも、今。
目の前には明らかに他の人間がいた形跡が残っている。部屋には弁当の容器と空き缶が二つ。誰かがいたことは間違いない。
「あいつだわ……」
私は携帯電話を取り出した。彼氏に言おう。もう我慢できない。
と、その時だった。重苦しく入り口のドアが開く音。私は息を飲んだ。
――まさか!?
私は驚きのあまり、悲鳴をあげることさえできなかった。恐る恐る玄関を覗き込む。
そこに一人の男が立っていた。
「嫌ッ!」
逆光で顔は見えない。だが、きっとあの男に違いない。私は恐怖におののいた。男はのっそり歩いてくる。やがて近づいてきた男の顔に差し込んだ窓からの光。
それは、私の彼だった。
「もう、脅かさないでよ」
私は力が抜けその場に座り込んだ。
良かった、彼で。こうなったら、すべてを話そう。普段は会えず、電話や手紙でやり取りをしている彼だけど、力になってもらおう。
「警察に電話して! ここに入った奴がいるのよ!」
彼は、私の腕を掴んだ。
「ああ、分かってる。それに警察にも、もう連絡してある」
彼はそう言うと、後ろを振りかえった。
「これは不法侵入だよな?」
彼が背後に向かって話しかけた相手。それは、例のあの男だった。
――え?
「ああ。毎晩張り込んでいたんだが、まさか日中に入ってくるとは」
――何? どういう事?
「張り込んでくれて助かったよ。郵便受けに変な手紙は入ってるし、参ってたんだ」
――やめて。
「おい、女。ここは俺の部屋で、お前の部屋じゃない」
――嘘よ。私たち二人の部屋よ!
「言いたいことは警察で言え、このストーカー女!」
――ひどい。どうしてそんな事言うの?
私はこんなに愛しているのに。