第4話:ハーレインの貧しさとサトイモの種
オルティア王国の南部、ホンヘル男爵領の辺境に位置するハーレインは、王都ルミエールの華やかさとはまるで別世界だった。
馬車がガタゴトと進むにつれ、ニーナ・ホンヘルの視界に広がったのは、荒涼とした風景だった。
痩せた土にまばらな雑草が生え、木造の家々は風雨にさらされて傾きかけている。
道端にはやつれた村人たちが立ち、子供たちは頬がこけて目だけが大きく見えた。
市場と呼べる場所には、硬い黒パンと薄いスープがわずかに並ぶだけ。
笑顔はどこにも見当たらなかった。
「こんな……こんなひどい状況、見たことない……」
ニーナは馬車の窓から外を眺め、思わずつぶやいた。
前世の日本の田舎町では、貧しくても笑顔と温もりに満ちた暮らしがあった。
だが、ハーレインには希望の欠片すら感じられない。
彼女は膝の上の麻袋をぎゅっと握りしめた。
サトイモのゴツゴツした感触が、彼女の心をわずかに落ち着けた。
「でも、落ち込んでる暇はないよね。サトイモ、私の相棒。ここから始めよう!」
ニーナは自分を奮い立たせるように笑い、馬車から降り立った。
埃っぽい道に足を踏み入れ、彼女は小さな荷物とサトイモの麻袋を抱えて村の中心へ向かった。
ハーレインは小さく、村人たちの視線が新参者の彼女に集まる。
だが、その目には好奇心よりも猜疑心が強く、ニーナは少しだけ気後れした。
村外れに小さな小屋を見つけ、ニーナはそこを借りることにした。
屋根には穴が開き、壁は薄く、冬の寒さが心配だったが、彼女にはそれで十分だった。
小屋の裏には小さな空き地があり、畑にするにはちょうどいい。
彼女は麻袋を開き、サトイモを一つ手に取った。
朝陽に照らされたゴツゴツした芋は、まるで希望の種のように見えた。
「よし、このサトイモたちが、私の新しいスタートよ!」
ニーナは鼻歌を歌いながら、小屋に荷物を置いた。
彼女の手帳には、初級鑑定スキルで調べたサトイモの育て方がびっしり書かれている。
土の性質、水はけ、肥料の量――前世の知識とスキルを組み合わせれば、どんな痩せた土地でもサトイモは育つと信じていた。
村長の家を訪ね、ニーナは畑を借りる許可をもらった。
村長はマリアという老女で、皺だらけの顔に鋭い目を持っていた。
彼女はニーナをじろりと見て、渋々頷いた。
「若い娘がこんな辺境に来るなんて、変わってるね。畑? 使ってない土地ならいくらでもあるよ。だが、こんな痩せた土で何を育てるつもりだい?」
ニーナは笑顔で答えた。
「サトイモです! 美味しい作物ですよ。半年もすれば、村のみんなで食べられます!」
マリアは眉を上げ、半信半疑の表情を浮かべた。
「ふん、妙な芋だね。まあ、好きにしな。失敗しても、誰も文句は言わんよ」
その言葉に、ニーナは胸を張った。
「失敗しません! 絶対、美味しいサトイモを育ててみせます!」
翌朝、ニーナは早起きして畑に向かった。
村外れの痩せた土地は、岩と雑草だらけだった。
彼女は初級鑑定スキルを発動し、土の状態を丁寧に調べた。
視界に浮かぶ透明な文字が、土の栄養不足と水はけの悪さを告げる。
だが、ニーナはめげなかった。
前世で祖父から学んだ知恵を思い出し、土を深く掘り返し、近くの川から運んだ砂を混ぜて水はけを改善した。
「ふう……腰が痛いけど、気持ちいい!」
ニーナは汗を拭いながら、シャベルを手に笑った。
太陽が頭上に昇り、額に汗が光る。
村人たちは遠くから彼女を眺め、ひそひそと話していた。
奇妙な塊を植える若い娘に、興味と不信が混じった視線が注がれる。
「お嬢さん、それ何だい? そんなゴツゴツしたもん、食べられるのか?」
背後から声がした。
振り返ると、がっしりした体格の青年が立っていた。
19歳のルーク、村長マリアの息子だ。
日に焼けた顔は精悍だが、栄養不足で頬が少しこけている。
彼の目は好奇心に満ち、ニーナの手元のサトイモをじっと見つめていた。
「うん、これはサトイモ! 半年もすれば、ホクホクの美味しい作物になるよ!」
ニーナは笑顔で答えたが、ルークは鼻で笑った。
「ふーん、変な芋だな。まあ、失敗しても笑わないでおくよ」
そのぶっきらぼうな言葉に、ニーナは少しむっとしたが、すぐに笑顔に戻った。
「ルーク、覚えててね。絶対、美味しいって認める日が来るから!」
ルークは肩をすくめ、去っていった。
ニーナは再びシャベルを手に、畑仕事に没頭した。
朝から夕方まで、汗と土にまみれながらサトイモを植え続けた。
痩せた土に小さな苗を一つ一つ丁寧に植え付け、彼女は前世の記憶を思い出した。
日本の田舎で、家族と一緒に畑を耕した日々。
土の匂い、シャベルの重さ、収穫の喜び――それらが、彼女の心を満たした。
夜、小屋に戻ったニーナは、粗末な木のテーブルにサトイモを一つ置いた。
ランタンの灯りに照らされた芋は、まるで彼女の決意を映し出すようだった。
彼女は手帳を開き、新しいメモを書き加えた――「ハーレインの土、栄養不足。堆肥が必要。川の砂で水はけ改善済み。サトイモ、育ってね!」。
「この村、変えられるかな……」
ニーナは窓の外を見やった。
ハーレインの夜は静かで、星空が広がっている。
だが、村人たちのやつれた顔が脳裏に浮かぶ。
子供たちの空っぽの目、市場の貧しい品々。
彼女はサトイモを手に取り、そっと握った。
「サトイモ、あなたならできるよね。みんなの笑顔を取り戻す、第一歩になるよね」
彼女は小さく微笑み、ベッドに横になった。
粗末な毛布に身を包み、ニーナは目を閉じた。
疲れ果てた体に、土の感触がまだ残っている。
彼女の夢には、サトイモ畑が広がり、子供たちが笑いながら芋を掘る光景が浮かんだ。
翌日、ニーナは再び畑に出た。
村人たちの視線はまだ冷ややかだったが、彼女は気にしなかった。
シャベルを手に、土を掘り、苗を植える。
その単純な動作が、彼女に希望を与えた。
ある日、畑のそばで子供たちが興味深そうに覗いているのに気づいた。
やせ細った少年と少女、ぼろぼろの服を着た彼らが、ニーナの作業をじっと見つめている。
「ねえ、お姉ちゃん、それ何? 食べられるの?」
少年が小さな声で尋ねた。
ニーナは笑顔で振り返った。
「うん、サトイモだよ! もう少ししたら、美味しいご飯になるんだから!」
少女が目を丸くした。
「ご飯? こんな石みたいなのが?」
「ふふ、そうだよ! 信じて、待っててね!」
ニーナの明るい声に、子供たちは少しだけ笑顔を見せた。
だが、彼らの目はまだ疑いに満ちていた。
ハーレインの貧しさは、希望を信じることを難しくしていた。
ニーナはそれを肌で感じ、胸が締め付けられた。
「絶対、美味しいサトイモ、食べてね!」
彼女は子供たちにウインクし、畑仕事に戻った。
シャベルの音が響き、汗が土に落ちる。
村人たちの視線はまだ冷ややだが、少しずつ好奇心が混じり始めていた。
ルークも時折畑のそばを通り、ぶっきらぼうに声をかける。
「まだやってるのか、お嬢さん。熱心だな」
「ルーク、ただのお嬢さんじゃないよ! サトイモ令嬢、って呼んで!」
ニーナは笑いながら答え、ルークは苦笑して去っていった。
彼女の明るさが、村に小さな風を吹き込んでいた。
数週間後、ニーナの畑に小さな芽が出始めた。
サトイモの葉が、痩せた土から力強く顔を出す。
彼女は膝をつき、芽をそっと撫でた。
初級鑑定スキルで確認すると、芽は順調に育っている。
彼女の胸に、希望の火が灯った。
「やった……育ってる! サトイモ、ありがとう!」
ニーナは笑顔でつぶやき、手帳にメモを加えた――「芽が出た! あと5ヶ月、収穫が楽しみ!」。
彼女は空を見上げ、深呼吸した。
ハーレインの空は広く、どこか寂しげだったが、彼女には未来が見えた。
サトイモ畑が広がり、村人たちが笑顔で芋を囲む光景。
彼女はその夢を胸に、シャベルを握り直した。
だが、ハーレインの貧しさは、ニーナの想像以上に根深かった。
村人たちの心を動かすには、サトイモの収穫だけでは足りないかもしれない。
彼女はまだ知らなかったが、この小さな畑が、村の未来を変える第一歩となるのだ。